第64話:第二夜・協定決壊。五大勢力の枕投げ(頂上決戦)
山奥の別荘での特別監視合宿、二日目の夜。
日高清春は、広々とした和室のど真ん中に敷かれた自分の布団の中で、ガタガタと震えながら毛布を頭まですっぽりと被っていた。
「……胃が、痛い。……誰か、俺を気絶させてくれ……」
特濃・胃腸薬という唯一のライフラインをストーカー幼馴染に回収され、清春の身体はすでに限界を超えていた。
一睡もできなかった昨晩の『直接搾取』のダメージに加え、日中の『五等分の合法デート』による異常な精神的疲労。
目を閉じれば、すぐにでも泥のように眠れそうだった。だが、協定という名の大義名分を掲げた五匹の獣たちが、今夜もシフト制でこの部屋に侵入してくることは確定している。
『……マスター。心拍数が弱まっていますね。このまま眠りに落ちれば、今夜こそ彼女たちの「合法的スキンシップ」の前に、マスターの理性が完全に食い破られる可能性がありますよ』
枕元に置かれたスマホから、シキの無機質な音声が静かに響く。
「……分かってるよ。でも、もう無理だ。抵抗する気力もない……。シフト制なら、せめて一時間に一人ずつだろ……。俺はもう、まな板の上の鯉だ……」
清春は、虚ろな目で天井の木目を見つめながら、これから訪れるであろう夜這い(第一シフト)をやり過ごすための覚悟を決めていた。
だが。事なかれ主義の少年のその微かな希望すらも、五人の少女たちが抱える『限界突破の欲情』の前では、あまりにも無力だった。
◆
清春の部屋から少し離れた、別荘の大広間。
そこには、薄いネグリジェやキャミソールといった、およそ「健全な合宿」には不釣り合いな、扇情的で艶めかしい寝間着姿の五人の美少女たちが、円座になって車座を作っていた。
重苦しい沈黙が、広間を支配している。
彼女たちの顔は一様に赤く上気し、荒い息を吐き、異常なほどの熱気を帯びていた。
「……ねえ」
静寂を破ったのは、氷の仮面を完全にかなぐり捨てた、水無月結衣だった。
彼女の瞳はドロドロに濁り、手には清春の『靴下』が握りしめられている。
「……正直に言いなさい。あんたたち、昨日のシフト制の『五分の一』の搾取時間で、満足できたの?」
その言葉に、四人の肩がビクッと跳ねた。
「……満足できるわけ、ないっしょ」
猫宮珠希が、自分の太腿を掻きむしりながら、ギリッと牙を剥く。
「キヨっちの寝汗舐めてたら、もっと奥まで欲しくなっちゃったし……。あたし、朝までずっとキヨっちに抱きついてないと、もうおかしくなりそう……っ」
「……私も」
八束綾が、見えない粘糸で自分の指をギリキリと締め付けながら、虚ろな声で同調した。
「……一晩中、清春くんを私の糸で縛って、私の匂いだけで満たしたい。……他の女の匂いが混ざるなんて、もう我慢できない……っ」
「清春様が吐き出される二酸化炭素は、すべて私のもの! 一秒たりとも、あなたたちに分け与えるなど不敬極まりありません!」
波澄澪が、狂信的な瞳で断言する。
そして、最後に。
生徒会長・御子柴天音が、自らの胸を強く抱き締めながら、蕩けきった忠犬の顔で身悶えした。
「……ご主人様の足の指を舐めるだけでは、もう足りない……。もっと、全身で踏まれたい……っ。ご主人様の匂いが染み込んだ布団に、朝まで一緒にくるまれて、豚のように罵られたい……っ!」
全員の意見が、完全に一致した。
五等分では、足りない。
シフト制で順番を待つ間に、彼女たちの『姫の匂い(マタタビ)』に対する禁断症状は、協定という理性の枷をあっさりとへし折るレベルまで肥大化してしまっていたのだ。
「……なら、結論は一つね」
結衣が、ゆっくりと立ち上がった。
「『共同管理協定』は、たった今、この瞬間をもって破棄する。……今夜、キヨくんの隣(玉座)で朝まで一緒に寝るのは、私よ」
「……上等っしょ。化け猫のスピードに、幼馴染の足が追いつけると思ってるわけ?」
「……清春くんのベッドは、私の糸で完全に要塞化するから……。誰も入れない……」
五人の間に、明確な『殺気』が走った。
休戦条約は、わずか数日で決壊した。
たった一人の極上のマタタビを巡る、仁義なき聖杯戦争が、ついにその火蓋を切ったのである。
◆
深夜一時。
清春が、微かな微睡みの中に落ちようとしていた、まさにその時だった。
ドバァァァァァァァァァァァンッ!!!!
「ひゃぁっ!?」
凄まじい轟音と共に、清春の部屋の分厚い襖が、五等分にへし折られて吹き飛んだ。
「キヨっちぃぃぃっ!! 一番乗りはあたしっしょ!!」
「……泥棒猫には渡さない……! 清春くん、今行くから……っ!」
土煙が舞う中、薄着の美少女五人が、凄まじい形相で清春の部屋になだれ込んでくる。
その光景は、もはや夜這いなどという生易しいものではない。完全な『カチコミ(強襲)』だった。
「お、お前ら!? シフト制はどうしたんだよ!!」
布団の中で震える清春の叫びに、結衣が冷酷に言い放つ。
「そんな生ぬるいルール、今すぐゴミ箱に捨ててきたわ! 今夜は私一人で、キヨくんの身体の隅々まで堪能させてもらうから!」
「ご主人様! どうか一番最初に、この私を足蹴にしてください!」
五人が一斉に、清春の寝ている布団(玉座)に向かって飛びかかってきた。
だが、その瞬間。
「……私の清春くんに、触らせない……っ!」
八束綾の指先から放たれた無数の『見えない粘糸』が、空間に張り巡らされ、他メンバーの突進を空中で絡め取ろうとした。
「邪魔っしょ!!」
珠希が空中で身をよじり、化け猫の鋭い爪でその粘糸を引き裂く。
その直後、珠希は部屋の隅に置かれていた『予備の枕』を足で蹴り上げ、結衣の顔面めがけて凄まじいスピードで投擲した。
「あんたこそ引っ込んでなさい!!」
結衣が手をかざすと、彼女の前に展開された『絶対防御の不可視バリア』が発動し、飛んできた枕をピンボールのように跳ね返した。
ポスッ!!
跳ね返った枕が、天音の顔面にクリーンヒットする。
「あ、ぁぁっ……! ご主人様のお部屋の枕が、私の顔に……っ! もっと、もっとご主人様の匂いがついた物で私をぶって……っ!」
天音は顔を赤らめて身悶えしながら、自らも枕を手に取り、御子柴流の退魔の術を込めて(なぜか嬉しそうに)投げ返し始めた。
「枕投げ……修学旅行の定番ですが……清春様の御前で乱闘など、許されません!」
澪が、洗面所から引き込んできた大量の水を枕に染み込ませ、『超重量の水弾枕』を作り上げて、綾と珠希に向けて放り投げた。
ズドォォン!!と、水を含んだ枕が畳を叩き割り、水しぶきが部屋中に飛び散る。
「……え、嘘だろ……」
布団の真ん中で縮こまっている清春は、信じられない光景に目を疑った。
五人の美少女たちが、半妖の能力と退魔の術をフル稼働させ、清春の部屋にあるすべての枕や座布団を凶器に変えて、超次元の『枕投げバトル』を繰り広げているのだ。
「……死ね泥棒猫! キヨくんの汗は私が舐めるのよ!」
「うるさいっしょ! 猫の動体視力に当たるわけないじゃん!」
ブンブンと宙を舞う枕。
綾の糸によって軌道を変えられた『ホーミング枕』が飛び交い、結衣のバリアで跳ね返された枕が障子を突き破る。
澪の水魔法でビショビショになった枕が壁に激突して泥水を作り、天音はお札を貼り付けた『起爆式・退魔枕』を放り投げながら、自分も枕に当たっては「はぁんっ♡」と卑猥な声で喜んでいる。
完全な、カオス。
修学旅行の青春の象徴であるはずの枕投げが、異常な性癖と殺意の煮詰まった、文字通りの『聖杯戦争』へと変貌していた。
「お前ら、やめろ……っ! 他人の部屋で暴れるな!!」
清春の制止の声など、発情と狂信で脳が焼き切れた彼女たちの耳には全く届かない。
ビッ! ベリベリッ!!
飛び交う枕と衝撃波の余波で、清春の部屋の障子はズタズタに引き裂かれ、畳はえぐれ、羽毛布団が破けて大量の羽毛が吹雪のように舞い散る。
そして。
不運にも、澪が放った『超重量・水弾枕』が、空中で綾の『粘糸』に絡め取られ、軌道を大きく逸れて――。
ドメシャァァァァァッ!!!!
布団の中で震えていた日高清春の顔面に、凄まじい勢いで直撃した。
「……っ」
清春の顔が、ビショビショに濡れた重たい枕と、ベタベタの蜘蛛の糸によって、完全に覆い隠された。
冷たい水が首筋を伝い、破れた枕から飛び出した羽毛が、蜘蛛の糸で顔中に張り付く。
静寂。
一瞬だけ、部屋の空気が凍りついた。
「あ……」
「キ、キヨっち……?」
「……清春、くん……ごめん、なさい……」
五人のヒロインたちが、自分たちのやらかした事態(ご主人様への誤射)に気づき、サァッと青ざめて動きを止める。
清春は、顔面に張り付いた枕と糸を、ゆっくりと、震える手で剥がし取った。
胃薬はない。
一晩中眠れていない。
散々連れ回され、胃は崩壊している。
その上で、ようやく眠れると思った矢先に、部屋を破壊され、顔面に泥水を含んだ枕を叩きつけられた。
事なかれ主義の少年の、理性を保っていた最後の「糸」が。
プツリ、と。
明確な音を立てて、切れた。
「……お前ら」
清春の声は、地を這うように低く、そして、一切の感情を失っていた。
「ひっ……!」
「キヨくん……怒って……」
五人が後ずさる。
清春がゆっくりと立ち上がる。その顔に張り付いた羽毛がハラハラと落ちる中、彼がゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥で。
人間としての黒い瞳が完全に消失し、圧倒的で、残酷な『黄金色の輝き』が、ギラリと猛烈な光を放ち始めた。
「……俺の安眠を、これ以上邪魔するなァァァァァッ!!!!」
清春の魂からの、ブチギレの咆哮。
それと同時に、彼の身体から、これまでの比ではないほどの爆発的な『白銀の閃光』と、別荘の空間そのものを凍結させる『絶対零度のプレッシャー』が放たれた。
『……あーあ。ついに、怒らせてしまいましたね。……ご愁傷様です。マスターの「制限解除」、実行します』
シキの無機質な音声が、絶望の宣告として響き渡る。
理不尽な欲求で暴走した五匹の獣たち。
だが、彼女たちが怒らせたのは、ただの事なかれ主義の少年ではない。
生態系の頂点に君臨し、すべてを理不尽な力で蹂躙する、最恐にして絶世の『女神』であった。
破滅の枕投げの終焉。
真なる恐怖と、そして狂気に満ちた『お仕置き』の時間が、今、静かに幕を開けようとしていた。




