第2話:料理部のマカロンと、事なかれ主義の俺
本日2話目です
6/6 最後400文字ほど抜けてましたので修正しています
甘ったるいバニラの香りと、ローストされたアーモンドプードルの香ばしい匂い。
オーブンのガラス窓の向こうで、ピンク色に色付けされたメレンゲの生地が、ぷっくりと可愛らしい膨らみを見せている。
縁の部分には『ピエ』と呼ばれるフリルのような焼き目が綺麗に立ち上がっており、ひび割れも一切ない。完璧な温度管理の賜物だ。
「……よし。焼き上がりは上々だな」
うららかな春の陽光が差し込む、放課後の旧校舎。
その最奥に位置する家庭科室――通称『料理部』の部室で、俺、日高清春は、オーブントースターの前で一人、満足げな吐息を漏らした。
ミトンをはめて天板を取り出し、網の上で粗熱を取る。
生地が冷めるのを待つ間、ボウルの中でホワイトチョコレートとピスタチオペーストを滑らかになるまで混ぜ合わせ、濃厚なガナッシュクリームを手早く仕上げていく。
窓の外からは、遠くグラウンドを走る運動部の掛け声や、吹奏楽部が奏でる不器用なトランペットの音が聞こえてくる。
どこかで誰かが汗を流し、どこかで誰かが恋をして、どこかで誰かが涙を流す。
まさに青春群像劇のど真ん中。実に結構なことだ。俺には一切、全く、1ミリも関係のない話だが。
「平和だ……。なんて素晴らしい日常なんだろうか」
俺は備え付けのティーポットに茶葉を放り込みながら、この静寂に包まれた空間をぐるりと見渡した。
俺は料理部の幽霊部員……いや、正確には「食べる専門の居候」である。
現在のところ、この料理部には正規の部員と呼べる人間は俺を含めて誰もいない。顧問である家庭科の老教師がズボラで、部室の鍵を常に開けっ放しにしているのをいいことに、俺はここを「誰にも邪魔されない最高のサボり部屋」として不法占拠……もとい、有効活用していた。
俺の座右の銘は『事なかれ主義』だ。
面倒事には絶対に首を突っ込まない。ラブコメのフラグが立ちそうになっても、鋼の意志でへし折る。
たとえば、曲がり角でトーストをくわえた美少女とぶつかりそうになれば、アスリート並みの反射神経で側転して回避する。ヤンキーに絡まれている同級生を見つけたら、自ら助けに入るような真似はせず、安全圏から匿名で生活指導の教師に通報して颯爽と立ち去る。
それが、この理不尽なフィクション的展開に満ちた現代社会(学園生活)を、平穏無事に生き抜くためのモブキャラクターとしての最適解だからだ。
「よし、クリームの硬さもちょうどいいな」
冷めた生地の裏側に、絞り袋に入れたピスタチオのガナッシュをたっぷりと乗せ、もう一枚の生地で優しく挟み込む。
コロンとした、パステルピンクと鮮やかなグリーンのコントラストが美しいマカロンが、銀色のバットの上に次々と並べられていく。
俺がなぜ、ここまで徹底して日陰を歩くような『事なかれ主義』を貫いているのか。
それは単に俺の性格が怠惰だからというだけでなく、俺という人間の身体に、絶対に他人には知られてはいけない『致命的なバグ』が潜んでいるからだ。
「……あんな力、一生使わずに済むならそれに越したことはない」
俺は誰に聞こえるでもなく、低く呟いた。
極度のストレスや生命の危機に瀕した時、俺の身体は俺自身の意志を離れ、とんでもないバケモノへと強制的に変身してしまう。
大妖怪、白鐘の姫。
もし一度でも学園でその姿を晒せば、俺の愛する「平穏なモブライフ」は一瞬にして崩壊し、政府の裏機関やら退魔師やら、あるいは怪異の親玉やらに追われる、ドタバタ異能バトルライフが始まってしまうに違いない。
そんなラノベみたいな展開、絶対に御免だ。
俺は、この旧校舎の片隅で一人静かにマカロンを食い、スーパーの特売日で安く肉を買い、週末はゲームをして惰眠を貪る。そういう小市民的な幸せを生涯貫く。そう心に固く誓っているのだ。
「さて、味見といくか」
俺はティーカップに紅茶を注ぎ、出来立てのマカロンを一つ指でつまんだ。
口に放り込むと、サクッとした軽やかな歯触りの直後、しっとりとした生地の甘みと、ピスタチオの濃厚でナッツ感あふれる香りが舌の上に広がった。
温かい紅茶でそれを流し込む。
「……完璧だ。店で売れるレベルだな、我ながら」
俺は満足げに頷き、残りのマカロンを、持参した四角いタッパーに丁寧に詰め込んだ。
この料理部は、旧校舎の最奥という立地もあって、不良の溜まり場にもならず、リア充のイチャイチャスポットにもならない。まさに事なかれ主義の俺にとって、絶対に誰にも侵されない不可侵条約の結ばれた聖域だった。
……そう。この時の俺は、心の底からそう信じ切っていた。
この静かで平和な料理部が、やがて学園中の限界突破した美少女たちが俺の匂いを巡って血みどろのマウント合戦を繰り広げる、『地獄のペンタグラム(五芒星)の中央座標』へと変貌してしまうことなど、知る由もなかったのだ。
「よし、そろそろ帰るか」
空になったティーカップとボウルをシンクで丁寧に洗い、水気を拭き取る。
エプロンを外し、マカロンの入ったタッパーを学生鞄の中に滑り込ませた。
部室を出て旧校舎の廊下を歩く。
窓の外は、すでに燃えるような茜色の夕焼けに染まっていた。
他愛のない、何一つ事件の起きなかった一日。この「何も起きない」という事実こそが、俺にとっては最高の報酬なのだ。
校門を抜け、駅前の商店街へと向かう。
途中、駅前のコンビニの近くで、同じクラスの派手なギャル――猫宮珠希が、何やらスマホを見ながらキョロキョロと探し物をしている姿が目に入った。
さらにその少し先の交差点では、幼馴染である水無月結衣が、氷のような冷たい表情で腕を組み、誰かを待っているかのように立ち尽くしている。
フラグの匂いがした。
彼女たちとここで目を合わせれば、「ちょっと日高! 探し物手伝ってよ!」とか「……何か用……?」とか、面倒なイベントに巻き込まれる可能性が極めて高い。
「……見なかったことにしよう」
俺は瞬時に『モブのステルス歩行』を発動し、電柱と看板の死角を利用しながら、音もなく裏路地へと進路を変更した。
完璧なリスク回避。俺の事なかれ主義に死角はない。
裏通りを抜け、目的の激安スーパーへと辿り着く。
今日の夕飯は何にしようか。タイムセールで豚肉の細切れが安くなっていれば、生姜焼きにでもしよう。玉ねぎは冷蔵庫に残っていたはずだ。
そんな、どうでもいい平和なことばかりを考えながら、俺はネギと豚肉の入ったレジ袋を提げて、帰路についた。
住宅街を抜け、家賃の安い築年数の古いアパートへと到着する。
外階段を上り、見慣れた自分の部屋の扉の前に立つ。
ポケットから冷たい鍵を取り出し、鍵穴へと差し込んで、ゆっくりと回した。




