第5話:男性恐怖症の図書委員
本日2話目です
図書室という場所には、独特の「重み」があると思う。
それは何万、何十万という言葉が封じ込められた紙の束が放つ物理的な重圧であり、同時に、数十年という月日を経て蓄積された埃と、人々の静かな思考が混ざり合って生まれた、沈殿した空気の重みだ。
放課後の喧騒が遠く校庭の向こう側に追いやられた旧校舎の二階。
西日に照らされた長い廊下の突き当たりにある図書室の扉を開けると、そこには、外界の時間の流れを拒絶したような静寂が横たわっていた。
窓から差し込む斜陽が、空気中をゆっくりと舞う無数の塵を黄金色に輝かせ、整然と並んだ背表紙の列を等しく赤く染め上げている。
日高清春は、自分の足音が板張りの床に不自然なほど大きく響くのを気にしながら、貸出カウンターの奥へと足を進めた。
「……あ」
カウンターの片隅で、古い図書カードの整理をしていた少女が、弾かれたように顔を上げた。
八束綾。
この地味で古風な図書室の主と言っても過言ではない、同じクラスの図書委員だ。
彼女は、清春の姿を認めた瞬間、ビクッと肩を震わせ、まるで天敵を前にした小動物のように、手元のカードを抱え込むようにして身を縮めた。
「……あ、えっと。……日高くん。……お疲れ様」
「……あぁ、お疲れ様。……交代だね」
清春は、努めて感情の起伏を抑えた、静かで抑揚のない声で答えた。
八束綾という少女が、極度の男性恐怖症であることはクラス中の周知の事実だ。男子生徒が半径三メートル以内に近づくだけで呼吸が浅くなり、目が泳ぎ、時には震えが止まらなくなってしまう。
そんな彼女にとって、この放課後の図書当番という仕事は、本来であれば苦行以外の何物でもないはずだった。
だが、彼女はこの場所に執着している。
まるで、外界の「男」というノイズから逃れるための、最後の避難所を必死に守っているかのように。
事なかれ主義を標榜する清春にとって、彼女のような存在は、ある意味で「理想的なパートナー」でもあった。
余計な干渉はしてこない。無駄な会話も必要ない。
お互いに存在を空気のように扱い、ただ静かに作業をこなして、定刻になれば解散する。
清春は、彼女から十分な距離を保ったまま、カウンターの端に置かれた返却本の山に手を伸ばした。
一冊一冊、背表紙を確認し、棚に戻すためのワゴンに積み上げていく。
「…………」
「…………」
沈黙。
ただ、紙が擦れる音と、窓の外から聞こえるカラスの鳴き声だけが、空間を支配している。
だが、その沈黙は決して不快なものではなかった。
清春の手元から漂う、わずかな洗剤の匂い。
そして。
綾の方から微かに流れてくる、古い紙の匂いと、その奥に潜む……彼女自身の、どこか湿り気を帯びた、清廉で甘い香り。
清春の鼻腔が、無意識のうちにその香りを捉える。
男の体である今の彼には、それがただの「女の子らしい匂い」にしか感じられないが、もし今、彼の中の『姫』が目覚めていたならば。
きっと、その鼻腔を狂わんばかりに刺激し、目の前の震える獲物を組み伏せて、そのうなじに顔を埋めたいという衝動に駆られていたに違いない。
(……よせ。考えるな)
清春は首を振り、邪念を追い出した。
お菓子を作っている時のように、無心で作業に没頭する。
それが、この危うい静寂を守るための唯一の方法だった。
ワゴンに本を積み終えた清春は、それを押して書架の奥へと向かった。
図書室の奥は、窓からの光が届きにくく、夕暮れ時になると急速に闇が深まっていく。
高い書棚が迷路のように入り組み、迷い込めば現世との繋がりを失ってしまいそうな、奇妙な圧迫感。
清春が、文学の棚に一冊の小説を差し戻そうとした時。
「……っ!」
背後で、小さな悲鳴にも似た息を呑む音が聞こえた。
振り返ると、いつの間にかワゴンの近くまで付いてきていた綾が、真っ青な顔をして立ち尽くしていた。
彼女の細い指が、棚の角を白くなるほど強く握りしめている。
分厚い眼鏡の奥の瞳は、清春を見ているのではなく……彼を通り越した、さらに奥。
旧校舎の閉鎖されたエリアへと続く、『閉架書庫』の重厚な鉄扉を、見開かれたまま凝視していた。
「……八束さん? どうしたの?」
「……だ、れか。……いる」
綾の声は、震えていた。
それは、男性である清春に対する恐怖とは、明らかに質の異なるものだった。
もっと根源的な、捕食者を前にした獲物としての、絶望的な拒絶感。
「誰かって……。この時間は、俺たち二人だけのはずだけど」
「……ずっと。……さっきから。……見てる。……誰かが、あの暗闇の中から……私を、ずっと……」
綾は、自分の肩を抱くようにしてガタガタと震え出した。
彼女の視線の先。
閉架書庫の鉄扉の隙間には、一切の光を拒絶したような、どろりと重たい闇が溜まっている。
そこには誰もいない。
少なくとも、清春の目にはそう映った。
『マスター。警告。周辺の霊的エネルギーに不自然な偏向を確認。対象「八束綾」の周囲で、微弱な「邪気」の集束が始まっています』
ポケットの中で、シキが直接脳内に囁きかけてくる。
(……シキ。やっぱり、何かいるのか?)
『現在のセンサー出力では、明確な実体を捉えることは不可能です。しかし、対象の生命エネルギーが、何者かによって「観測」されている事実は否定できません。これは、高度な捕食者が、獲物の「味」を確かめている時の挙動に近いものです』
(……っ。マジかよ)
清春の背中に、嫌な汗が流れた。
事なかれ主義の彼にとって、最も避けるべき事態。
それは、自分に解決不可能なトラブルが、自分の手の届く範囲で発生することだ。
だが。
目の前で、涙目になりながら震えている少女を放置して、自分だけ逃げ出すことが、果たして「事なかれ主義」の正解なのだろうか。
「……八束さん。大丈夫だよ。俺がいるし……それに、あの扉は施錠されてる。中には誰も入れるはずがないよ」
清春は、努めて優しく、自分自身にも言い聞かせるように語りかけた。
一歩だけ、彼女の方へ歩み寄る。
その瞬間。
綾が、ひび割れた弦のような、悲痛な声を上げた。
「……来ないで!!」
「……!」
清春の足が、止まった。
綾は、恐怖に満ちた瞳で清春を見つめ、そのまま後ずさりするように書架の角に身を隠した。
「……ごめんなさい。……ごめんなさい。……日高くんが、悪いんじゃないの。……ただ、……怖い。……男の人が。……近づいてくると、……胸が苦しくなって、……あの『視線』と、混ざっちゃって……」
彼女は、蹲るようにして床に視線を落とした。
その震える背中。
守ってあげたいという感情よりも先に、清春の胸を突き上げたのは、激しい「苛立ち」だった。
それは、彼女を怯えさせている正体不明の「視線」に対する憤りなのか。
あるいは、自分自身の「無力」に対する不満なのか。
いや、違う。
それは、彼の中に眠る『白鐘の姫』という怪物が、自分の所有物になるべき獲物を脅かされていることに対して放った、強烈な「所有欲の裏返し」だった。
(……くそ。静まれ、静まれよ……俺!)
清春は、自らの腕を爪が食い込むほど強く握りしめた。
ドクン、ドクンと、鼓動が激しさを増していく。
体温が不自然に上がり、項のあたりがジンジンとしびれるような熱を持ち始める。
このままでは、変身のトリガーが引かれてしまう。
こんな静かな図書室で。
怯える彼女を前にして、俺が「あの姿」になってしまったら、それこそ取り返しのつかない惨劇が始まってしまう。
「……わかった。近づかないよ。……ごめん、八束さん。怖がらせるつもりじゃなかったんだ」
清春は、逃げるようにワゴンを押し、カウンターの方へと戻った。
背後からは、いつまでも綾の短く、細い吐息の音が聞こえていた。
それからの一時間は、清春にとって地獄のような時間だった。
綾はカウンターに戻ることもできず、書架の陰に隠れたまま。
清春は一人、返却本の整理を続ける。
静寂。
だが、それはもはや平和な静寂ではなかった。
何かが、この図書室を狙っている。
あの鉄扉の向こう側。
光の届かない闇の深淵から。
じっと、獲物が「美味しく」熟すのを待っている、貪欲な目。
清春は、何度も時計に目をやった。
一分一秒が、泥のように長く感じられる。
事なかれ主義の平穏が、足元から音を立てて崩れ去っていく感覚。
『マスター。警告。対象のストレス値が危険域を突破。周囲の霊的密度が、臨界点へと向かっています。今夜、あるいは明日。何かが「扉」を開くでしょう』
シキの冷徹な宣告を、清春はもはや否定することができなかった。
ようやく訪れた、閉館の時刻。
清春は、逃げ出すように図書室の鍵を締め、校門へと向かった。
背後を振り返ることはしなかった。
振り返れば、あの闇の中に浮かぶ「無数の瞳」と、目が合ってしまうような気がしたからだ。
「……助けて」
別れ際。
綾が、蚊の鳴くような声で呟いたその一言が。
清春の耳の奥に、こびりついて離れなかった。
夕闇に包まれた校舎は、巨大な怪物の死骸のように静まり返っていた。
明日。
この学園で何が起きるのか。
俺は本当に、何も見なかったことにして、ただお菓子を焼き続けることができるのだろうか。
事なかれ主義の男子高校生は、冷たい夜風に当たりながら、止まらない鼓動を必死に抑え込んでいた。
その胸の奥底で、白銀の髪を持った『怪物』が、歓喜に震えて目を覚まそうとしていることにも気づかずに。




