第4話:悪友ギャルと、遠ざかる幼馴染
本日1話目です。全3話更新します
朝の教室というのは、どうしてこうも無秩序な熱気に満ちているのだろうか。
登校して早々、あちこちで爆発する笑い声、机を引きずる不快な音、そして数十人分の人間が放つ独特の生温かい体温が混ざり合い、どんよりとした空気の塊となって教室内を停滞させている。
日高清春は、窓際の目立たない自分の席に深く腰を沈め、頬杖をつきながら教科書を広げていた。
視線は文字を追っているが、意識はその半分も内容を理解していない。
ただこうして「勉強に集中している地味な生徒」という擬態を維持すること。それが、この弱肉強食のスクールカーストという戦場で、波風を立てずに生き残るための清春なりの生存戦略だった。
昨夜、シキから受けた「怪異の淀み」に関する警告が、澱のように心の底に沈んでいる。
だが、窓の外に広がる校庭では、体育の授業を受ける生徒たちが元気に声を上げ、眩しい朝日に照らされた校舎は何の変哲もない平和そのものに見えた。
「おっはよー、キヨッち! 今日も朝から真面目ぶっちゃって、お疲れサマンサ!」
突如として、背後から強烈な衝撃と、甘ったるい香水の匂いが清春を襲った。
「ぶふっ……!? ね、猫宮……苦しいって……」
首筋に、柔らかくて豊かな弾力のある感触が、遠慮なく押し付けられる。
清春の背中にのしかかるように抱きついてきたのは、明るい茶髪のロングヘアを今日はゆるいサイドポニーにまとめた、クラスのムードメーカー――猫宮珠希だった。
短く切り詰めたスカートから伸びる、健康的に日焼けした細い脚。
ルーズに着崩した制服の隙間からは、女子高校生らしい瑞々しい肌の匂いと、どこか野性的な、陽だまりのような温かい香りが立ち昇っている。
「えー? そんなこと言って、キヨッちだってホントは嬉しいくせにー。ほらほら、耳真っ赤だよ? うっわ、かわいー!」
珠希は、いたずらっぽく笑いながら、清春の耳元でわざと熱い吐息を漏らした。
ちろり、と。
彼女の細い指先が、清春のうなじを優しくなぞる。
彼女のスキンシップは常に過剰で、物理的なパーソナルスペースという概念が存在しない。まるで人懐っこい猫が飼い主にすり寄るように、無自覚に自身の熱と匂いを擦り付けてくるのだ。
珠希にとってこれはただの親愛の情の裏返しなのだろうが、年頃の健全な男子である清春にとっては、甘い毒薬を直接血管に流し込まれるような猛攻だった。
「やめろって……。ほら、離れろ。みんな見てるだろ」
「いーじゃん別に。あたしとキヨッちの仲でしょ? あ、それよりさぁ! 今日の放課後、料理部でなんか作るんでしょ? あたし、もうお腹と背中がくっつきそうなんだけど!」
珠希は清春の首に腕を回したまま、ぐりぐりと自分の頬を彼の頬に擦り付けてきた。
清春の鼻腔に、彼女の髪から漂うシャンプーの匂いと、その奥に潜む、本能を直接揺さぶるような「無防備な雌」の芳香が入り込んでくる。
柔らかい胸の感触が背中越しに伝わってきて、清春の鼓動が否応なしに跳ね上がった。
『マスター。心拍数の急上昇、およびテストステロン値の増加を検知。推奨アクション:その場で押し倒して、野性の欲求に従うことです』
ポケットの中で、シキが直接脳内に語りかけてくる。
(……馬鹿言え。俺の理性を舐めるな)
清春は、下腹部の奥底が僅かに熱くなるのを感じながらも、必死に平常心を稼働させた。
事なかれ主義。俺は事なかれ主義。
目の前の美少女ギャルは、ただの「つまみ食い担当の悪友」だ。
そう自分に言い聞かせながら、珠希の柔らかな腕をなんとか引き剥がそうと試みる。
「分かった、分かったから。放課後、昨日焼いたマカロンの残りがあるから、それ食べさせてやるよ」
「マジ!? やったぁ! やっぱキヨッちは話がわかるぅ! 大好き!」
珠希は満足げに清春の頭をポンポンと叩くと、軽やかな足取りで自分の席へと戻っていった。
彼女が去った後も、清春の背中には彼女の生々しい体温と匂いが、こびりついたように残っていた。
周囲の男子生徒たちからの「なんであんな地味な日高が、クラスの美少女ギャルとあんなに仲良いんだ」という嫉妬とやっかみの視線が痛い。
――その時だった。
騒がしく、熱を帯びていた教室の空気が、一瞬だけ、凍りついたように冷え込んだ気がした。
清春がふと入り口の方へ視線を向けると、そこには一人の少女が立っていた。
艶やかな黒髪を短く切り揃えたショートカット。
凛と伸びた背筋。
氷の彫刻のように非の打ち所のない、端正で美しい横顔。
吹奏楽部のエースであり、清春の幼馴染――水無月結衣だ。
彼女は、教室の空気を一切乱すことなく、静かな足取りで自分の席へと向かおうとしていた。
かつては、毎日一緒に登下校し、些細なことで笑い合い、「清春っ」と親しげに名前を呼んでくれていた仲。
だが、高校に入ってからの彼女は、まるで別人のように清春に対して冷淡になった。
清春は、一瞬だけ彼女と目が合いそうになった。
かつての親愛の情の欠片でも残っていないかと、ほんの少しだけ期待して。
しかし。
結衣の瞳は、清春を捉えた瞬間、まるで汚物でも見るかのような、底冷えする氷の視線へと変わった。
「…………」
彼女は一言も発さず、清春の横を通り過ぎる。
すれ違いざま、彼女の長い睫毛が僅かに揺れ、その冷たい風が清春の頬を撫でた。
なぜ、彼女はあんな目をするのだろうか。
なぜ、あんなにも清春を避けるのか。
清春は、遠ざかっていく彼女の背中を見つめながら、胸の奥がキリリと痛むのを感じた。
彼女が通り過ぎた後には、珠希の放っていた陽だまりのような熱とは対照的な、どこか寂しくて、それでいて鋭利な、冷たい花の残り香だけが漂っていた。
『マスター。心拍数の急激な低下、および微弱な「喪失感」の情動パターンを検知。分析:過去の記憶に対する執着と、現状への未練です』
シキが、容赦のない事実を突きつけてくる。
(……うるさい。未練なんてない。ただ、昔はどうだったかなって思っただけだ)
清春は、心の中でシキに反論した。
彼には、小学生の頃の記憶が一部、靄がかかったように欠落している。
その欠けた記憶の先に、結衣を傷つけ、自分を遠ざける原因があるのではないか。
そう予感しながらも、清春はそれを掘り起こす勇気を持てずにいた。
平穏を愛する事なかれ主義者にとって、過去のトラブルを掘り返すことは、自ら地雷原に足を踏み入れるようなものだからだ。
教室の喧騒が再び戻ってくる。
前方の席では、珠希が友達と楽しそうに笑い声を上げている。
そして窓際の席では、結衣が一人、冷めた目で外の景色を見つめながら、誰とも言葉を交わそうとしない。
清春は再び教科書に目を落としたが、今度は一行の文字も頭に入ってこなかった。
事なかれ主義。
何も起きない、平穏な日常。
それが自分の理想だったはずなのに。
無遠慮に密着してくるギャルの甘い熱と、徹底的に拒絶する幼馴染の冷たい視線。
その両極端な刺激が、清春の心の表面を少しずつ、削り取っていく。
(……はぁ。今日も胃が痛いな)
清春は腹をさすりながら、重い溜息をついた。
まだ一時間目の授業すら始まっていないというのに、精神的な疲労はすでにピークに達しそうだった。
その日の授業は、清春にとって苦行でしかなかった。
珠希は授業中に何度も消しゴムを投げてきたり、休み時間のたびに「ねーねー、マカロン何味!?」と背中に抱きついてきたりした。
一方で、結衣は清春が視界に入るたび、不快そうに視線を逸らし、移動教室でもあからさまに距離を取った。
そうして、なんとかやり過ごして辿り着いた、放課後のチャイム。
「よし。これでやっと解放される……」
清春は、教科書を手早く鞄に詰め込むと、大きく伸びをした。
今日は料理部へ行く前に、こなさなければならない用事がある。
月に数回だけ回ってくる、委員会の仕事。図書当番だ。
図書室は、学園の中でも一、二を争うほど静かな場所である。
誰にも干渉されず、ただカウンターに座って本の貸出処理をしていればいい。事なかれ主義の清春にとっては、家庭科室の次に心安らぐサンクチュアリでもあった。
「今日は確か……同じクラスの八束さんと一緒のシフトだったな」
清春は、廊下を歩きながら呟いた。
八束綾。
分厚い眼鏡をかけた、極度の男嫌いとして知られる地味な少女。
昨日、重い本を抱えて旧校舎の方へ歩いていくのを見かけたが、今日は無事に登校しているのだろうか。
『マスター。旧校舎方面の霊的密度が、昨日よりも数パーセント上昇しています。微弱な淀みが、図書室の奥……閉架書庫周辺に集まりつつあるようです』
ポケットの中で、シキが警告を発する。
(……気のせいだ。ただの古い建物のカビ臭さだろ。俺は貸出カウンターから一歩も動かないから関係ない)
清春はシキの言葉を無視して、図書室の重い木製の扉に手をかけた。
ギィィ、と。
年季の入った蝶番が、少しだけ不気味な音を立てて開く。
そこには、夕日に照らされた無数の書棚と、静寂だけが広がっていた。
そして、カウンターの奥で、小さな背中を丸めながら作業をしている、一人の少女の姿。
「あ、あの……」
清春の足音に気づき、八束綾がビクッと肩を震わせて振り向いた。
彼女の瞳は、いつも通り怯えたように揺れていたが、その視線の先には、見えない「何か」に対する強い恐怖がこびりついているように見えた。
事なかれ主義の男子高校生は、まだ気づいていない。
この静かで退屈な図書当番の時間が、やがて彼女を地獄の底へ突き落とし、そして俺自身の『本能』を呼び覚ます、狂気の惨劇への入り口であるということに。




