第7話:旧校舎の吸血鬼の噂
本日1話目です。
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閉鎖された空間の中で、恐怖という名の伝染病は、いとも容易く人の理性を食い破って増殖していく。
学園内に蔓延し始めた「原因不明の貧血事件」は、たった一日のうちに、より尾ひれのついた扇情的な形へと姿を変え、生徒たちの間で爆発的に広まっていた。
「ねぇ、聞いた? 旧校舎に出るらしいよ。……吸血鬼」
「嘘でしょ、アニメじゃないんだから。でも、倒れた子たち、みんな首筋とか腕に、変な赤い痣があったって……」
「私、昨日遅くまで残ってたんだけど、旧校舎の方から変な呻き声みたいなのが聞こえて……絶対やばいって!」
昼休みの教室、廊下、そしてカフェテリア。
どこへ行っても、生徒たちの口に上るのはそのオカルトめいた噂話ばかりだった。
普段なら「馬鹿馬鹿しい」と笑い飛ばされるような都市伝説も、実際に次々と女子生徒が青白い顔をして保健室へ運ばれていく現状を前にしては、得体の知れない真実味を帯びて迫ってくる。
日高清春は、教室の片隅で手作りのお弁当をつつきながら、その不穏なざわめきをBGMのように聞き流そうと努めていた。
(……吸血鬼、ね)
清春は、卵焼きを口に放り込みながら、心の中で小さく毒づいた。
実態は吸血鬼などというロマンチックなものではない。
人間の負の感情と空間の淀みから生まれた、醜悪で泥まみれの「吸精鬼」だ。血ではなく、生命力そのものを啜る低級の怪異。
シキの言葉を借りるなら、それらは今も旧校舎を巨大な巣として、虎視眈々と『極上の獲物』を狙っている真っ最中なのだ。
極上の獲物。
その言葉が脳裏をよぎった瞬間、清春の視線は無意識のうちに、教室の前方……ぽつんと空席になっている、図書委員の八束綾の席へと向かっていた。
彼女は今日、学校を欠席している。
無理もない。昨日、図書室であれほどまでに怪異の気配に当てられ、生命力を削り取られていたのだ。
むしろ、学校に来ない方が安全かもしれない。彼女が自宅の結界や家族の庇護下にあるのなら、学園の旧校舎に巣食う怪異どもも手出しはできないはずだ。
「……うん。俺には関係ない。俺の日常は守られている」
清春は、自分に言い聞かせるように呟き、水筒の麦茶を飲み干した。
事なかれ主義。他人の問題には首を突っ込まない。
それが、この呪われた血を持つ自分が、平穏に人間として生きていくための絶対的なルールなのだから。
昼休みが終わりを告げる予鈴が鳴る中、清春は少しでも教室の重い空気から逃れるため、一人で廊下へと出た。
新校舎と旧校舎を繋ぐ、二階の渡り廊下。
そこは普段、あまり生徒が寄り付かない場所だが、風通しが良く、清春のお気に入りの避難場所の一つだった。
渡り廊下の窓に寄りかかり、何気なく旧校舎の入り口付近を見下ろした時。
清春の目に、異質な集団の姿が飛び込んできた。
「……なんだ、あれ」
薄暗い旧校舎の昇降口の前に、三人の生徒が立っていた。
その中心にいるのは、ひと目でそれと分かる、圧倒的な存在感を放つ女子生徒だった。
太陽の光を弾くような、鮮やかな金色の長い髪。
背筋をピンと伸ばし、制服の着こなしに一切の乱れもない。
遠目からでもはっきりと分かる、彫刻のように整った厳格な美貌と、周囲の空気を制圧するような鋭い眼光。
生徒会長、御子柴天音だ。
彼女は、学園の絶対的な規律の象徴だった。
成績優秀、スポーツ万能。そして何より、一切の妥協を許さない完璧主義者として、生徒たちからは畏怖と尊敬の念を集めている。
天音は、従えている二人の役員らしき生徒に何か短く指示を出すと、忌まわしい噂の震源地である旧校舎の暗がりを、真っ直ぐに、そして恐れることなく睨みつけていた。
『マスター。生徒会長の御子柴天音です。彼女が動いたということは、学園側……あるいは「裏の組織」が、この事態を重く見たということでしょう』
ポケットの中のスマートフォンが微かに震え、シキの無機質な声が脳内に響いた。
(……裏の組織? どういうことだ)
『彼女の実家である御子柴家は、古くからこの地域の霊的バランスを管理してきた、由緒正しき退魔師の家系です。特に彼女の血筋は、強力な「犬神」を使役することで知られています』
「……退魔師。生徒会長が……マジかよ」
清春は、窓から身を乗り出すようにして、再び天音の姿を見下ろした。
彼女の凛とした立ち姿。怪異が巣食う旧校舎を前にしても、微塵も揺らがないその強靭な意志。
それを見た瞬間。
清春の心に、パァッと明るい安堵の光が差し込んだ。
「……なんだ。じゃあ、俺が悩む必要なんて、最初から一ミリもなかったんじゃないか」
清春の口から、張り詰めていた糸が切れたような、間の抜けた声が漏れた。
プロがいるのだ。
怪異を退治するための、正当な力と権限を持った専門家が、この学園には存在していたのだ。
生徒会長である彼女が動いてくれるなら、あの旧校舎に巣食う吸精鬼の群れも、いずれ綺麗に一掃されるだろう。
八束綾を脅かしていた視線も消え、また元の退屈で平和な学園生活が戻ってくる。
俺が変身して、手を汚す必要なんて、どこにもない。
「よし。解決だ。頑張れよ、生徒会長。俺は遠くから全力で応援してるからな」
清春はホッと胸を撫で下ろし、その場を離れようと背を向けた。
――だが。
その時だった。
ドクン、と。
清春の心臓が、本来の脈拍を無視して、ひどく重たく、そして熱く跳ねた。
「……っ?」
足が、床に縫い付けられたように動かなくなる。
下腹部の奥底から、マグマのようなドロリとした熱が湧き上がり、全身の血管を駆け巡り始めた。
視界が不自然に歪み、先ほどまでの「安堵」とは全く違う、攻撃的で、サディスティックな感情が脳を支配し始める。
『……マスター。警告します。体内の「清姫因子」が、御子柴天音の霊力に強く反応しています』
「な、なんだよこれ……。俺は、安心したはずなのに……なんで、こんな……っ」
清春は、窓枠を力強く握りしめ、荒い息を吐いた。
窓ガラスに映る自分の顔が、まるで別人のように、妖しく、歪な笑みを浮かべているように見えた。
『分析:犬神と蛇神の、本能的な「格付け」です。大妖怪たる清姫にとって、退魔師の使役する犬神など、所詮は人間に飼い慣らされた『番犬』に過ぎません。その犬っころが、自分のテリトリー(庭)を我が物顔で嗅ぎ回っている。……それが、姫の傲慢なプライドを酷く刺激しているのです』
「……ふざ、けるな。俺はそんなこと、思ってない……っ」
『否定しても無駄です。マスターの脳内ホルモンの数値が、それを証明しています。あなたは今、あの誇り高き完璧な生徒会長を見て、どう感じていますか? 安心しましたか? ……いいえ、違うはずです』
シキの言葉が、清春の無意識の奥底に隠された扉を、残酷にこじ開けていく。
そうだ。
今、俺の中にあるこの煮えたぎるような感情は、安心などではない。
あの、凛と背筋を伸ばし、誰にも媚びず、完璧を体現している金髪の少女。
あの高慢な顔を、絶望と恐怖で歪ませてやりたい。
退魔師としての薄っぺらいプライドを、圧倒的な力の差でへし折り、冷たい床に這いつくばらせたい。
そして、抵抗する力も失ったあの形の良い唇を強引に塞ぎ、私の甘い毒(匂い)を脳髄の奥深くまで注ぎ込んで、二度と私に逆らえない「従順な雌犬」に作り変えてしまいたい。
そんな、あまりにも卑猥で、残酷で、暴力的な『支配欲』が、清春の思考を真っ黒に塗りつぶそうとしていた。
「はぁっ、はぁっ……! ちがう、やめろ……俺は、俺はそんな変態じゃない……っ!」
清春は、自らの腕を爪が食い込むほど強く引っ掻き、その痛みで無理やり意識を「日高清春」の側へと繋ぎ止めた。
恐ろしい。
自分の中に、こんな化け物が棲んでいることが。
八束綾のような弱者に対しては「保護という名の所有欲」を抱き、御子柴天音のような強者に対しては「屈服という名の支配欲」を抱く。
対象が誰であろうと、魅力的な少女を見れば、最終的には「接吻による蹂躙」へと至ろうとする、最悪の牝の捕食者。
『どうやら、理性の抑制に成功したようですね。素晴らしい精神力です、マスター』
シキの音声が、何事もなかったかのように平坦なトーンに戻る。
「……シキ、お前。わざと煽っただろ……」
『現状認識を正確に行っていただくための、必要なショック療法です。マスター、御子柴天音は確かに優秀な退魔師です。しかし、彼女の存在は、事態を解決するどころか、むしろ悪化させる可能性があります』
「どういうことだ……?」
清春は乱れた呼吸を整えながら、再び旧校舎の方へと視線を戻した。
天音たちはすでに立ち去り、そこにはただ、泥のように重い影を落とす古い建物が残されているだけだった。
『怪異は、強い霊力を感知すると、自己防衛のために活性化するか、あるいはより強大な個体へと融合する性質があります。御子柴天音という「強力な外敵」の接近を感知した旧校舎の吸精鬼たちは、今夜あたり、一気に巣の防壁を強固なものにし、獲物を確実に喰らうための「異界化」を完了させるでしょう』
「……異界化」
『はい。一度異界化が完了すれば、物理的な干渉は不可能になります。つまり、あの旧校舎は完全に現世から切り離された『地獄の密室』となるわけです』
清春の背中に、再び冷たい汗が流れた。
『そして、問題はもう一つ。……マスター、八束綾は本日欠席していると言いましたね』
「あぁ。だから、彼女は安全なはずだ」
『いいえ。怪異のマーキングを甘く見ないでください。彼らはすでに、彼女の血の匂いを完全に記憶しています。異界の口が開いた時、強力な引力が発生し、魂の繋がった獲物を強制的に巣へと引きずり込むでしょう。……それがたとえ、自宅のベッドの上にいたとしても、です』
「な……っ」
清春は絶句した。
逃げ道はないのか。
彼女が学校を休んでいようと、生徒会長が動こうと、あの地味な図書委員の少女が化け物に貪り食われるという結末は、避けられないというのか。
『事態は深刻化しています。推奨アクションは相変わらず「傍観」ですが、もしマスターの事なかれ主義が「後味の悪い結末」を許容できないのであれば、覚悟を決める時期が近づいているのかもしれません』
シキの警告は、もはや他人事として聞き流せるレベルを超えていた。
予鈴が鳴り、午後の授業の始まりを告げるチャイムが学園に響き渡る。
清春は、鉛のように重くなった足を引きずりながら、教室へと戻っていった。
プロの退魔師である生徒会長の介入。
それによって防衛本能を刺激され、より狂暴化していく怪異の巣。
そして、自宅にいても逃れられない八束綾の運命。
すべての歯車が、最悪の結末に向かって、音を立てて噛み合い始めていた。
そして何より清春を絶望させているのは、自分自身の中に眠る『白鐘の姫』が、この事態を前にして恐怖するどころか、獲物を奪い合う血みどろの遊戯を待ち望むように、甘い歓喜の震えを上げていることだった。




