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第8話:綾の秘密と、見えない糸

本日2話目です



 午後の授業中、窓の外の空は、まるで腐った果実のような嫌な色に濁り始めていた。


 分厚い鉛色の雲が太陽を隠し、生温かく湿った風が、校庭の砂を不吉な音を立てて巻き上げている。

 教室の中は、数名の女子生徒が欠席、あるいは保健室へ運ばれたことで、あからさまに空席が目立ち、まるでお通夜のような陰鬱な空気に支配されていた。


 日高清春は、ノートに書き写すシャーペンの手を止め、ふと窓の外へと視線を向けた。

 視界の端に映るのは、旧校舎の黒々としたシルエット。

 そして。


「……なんだ、あれ」


 清春は、思わず目を擦った。

 旧校舎の屋上付近から、どんよりとした空に向かって、何か「細くて不気味なもの」が無数に伸びているのが見えたのだ。


 それは、蜘蛛の糸だった。

 いや、ただの蜘蛛の糸ではない。物理的な実体を持たない、薄汚れた紫色に発光する、霊的な粘液の糸。

 それが、旧校舎の暗がりから何本も、何本も空に向かって射出され、学園の敷地を越えて、遠く住宅街の方角へと扇状に伸びていたのだ。


『マスター。見えていますね。あなたの「先祖返り」としての霊視能力が、徐々に覚醒しつつあります』


 机の下のポケットの中で、シキが静かに告げた。


(……シキ。あの糸は、なんだ? 旧校舎から、街の方へ繋がってるみたいだが)


『あれは「因果の糸」です。あるいは、呪いの牽引索と呼ぶべきでしょうか。……マスター、八束綾が「土蜘蛛」の混血であることはすでにお話ししましたね』


(あぁ。血が甘くて、怪異を引き寄せるんだったよな)


『ええ。しかし、土蜘蛛という妖怪の本質は「血の匂い」だけではありません。彼らの最大の武器は、自らの体から無尽蔵に生み出す「糸」によって、空間に巣を張り、獲物を絡め取ることです。本来であれば、彼女の魂からも、外界の危険を察知し、自分を守るための見えない防衛線としての糸が出ているはずなのです』


 シキの言葉に、清春の背筋がスッと冷たくなった。


『しかし、彼女はあまりにも血が薄く、力が弱い。その結果、自分の魂から伸びる糸をコントロールすることができず、無防備に周囲に垂れ流している状態になっています。……旧校舎に巣食う吸精鬼たちは、その垂れ流された彼女の「糸」を、逆に利用しているのです』


「逆に、利用する……?」


 清春は、思わず声に出して呟いてしまった。

 隣の席の生徒が怪訝な顔でこちらを見たが、今はそれどころではなかった。


『はい。怪異たちは、彼女の魂から伸びる糸の先端を掴み、旧校舎の奥深くから、ズルズルと、力任せに巻き上げているのです。物理的な距離など関係ありません。魂の根本を糸で縛られ、引っ張られ続けている以上、彼女の意識は常に怪異の巣へと引き寄せられます』


 シキの合成音声が、残酷な事実を淡々と紡ぎ出す。


『彼女が今日、学校を休んで自宅にいたとしても。あの糸が繋がっている限り、彼女の精神は常に薄暗い図書室の閉架書庫に閉じ込められ、無数の化け物に舐め回されているのと同じです。そして……魂を引っ張られ続けた肉体は、やがて無意識のうちに、その糸の引き寄せられるまま、自ら死地(旧校舎)へと歩みを進めることになります』


「……そんな馬鹿な。じゃあ、八束さんは今、家で……」


『ええ。極限の恐怖と貧血による意識の混濁の中、自分でも理由が分からないまま「学校に行かなければ」という強迫観念に支配されているはずです。……見えますか、マスター。あの糸の張りが、少しずつ強くなっているのが』


 清春が再び窓の外を見ると、確かに、住宅街へと伸びていた紫色の糸が、ピンと張り詰め、旧校舎の側へと少しずつ、少しずつ巻き取られているのが分かった。


 まるで、釣竿にかかった小魚を、巨大な怪物がゆっくりと手繰り寄せているように。


(……生徒会長は、どうしたんだ。御子柴は、これに気づいてないのか?)


『御子柴天音の使役する「犬神」は、あくまで物理的な結界の維持と、直接的な戦闘に特化した力です。旧校舎の出入り口を封鎖することはできても、このような霊的な次元での「魂の綱引き」を知覚し、切断する術は持っていません』


 つまり。

 あの見えない糸に縛られ、操り人形のように地獄へと引きずり込まれようとしている少女を救えるのは、この学園に一人しかいない。


 この紫色の糸を視認でき、それを断ち切るだけの絶対的な力を持つ『規格外の妖怪』。

 日高清春の中に眠る、白鐘の姫だけなのだ。


「……くそっ……!」


 清春は、シャーペンを握る手にギリッと力を込めた。

 芯がポキリと折れ、ノートに黒い線を引いた。


 俺は、事なかれ主義だ。

 あの子がどうなろうと、俺の知ったことじゃない。

 関われば、絶対に平穏な日常が壊れる。

 自分の中の「あいつ」が目覚めて、取り返しのつかない暴走をしてしまう。

 逃げろ。見なかったことにしろ。

 心の底で、小市民としての理性が必死に警鐘を鳴らしている。


 だが。

 それと同時に、清春の下腹部の奥底で、泥のように熱く、そしてひどく『淫らな感情』が渦を巻き始めていた。


 ――不快だわ。


 脳の奥底から、自分のものではない、鈴を転がすような女の声が響いた気がした。


 ――私の目の前で、あの薄汚い泥どもが、私の獲物に卑しい糸を巻きつけているなんて。


 ドクン、ドクンと。

 心臓が、甘い熱を帯びて跳ねる。

 清春の体が、じわりと汗ばんでいく。


 それは、大妖怪『清姫』としての、強烈な独占欲と縄張り意識だった。

 弱者を慈しむ正義感などではない。

 ただ純粋に、自分が「可愛い」と思った獲物が、他の下等な虫けらに傷つけられ、汚されることが、プライドとして許せないのだ。


 あの震える図書委員の少女を縛り付けていいのは、醜い蜘蛛の糸などではない。

 私が直接、あの首筋に腕を絡め、逃げ場のないほど強く抱きしめて、私の甘い猛毒(匂い)で身体の奥底まで染め上げてやるべきなのだ。

 あの赤い唇をこじ開け、舌を這わせ、極上の体温を交わしながら、恐怖と快楽でドロドロに溶かして。

 私以外の何者にも怯える必要がないように、私だけの所有物として完全に作り変えてしまう。


「……っ、はぁ、はぁっ……」


 清春は、自分の口から漏れそうになる熱い吐息を、必死に両手で押さえ込んだ。

 まずい。

 理性が、牝の捕食者の本能に塗りつぶされそうになっている。

 あの糸を断ち切りたい。

 あの少女を助けて、そして、俺の手で滅茶苦茶に蹂躙したい。


 そんな倒錯した欲求が、清春の思考を真っ黒に染め上げていく。


『マスター。心拍数が危険域に達しています。体内の妖力が、変身の臨界点を突破するまで、あとわずかです』


(……抑える。絶対に、俺は、行かない……!)


 清春は、机に突っ伏し、目を強く閉じた。

 放課後のチャイムが鳴り響くまで、彼はただひたすらに、己の内側で暴れ回る「怪物」の鎖を必死に握りしめ、耐え続けていた。


 そして、放課後。

 清春は逃げるように教室を飛び出し、旧校舎の方角には一切目を向けず、いつもの家庭科室へと駆け込んだ。


 バンッ! と扉を閉め、内側から鍵をかける。

 荒い呼吸を繰り返しながら、冷蔵庫を開け、手当たり次第に材料を取り出す。


「……作る。お菓子を、作るんだ。……甘い匂いを嗅げば、誤魔化せる」


 無心になって、小麦粉を量り、バターを溶かす。

 今日は、ただひたすらに砂糖を焦がし、濃厚なキャラメルソースを作ろうとした。

 甘く、焦げた匂いで、この鼻腔にこびりついている「怪異の腐臭」と「自分の中から湧き上がる淫らな匂い」を上書きするために。


 鍋の中で、砂糖がグツグツと音を立てて茶色く色づいていく。

 甘く、香ばしい匂いが家庭科室に充満する。


 だが。

 どれだけ濃厚なキャラメルの匂いを嗅いでも、清春の脳裏から、あの紫色の糸の残像が消えることはなかった。


 むしろ、甘い匂いは、綾から漂っていた「古い紙と、湿り気を帯びた少女の匂い」の記憶をフラッシュバックさせ、清春の下腹部の熱をさらに昂ぶらせるだけだった。


「……くそっ、なんでだよ……。俺は、俺はただの男子高校生なのに……!」


 清春は、泡立て器をボウルに投げ捨て、その場にへたり込んだ。


『マスター。報告します』


 無情にも、シキの声が静寂を切り裂いた。


『対象「八束綾」のバイタルサインが、学園の敷地内に侵入したことを確認しました』


「……なんだと!?」


 清春は、弾かれたように顔を上げた。


『彼女は今、完全に意識を失った夢遊病のような状態で、正門を抜け、旧校舎へと歩を進めています。……怪異の牽引索(糸)による、強制的な引き寄せです』


「御子柴は!? 生徒会長が、止めてくれるだろ!」


『御子柴天音は現在、旧校舎の裏門側で、結界を破ろうとする別動隊の怪異と交戦中です。表側は完全に手薄になっています。……対象が、旧校舎の図書室、閉架書庫へと到達するまで、推定残り時間、約五分』


 五分。

 たった五分で、あの大人しい少女は、自分自身の足で地獄の扉を開け、無数の化け物たちの餌食となる。

 生きたまま精気を啜られ、肉体を犯され、絶望の中でその命を散らす。


「…………」


 清春は、ゆっくりと立ち上がった。


 足が、震えている。

 それは恐怖からではない。

 これから自分が「越えてはいけない一線」を越えてしまうことに対する、致命的なまでの諦観と。

 そして、獲物を奪い返しに行けるという、内なる大妖怪の抑えきれない「歓喜」の震えだった。


「……シキ。俺が、俺じゃなくなったら。……後で、一発ぶん殴ってくれ」


『物理的な干渉は不可能ですが、精神的なダメージを与える高解像度データの記録ならお任せください』


 清春は、エプロンを乱暴に引きちぎるように脱ぎ捨て、家庭科室の扉を開け放った。


 夕闇に沈む廊下を、清春は走る。

 事なかれ主義という薄っぺらい仮面をかなぐり捨てて。

 自分の中に巣食う、残酷で美しい怪物の本能に身を委ねながら。


 向かう先は、怪異の蠢く旧校舎。

 図書室の奥深く、甘い血の匂いが充満する、あの閉架書庫へ。


 物語の歯車は、ついに引き返すことのできない「絶頂」へと向かって、猛烈な速度で回転を始めていた。

 

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