第6話:シキの警告「学園内に微弱な怪異の気配あり」
本日3話目です。
続きは明日同じ時間帯で
翌朝の学園は、見えない真綿で首を絞められているような、奇妙な息苦しさに包まれていた。
日高清春が教室の扉を開けると、そこにはいつも通りの喧騒……のようでいて、どこかテンポのずれた、重苦しい空気が澱のように溜まっていた。
「……ねぇ、なんか今日、体だるくない?」
「わかる。朝起きるのめっちゃしんどかった。なんか急に貧血っぽくてさ」
「私も。昨日、旧校舎の方のトイレ使ってから、なんか寒気が止まらなくて……」
教室のあちこちで、女子生徒たちが青白い顔をして身を寄せ合い、ヒソヒソと不調を訴え合っている。
一人や二人ではない。クラスの女子の三分の一ほどが、一様に目の下に薄いクマを作り、気怠げに机に突っ伏したり、重い溜息を吐いたりしていた。
(……貧血、か)
清春は、自分の席に鞄を置きながら、周囲の会話を拾い集めた。
昨日の放課後、図書室の奥で感じたあの気配。
暗闇の中から、じっとこちらを……いや、八束綾を「値踏み」するように見つめていた、不可視の視線。
「おはよぉ……キヨッち……」
背中から、ふにゃりとした柔らかい重みがのしかかってきた。
いつもなら「おっはよー!」と弾けるような声で抱きついてくるはずの悪友ギャル、猫宮珠希だ。
だが、今日の彼女はいつもより明らかに体温が低く、清春の背中に預けられた顔からは、荒く熱っぽい吐息が漏れていた。
「おい、猫宮。お前も具合悪いのか?」
「んーん……わかんないけど、なんか体が重くてぇ……。昨日、放課後帰る時になんかゾクッてしてさぁ。キヨッち、あったかーい……」
珠希は、子猫が暖をとるように、清春の制服の背中にぐりぐりと頬を擦り付けてきた。
彼女のルーズな襟元から、普段の陽だまりのような甘い匂いに混じって、わずかに「冷や汗」の匂いが漂ってくる。
健康的な彼女の肌が、今日は妙に白茶けて見えた。
柔らかな胸の感触が背中越しに伝わってくるが、今の清春にそれを照れて意識する余裕はなかった。
(……ただの風邪の流行じゃない。これ、絶対にシキが言ってた『淀み』の影響だ)
清春の背筋に、氷のような悪寒が走った。
事なかれ主義の彼にとって、学園という安全圏が徐々に「非日常」に侵食されていく感覚は、何よりも恐ろしい事態だった。
ガラリ、と。
教室の前方の引き戸が開き、一人の女子生徒がうつむき加減で入ってきた。
「あ……」
図書委員の八束綾だった。
彼女の姿を見た瞬間、清春の心臓が不快なリズムで大きく跳ねた。
彼女の状態は、他の女子生徒たちの「貧血」などとは比較にならないほど酷かった。
元々透き通るように白い肌は、血の気を完全に失って蝋人形のように青ざめ、歩くたびに体がふらふらと揺れている。
分厚い眼鏡の奥の瞳には生気がなく、まるで「見えない何か」に常に怯え続けているように、焦点が定まっていなかった。
「……八束、さん……」
清春が思わず声をかけそうになった、その時。
ドンッ、と。
綾は自分の席に辿り着く前に、バランスを崩して隣の机にぶつかり、そのまま床に膝をついてしまった。
「キャッ! ちょっと八束さん、大丈夫!?」
「顔色すっごい悪いよ! 保健室行く?」
周囲の女子たちが慌てて駆け寄る。
だが、綾はビクッと体をすくませ、極度の対人恐怖からか、差し伸べられた手を払いのけるようにして、自力でフラフラと立ち上がった。
「……だ、だいじょうぶ、です。……なんでも、ない……」
消え入りそうな声でそう呟き、彼女は自分の席に座って机に顔を伏せてしまった。
その細い背中には、昨日、図書室で聞いた「助けて」という消え入るような悲鳴が、色濃く張り付いているように見えた。
『マスター。心拍数の乱れと、交感神経の過剰な興奮を検知。あなたの脳内で「保護欲」および「独占欲」を司る部位が、異常な活性化を示しています』
ポケットの中で、シキが直接脳内に語りかけてきた。
(……うるさい。俺はただ、クラスメイトとして心配しただけだ)
清春は、心の中で反論しながらも、自分の体内で起きている「奇妙な熱」の存在を無視できなかった。
綾のあの弱り切った姿を見た瞬間。
下腹部の奥底から、ドロリとした重く熱い感情が這い上がってくるのを感じたのだ。
それは、弱者を助けたいという正義感ではない。
あの無防備な首筋に噛みつき、自分の匂いを濃密に擦り込み、怯える瞳を快楽でドロドロに溶かして、二度と他の何者にも脅かされない「自分だけの所有物」にしてしまいたいという、残酷で甘美な支配欲。
(……違う。これは俺の感情じゃない。俺の中にいる『姫』の……妖怪の本能だ)
清春は、机の下で自分の太腿をつねり、必死に理性を繋ぎ止めた。
『自己分析としては正確です、マスター』
昼休み。
清春は人気の少ない旧校舎へ続く渡り廊下の陰に身を潜め、スマートフォンを耳に当てていた。
画面にはシキの無機質な波形が揺れている。
『現在、学園内で多発している女子生徒の貧血症状。これは生理的なものではなく、霊的なエネルギー……つまり「精気」を吸い取られていることによる弊害です』
「精気を吸い取る……怪異の仕業ってことか」
『はい。空間の淀みから発生した低級の吸精鬼が、学園のあちこちにヒルように取り憑き、生徒たちの生命力を少しずつ啜っています。そして、その『震源地』であり、怪異たちが最も狙いを定めている極上の獲物が、八束綾です』
シキの言葉に、清春は唇を噛んだ。
『彼女の引いている土蜘蛛の血は、怪異にとって麻薬のように甘く、強烈な誘引力を持っています。周囲の女子生徒が貧血になっているのは、彼女を狙って集まってきた怪異の「おこぼれ」にあてられたか、あるいは怪異がメインディッシュを食べる前の「前菜」として味見をしているに過ぎません』
「……土蜘蛛……そんな。じゃあ、八束さんは今……」
『ええ。常に見えない無数の化け物に囲まれ、舐め回され、精気を吸い取られ続けている状態です。彼女が感じていた「視線」の正体はそれです。このまま放置すれば、遅かれ早かれ彼女は完全に怪異の巣に引きずり込まれ、生命活動を停止するでしょう』
冷徹な死亡宣告。
清春の背中に、冷や汗が伝い落ちた。
『さて、マスター。あなたの体内で発生している「熱」の正体を説明しましょう。それは、あなたの内なる大妖怪・清姫が、他の下等な怪異どもに対して抱いている「激しい苛立ち」と「嫉妬」です』
「嫉妬……?」
『大妖怪たる清姫にとって、自分のテリトリー(学園)内で、虫けらのような低級怪異が我が物顔で獲物を貪っている状況は、プライドが許さないのです。ましてや、その獲物(綾)は、姫の琴線に触れるほど無防備で、虐げがいのある『極上の雌』です』
シキの合成音声が、普段のフラットなトーンのまま、酷く扇情的な言葉を紡ぎ出す。
『姫の本能は今、こう叫んでいます。「あの震える少女は私のものだ。汚らわしい虫けらどもをすべて氷漬けにして粉砕し、私が直接、あの唇を塞いで、脳の髄まで私の毒(匂い)で染め上げてやる」……と。マスター、あなたの下腹部が熱く疼いているのは、変身して彼女を蹂躙したくてたまらないという、発情のサインに他なりません』
「……っ! 黙れシキ! そんなこと思ってない! 俺はただの男子高校生だ!」
清春は顔を真っ赤にして、壁にドンッと手をついた。
しかし、シキの言葉を完全に否定できない自分がいるのも事実だった。
目を閉じれば、昨日の図書室で見た、綾の怯えた瞳が浮かぶ。
もし俺が、あの姿(白鐘の姫)になって、あの震える肩を抱き寄せ、無理やり顎を上向かせて、赤い唇を奪い去ったら。
彼女はどんなに甘い声を上げて、俺の妖力に溶かされていくのだろうか。
「……あぁっ、くそっ! ダメだ、俺は絶対にそんなことしない! 事なかれ主義だ。俺は事なかれ主義なんだ!」
清春は自分の頭を両手でガシガシと乱暴に掻き回した。
「誰かがやるはずだ。この学園には、そういうオカルトな事件を秘密裏に処理する連中がいるって、昔聞いたことがある。退魔師とか、そういうプロの奴らが!」
『推奨アクション:逃亡と傍観。マスターの選択を支持します。しかし、怪異の侵食速度は計算を上回っています。手遅れになる可能性も考慮すべきでしょう』
「俺の知ったことか! 俺は今日、絶対に部室から出ない! 誰にも会わない!」
清春はスマートフォンをポケットにねじり込み、逃げるようにその場を立ち去った。
放課後。
授業が終わるや否や、清春は誰よりも早く教室を飛び出し、旧校舎一階の家庭科室へと向かった。
途中で、珠希が「あ、キヨッち待ってー!」と声をかけてきたが、それすらも無視して早歩きで廊下を進んだ。
図書室の方へ向かう綾の背中が視界の端に映ったが、無理やり目を逸らした。
バンッ! と扉を閉め、内側から鍵をかける。
カーテンをすべて閉め切り、外界からの視線を完全に遮断する。
静寂。
ここだけが、清春の理性を保つための最後の砦だった。
「……よし。お菓子を作ろう。甘い匂いを嗅いでいれば、嫌な気配も、俺の中の気持ち悪い衝動も、全部消えるはずだ」
清春はエプロンを身につけ、冷蔵庫から無塩バターと卵を取り出した。
今日はマドレーヌを焼く。
バターを湯煎で溶かし、ボウルに卵と砂糖を入れて、白っぽくなるまですり混ぜる。
カチャカチャという規則的な音が、少しだけ清春の荒れた心を落ち着かせていく。
しかし。
ボウルの中の生地を見つめていると、不意に、あのドロリとした吸精鬼の姿や、綾の蒼白な顔がフラッシュバックしてくる。
溶かしたバターの甘い匂いが、なぜか今日に限って、女の熱を持った体臭や、唾液の匂いのように生々しく感じられてしまう。
「……違う、違う……」
清春は、震える手で小麦粉をふるい入れた。
俺は関係ない。俺はただの料理部員だ。
あの少女が怪異に喰われようと、俺がヒーローになって助けに行く義理なんてない。
もし変身して助けたとしても、結果的に俺は、怪異の代わりに彼女を「別の意味で」蹂躙し、マーキングという名の精神的レイプをしてしまうのだ。
それなら、いっそ見殺しにした方がマシだ。
自己正当化のための言い訳を、頭の中で何度も何度も反芻する。
オーブンに生地を入れ、焼き上がりを待つ間、清春はパイプ椅子にうずくまり、両手で耳を塞いだ。
どうか、このまま何も起きないでくれ。
誰か、俺以外の凄い奴が、あの怪異を退治してくれ。
事なかれ主義の男子高校生は、自分が抱える強大すぎる力と、内なる「牝の怪物」の欲求に怯えながら、ただひたすらに嵐が過ぎ去るのを待とうとしていた。
だが、彼が逃げ込めば逃げ込むほど。
運命は、残酷なまでに彼を「最恐の姫」の座へと引きずり出そうと、その包囲網を狭めていたのだった。
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次回お楽しみに。




