第3話:無機質なスマホ付喪神『シキ』
本日3話目です。
次回は明日更新です
カチャリ、と無機質な金属音が響き、玄関のドアが重々しい音を立てて閉まった。
日高清春は、誰もいない薄暗いアパートの自室に足を踏み入れ、大きく安堵の息を吐き出した。
両親は海外へ長期赴任中であり、この2DKの部屋は現在、清春の完全な一人暮らしの城となっている。
壁のスイッチを押すと、無味乾燥な蛍光灯の白い光が、殺風景なリビングを均等に照らし出した。
装飾品の少ない部屋。趣味のポスター一枚すら貼られていない壁。
唯一、システムキッチンの周りだけが、様々な調理器具やオーブン、スパイスの小瓶などで充実しており、彼がどれほど「食」と「平穏」に重きを置いているかが窺い知れた。
「……はぁ。今日も一日、無事に終わった」
清春は学生鞄をソファの上に放り投げると、ネクタイを緩めながらダイニングテーブルの椅子にどっかと腰を下ろした。
鞄の中から、家庭科室で焼いた手作りマカロンの入ったタッパーを取り出し、テーブルの上に置く。
ほんのりと漏れ出すアーモンドと甘いガナッシュの香りが、疲れた脳を優しく撫でてくれる。
トラブルのない、静かで退屈な一日。
誰の記憶にも残らない、モブキャラクターとしての完璧な立ち回り。
清春は満足げに頷き、ポケットから自分のスマートフォンを取り出して、テーブルの上にコトリと置いた。
――その瞬間。
『マスター。帰宅を確認。本日の「事なかれ主義的逃避行動」の完遂、お疲れ様でした。バイタルサインは安定していますが、精神的疲労度が平均値より三パーセント上昇しています』
画面が触れてもいないのに勝手に点灯し、スピーカーから透明感のある合成音声が流れ出した。
「……逃避行動って言うな。俺はただ、賢明なリスク回避を行っただけだ」
清春は、ため息混じりにスマートフォンを睨みつけた。
画面には、心電図のような緑色の波形と、幾何学的な模様が明滅している。
これが、俺のスマホにいつの間にか住み着いていた奇妙な同居人――『シキ』だ。
シキは、ただのAIアシスタントではない。
現代の電子機器であるスマートフォンに、長年の愛着や何らかの霊的な力が宿って生まれた、新種の妖怪……『付喪神』である。
彼女(音声が女性型なので便宜上そう呼んでいる)は、俺のバイタルサインから位置情報、果ては周囲の霊的エネルギーの観測まで、あらゆるデータをリアルタイムで収集・分析する能力を持っている。
そして何より、俺が抱える最大の秘密を完璧に把握している、唯一の存在だった。
『訂正します。リスク回避ではなく、問題の先送りに過ぎません。マスターの体内における「清姫因子」の活性度は、現在も緩やかに上昇を続けています。このままエネルギーを抑圧し続ければ、いずれ内側から暴発する危険性が極めて高いと推測されます』
「……またその話か」
清春は顔をしかめ、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを一気に煽った。
冷たい水が食道を通り抜けていく感覚で、無理やり自身の平常心を保とうとする。
『はい。非常に重要な警告です。マスターは、ご自身の血に刻まれた「先祖返り」のシステムを、過小評価しすぎています』
シキの音声は、どこまでもフラットで感情の起伏がない。
だからこそ、彼女が淡々と告げる「事実」は、時にどんな脅し文句よりも鋭く清春の心をえぐってくる。
『マスターの肉体は、極度の霊的ストレス、あるいは強い妖気にあてられた際、自己防衛本能として大妖怪「白鐘の姫(清姫)」へと強制的にTS変身する構造になっています。問題なのは、その変身が単なる肉体的な性転換に留まらない点です』
「……分かってるよ。人格まであっちに引っ張られるんだろ。絶対に変身なんてしないから安心しろ」
『私が危惧しているのはそこです。大妖怪たる清姫の精神構造は、根本的に「最強の捕食者」であり、同時に「絶対的な雌」です。彼女にとって、魅力的な獲物……あるいは庇護すべき弱者を見つけることは、自身の強大な妖力と匂いを直接刻み込みたいという、根源的な生殖本能に直結します』
生殖本能、という生々しい単語を聞いて、清春は思わず水を吹き出しそうになった。
「ばっ、お前、変な言葉を使うな! 俺は健全な男子高校生だぞ!」
『生物学的な事実を述べているまでです。大妖怪としてのサディスティックな愉悦と、女性特有の粘着質な愛情ホルモン。変身時、マスターの脳内ではこれらが爆発的に分泌されます。怯える少女を壁に追い詰め、逃げ場を奪い、その唇を強引にこじ開けて自身の「甘い毒」を注ぎ込む行為。それは清姫にとって、食事よりも甘美で抗いがたい快楽なのです』
シキの画面に、人間の脳の断面図のようなホログラムが浮かび上がり、特定の部位が赤く点滅し始めた。
『相手の口内に舌を這わせ、極上の体温と吐息を交わしながら、自分の匂いで相手をドロドロに溶かしていく。……マスター、あなたの内側には、そうした「牝の嗜虐性」が常に眠っているという事実を自覚すべきです』
「……やめろ。想像しただけで吐き気がする」
清春は両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏した。
シキの言う通りだ。
幼い頃、一度だけコントロールを失って変身してしまった時の記憶が、フラッシュバックのように脳裏をよぎる。
視座が高くなり、世界がすべて自分より劣った下等生物に見える、あの圧倒的な万能感。
全身を包み込むような冷気と、自分自身の体から立ち昇る、脳を麻痺させるような甘く濃密な香水の匂い。
そして。
他者の顔を見た時に、下腹部の奥底からジンジンと湧き上がってくる、熱くて、甘くて、どうしようもなく淫らな疼き。
自分の匂いで相手を染め上げ、二度と自分以外のものを見られないように狂わせてしまいたいという、どす黒い支配欲。
あんなものは、俺じゃない。
俺は争い事が嫌いで、お菓子作りが好きな、ただの事なかれ主義の男子だ。
それがどうして、あんなサディストで百合気質全開のヤバい女妖怪の人格を共有しなければならないのか。
『マスター。現在、あなたの魂の器は、行き場を失った清姫の妖気で水風船のように膨らんでいます。推奨アクション:安全な場所での、意図的なTS変身およびエネルギーの放出(マーキング行為)です』
「絶対に嫌だね。一度でも変身のトリガーを引いたら、俺の理性が戻ってくる保証はない。それに、変身した俺がその辺の女の子を襲って無理やりディープキスでもし始めたら、事なかれ主義どころかただの変態犯罪者だぞ」
『ご安心ください。その際は、私がマスターの情熱的で淫らなマーキング行為を、4K高画質・立体音響で克明に記録し、後日冷静な分析データとしてご提供いたします。舌の絡め方や、漏れ出す吐息の温度変化、相手の瞳が快楽で濁っていく様子など、詳細なレポートの作成が可能です』
「お前は本当に性格が悪いな!! 悪魔か!」
清春は顔を真っ赤にして叫び、スマホの画面を指先で強く弾いた。
しかしシキは意に介する様子もなく、画面の波形を揺らして淡々と続ける。
『冗談はさておき、現実的な問題として報告があります。最近、マスターが通う学園の周辺で、微小な「空間の淀み」が観測される頻度が上がっています』
「……淀み?」
清春は、弾こうとした指を止めた。
『はい。霊的エネルギーの波長から推測するに、微弱な怪異が引き寄せられやすい環境が形成されつつあります。現在のところ、生徒に直接的な危害を加えるレベルのものは検知されていませんが、念のため警戒レベルを一段階引き上げることを推奨します』
「……気のせいだろ。古い学校なんだから、変な気が溜まることくらいある」
清春は、努めて軽く言い放った。
認めない。俺の平穏なテリトリーに、そんな非日常のバグが入り込みつつあるなんて、絶対に認めるわけにはいかない。
『マスターの生存戦略としては、見ざる言わざるを貫くのが極めて合理的です。ですが、もし学園内で本格的な怪異の発生が確認された場合、マスターの「清姫因子」がそれに共鳴し、強制変身のトリガーが引かれる確率が飛躍的に上昇します』
「だから、そうならないように徹底的に逃げ回るんだよ。俺は退魔師でもヒーローでもない。ただの料理部員だ。怪異が出たなら、警察か裏の専門機関がなんとかするべきだ」
清春はタッパーの蓋を開け、ピンク色のマカロンを一つ取り出して口に放り込んだ。
サクッとした食感と、濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。
美味しい。完璧な出来だ。
これが俺の日常だ。これさえあればいい。
他人がどうなろうと、俺の知ったことか。
俺には、俺の平和を守る義務がある。
『了解しました。本日のログ出力を終了します。明日は平常通りの登校日です。おやすみなさい、マスター。良い平穏を』
プツン、と音を立てて、スマートフォンの画面が暗転した。
部屋には再び、冷蔵庫のモーター音だけが響く静寂が戻ってきた。
清春は椅子に深く背中を預け、天井の蛍光灯を眩しそうに見上げた。
これでいい。
俺は今日も何も見なかったし、明日も何も見ない。
学校へ行き、授業を受け、放課後は料理部で静かにお菓子を焼く。
明日もまた、平凡で退屈な一日が始まる。
そう信じて、清春は残りのマカロンを頬張りながら、重い息を吐き出した。
しかし、運命は彼が望むような平穏を許してはくれなかった。
明日、学園で待っているのは、悪友ギャルのつまみ食いと、なぜか俺を冷たい目で避ける幼馴染とのすれ違い。
そして、確実に忍び寄りつつある怪異の足音だった。
事なかれ主義の男子高校生は、まだ何も知らずに夜の闇に沈んでいった。
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次回お楽しみに。




