第63話:二日目・五等分の合法デートと胃薬の枯渇
山奥の別荘での合宿、二日目の朝。
大広間に用意された豪華な朝食の席で、日高清春のライフはすでに風前の灯火となっていた。
「……ははっ。お味噌汁が目に沁みるなァ……」
両目の下には、絵に描いたような真っ黒なクマ。落ち窪んだ眼窩と、血の気を失った青白い肌。その姿は、まるで墓場から這い出してきたゾンビそのものだった。
昨晩、協定の追加条項によって解禁された『睡眠時の直接搾取』。化け猫の寝汗舐め、土蜘蛛の拘束、幼馴染の衣服深呼吸、人魚の吐息泥棒、そして退魔師の足指舐め。
一分一秒の安眠すら許されず、常に限界ギリギリのフェティシズムの標的にされ続けた清春の精神と体力は、完全に限界を突破していた。
対照的に、彼を取り囲む五人の美少女たちは。
「キヨっち! ご飯のおかわりいる!? あたしがよそってあげるっしょ!」
「……清春くん、卵焼き、私がふーふーしてあげる。……あーん……」
「清春様! 食後のお茶は、この澪が完璧な温度で淹れさせていただきます!」
眩しい。物理的に、彼女たちの肌から発光しているのではないかと思うほどに眩しかった。
一晩中、清春(白鐘の姫)が発する極上の妖力と匂いを至近距離で吸い上げ続けた彼女たちは、髪は艶やかに潤い、肌は真珠のように輝き、生命力と色気に満ち溢れた『絶好調の美少女』へと仕上がっていたのである。
『……マスター。見事なコントラストですね。マスターの生気を吸い尽くして美しく咲き誇る五輪の毒花と、養分を吸い尽くされて干からびた枯れ枝。……これが自然界の残酷な生態系というやつです』
ポケットの中のシキが、どこか感心したような声で実況する。
(黙れポンコツ……。俺は今日一日、このテンションのバケモノたちに付き合わなきゃいけないのか……?)
清春は、胃の辺りを押さえながら、これから始まる地獄のスケジュールを想像して絶望した。
そう、今日は合宿の二日目。協定に基づく『五等分の合法デート(エスコート)』の日である。
◆
午前十時。別荘に併設されたプレイルーム。
第一の地獄は、化け猫のギャル・猫宮珠希と、生徒会長・御子柴天音による「卓球」だった。
「そぉれっ! キヨっち、行くよーっ!」
パァンッ!と小気味よい音を立てて、珠希がピンポン玉を打ち込んでくる。
半妖の身体能力を無駄に活かした彼女の動きは機敏で、卓球台の周りをピョンピョンと跳ね回るたびに、Tシャツの奥で豊かな胸が激しく上下に揺れている。
「お、おい猫宮! 速いって! 俺、運動神経普通なんだから!」
「あははっ! じゃあ、あたしが後ろから手取り足取り教えてあげるっしょ!」
珠希は卓球台を回り込み、清春の背後にピタリと張り付いた。
そして、清春のラケットを持つ右手を自らの両手で包み込み、背中から彼女の柔らかな双丘をぐりぐりと押し付けてきた。
「ちょ、猫宮、近い! 当たってる!」
「えー? 何が当たってるのさー? ……にゃぁ……キヨっち、汗かいてきたね。……首筋の汗、ちょっとだけ……舐め……」
珠希が、発情した猫の目で清春のうなじに舌を伸ばそうとした、その瞬間。
「そこまでだ、猫宮! 指導の範疇を超えているぞ!」
部屋の隅で腕を組んで監視していた天音が、ホイッスルをピィーッ!と鳴らして割って入った。
彼女は、まるで違反者を取り締まる警官のような厳しい顔で珠希を引き剥がす。
「……チッ。生徒会長、お固いっしょ。……協定のルール内でちょっとスキンシップしただけじゃん」
「黙れ。風紀の乱れは許さん。……日高、ラケットの握りが甘い。私が正しいフォームを『指導』してやる」
天音はそう言うと、珠希と全く同じように、清春の背後にピタリと密着した。
そして、清春の右腕をがっちりとホールドし、自身の豊かな胸を、先ほどの珠希以上の圧力で清春の背中に押し付けてきた。
「……え? 先輩? これ、さっきの猫宮と何が違うんですか?」
「……しっ、静かにしろ。これは、厳正なる、指導だ……」
天音の声が、不自然に震えていた。
清春が恐る恐る背後を振り返ると、そこには、厳格な生徒会長の顔を完全に溶かし、耳の先まで真っ赤にして荒い息を吐く『ドM忠犬』の姿があった。
「……すぅぅぅぅぅぅぅぅっ……!! あぁっ、ご主人様の、少し汗ばんだ体操着の匂い……っ。たまりません……っ。もっと、もっと私を邪魔者扱いして、邪険に振り払ってください……っ。そうすれば、私は指導という名目で、さらに強くあなたに絡みつきますから……っ」
天音は、清春の背中に顔を埋め、ズォォォォォッと掃除機のような音を立てて匂いを吸引している。
表向きは「指導」、裏では限界ギリギリの「マタタビ搾取」。
「……二人とも、どっちもアウトだろォォォッ!!」
清春のツッコミは、卓球台に虚しく響き渡るだけだった。
◆
午後一時。別荘の裏手にある豊かな森の散策道。
第二の地獄は、図書委員の土蜘蛛・八束綾と、水泳部の人魚・波澄澪のターンだった。
「……ふぅ。山の空気は美味しいけど、今日は日差しが強いな」
清春は、額の汗を拭いながら木陰を探した。
すると、隣を歩いていた綾が、分厚い眼鏡の奥の瞳を妖しく光らせて、清春の袖を引っ張った。
「……清春くん。あそこの大きな木の下、すごく涼しそうだよ。……一緒にお休みしよ?」
「お、そうだな。ちょっと休もうか」
清春が、綾に指差された巨木の根元に腰を下ろした、その瞬間。
――カシャッ、と。
周囲の空間の景色が、微妙に歪んだような気がした。
「……ん? なんか今、音が……」
「……気のせいだよ、清春くん。……さあ、私の膝枕で、ゆっくり休んで……」
綾が、清春の頭を強引に引き寄せ、自分の太腿の上にゴロンと寝かせた。
清春が「悪いな」と起き上がろうとしたが、身体が動かない。
(……え? なんで? 腕が……上がらない!?)
清春はパニックに陥った。見えない極細の『粘糸』が、いつの間にか清春の四肢を巨木の根にがっちりと縛り付け、完全に彼を拘束していたのだ。
さらによく見れば、巨木の周囲半径五メートルの空間に、太陽の光を遮るように巨大な『見えない蜘蛛の巣』の結界が張り巡らされ、完全な密室と化していた。
「や、八束さん!? これ、お前の糸か!? ほどいてくれ!」
「……だめ。清春くんは、疲れちゃってるから。……私が、清春くんの汗、全部綺麗に舐めてあげる……。……ここなら、誰にも見られないし……邪魔されない……」
綾が、濁りきった独占欲の瞳で清春を見下ろし、その顔をゆっくりと近づけてくる。
彼女の舌が、清春の鎖骨に触れようとした、まさにその時。
バシャァァァァァァァァァッ!!!!
突然、蜘蛛の巣の結界の上空から、大量の『水柱』が滝のように降り注ぎ、綾の粘糸を溶かして洗い流した。
「きゃっ!? な、何!?」
「清春様の御身を、糸などで縛り付けるなど不敬極まりありません! 清春様、お助けに上がりました!」
森の奥にある小川から、大量の水を操りながら波澄澪が姿を現した。
「波澄! 助かった!」
「はい! 清春様、汗をかいておいでですね。さあ、この澪が精製した『神聖なる水(という名目の私の妖力水)』をお飲みください!」
澪は、清春の口元に水筒を押し当てた。
だが、その水筒の中身は、普通のミネラルウォーターではなかった。微かに甘く、そして澪の「狂信的なフェロモン」が限界まで溶け込んだ、ヤバすぎる液体だったのだ。
「んぐっ……!? ちょ、波澄、これ、水じゃない……甘っ……!?」
「あぁっ……清春様が、私の水を飲んでくださっている……っ! これで、清春様の体内の水分は、すべて私の愛で満たされました……っ。もう、私なしでは生きられないお身体ですね……っ!」
澪が、清春の顔を両手で挟み込み、恍惚の表情で祈りを捧げ始める。
土蜘蛛の狂気的な拘束から逃れたと思えば、今度は人魚の狂信的な体内侵略。
森のマイナスイオンなど微塵もない、重すぎる愛のドロ沼がそこにはあった。
◆
午後四時。別荘の広大なキッチン。
第三の地獄。夕食の準備を担当する、幼馴染・水無月結衣との時間。
「……キヨくん。お味噌汁の味見、してちょうだい」
結衣が、お玉で掬った味噌汁を小皿に取り、それに自分の使っていた『スプーン』を添えて清春の口元に差し出した。
ここまでの激しい搾取の連続で疲労困憊の清春は、何も疑わずにそのスプーンを口に含んだ。
「ん……美味い。出汁がしっかり効いてる」
「……ふふっ。そう、よかったわ」
結衣の顔が、一瞬だけ、ゾッとするほど蕩けたストーカーの顔に歪んだ。
彼女は、清春が口をつけたそのスプーンを、躊躇うことなく自らの口に含み、「んちゅ……っ」と音を立てて舐め取ったのだ。
「えっ……結衣、お前……今、俺の使ったスプーンを……」
「……何よ。味見の確認をしただけよ。幼馴染なんだから、間接キスくらい昔は普通にしてたでしょ?」
結衣は、氷の仮面を被って涼しい顔をしているが、その実、清春の唾液が混ざった味噌汁の味に脳髄を焼かれ、エプロンの下で膝をガクガクと震わせている。
「ちょっと待ったぁぁぁぁっ!!」
バンッ!!と、キッチンの扉が開かれ、天音、珠希、綾、澪の四人が一斉になだれ込んできた。
「水無月さん! 今の間接キス、完全に協定違反よ! 『第2条:間接エキスは五等分する』って決めたじゃない!」
綾が、キリキリと見えない糸を指に巻き付けながら激怒する。
「そうっしょ! キヨっちの唾液、結衣だけ独り占めはずるい! あたしにも味見させなさいよ!」
珠希が、牙を剥いて結衣に迫る。
「……ふん。馬鹿ね、雌豚ども。これは『料理担当』としての正当な味見よ。……あなたたちみたいに、理性を抑えきれない獣とは違うのよ」
結衣が、圧倒的な正妻(幼馴染)の余裕で鼻で笑う。
その言葉が、四人の導火線に完全に火をつけた。
「……言ったな。なら、我々も強行手段に出るまでだ」
天音が、生徒会長の腕章を外し、長刀の代わりに菜箸を構えた。
「さあキヨっち! あたしが切ったトマト、あーんして!」
「清春くん、私の和えたほうれん草も……あーん……」
「清春様! 私が釣ってきたイワナのお刺身を、口移しで……!」
五人のヒロインたちが、それぞれに食材やスプーンを持ち、清春の口(粘膜)を巡って、キッチンで恐るべき『あーん合戦(物理)』を開始した。
右からトマト、左からほうれん草、正面からは味噌汁の追加が飛んでくる。
「もごっ……!? んぐっ……お前ら、いっぺんに口に入れるな! 味がぐちゃぐちゃだ……っ!」
清春の口に、五人の「愛(という名のエキス)」がこれでもかと詰め込まれる。
むせ返るようなフェロモンと、彼女たちの狂気的な執着。
その時。
――キリキリキリッ……!!
清春の胃壁が、限界を告げる断末魔の悲鳴を上げた。
昨晩からの過度なストレスと寝不足、そして今口にねじ込まれた五種類の食材が、事なかれ主義の少年の胃袋を完全に破壊したのだ。
「……っ、あ、あああああっ! 胃が……! 俺の、胃袋がァァァッ!!」
清春は、口を抑え、胃を抱え込んでキッチンの床にうずくまった。
「キ、キヨっち!?」
「清春くん! どうしたの!?」
パニックになる五人を尻目に、清春は這うようにしてキッチンの外へ逃げ出し、自室へと向かった。
鞄の中には、最後の希望がある。
こんなこともあろうかと、出発前に薬局で買っておいた、一番効き目の強い『特濃・胃腸薬』の瓶が。
「……薬、薬……っ! これさえ飲めば、まだ戦える……!」
清春は、震える手で鞄をひっくり返し、胃薬の瓶を取り出した。
だが。
カラカラ……と。
瓶の中からは、虚しい乾いた音が鳴るだけだった。
「……え?」
清春は、瓶の底を逆さまにして振った。
一粒も出ない。
いや、それどころか。瓶の側面に、見覚えのない『手書きの付箋』が貼られていることに気がついた。
『――キヨくんの汗ばんだ指紋がいっぱいついたこの小瓶、私のコレクションとして回収させてもらいました。中身のお薬は、キヨくんがこれ以上無理をしないように、お水に溶かして捨てておきました。 追伸:もっと私たちに甘えてね♡』
「……」
清春の思考が、完全に停止した。
結衣だ。あの狂信的ストーカー幼馴染が、俺の『私物』を回収する一環で、命の綱である胃薬の瓶まで『マタタビ』として強奪しやがったのだ。
「……終わった。……俺の、ライフラインが……完全に絶たれた……っ」
清春の目から、一筋のツーッと涙がこぼれ落ちた。
武器も、防具も、回復アイテムも失った。
あるのは、廊下の奥から「清春くぅーん?」「キヨっち、どこ行ったのー?」と、飢えた獣のように這い寄ってくる、五人のヒロインたちの足音だけ。
『……マスター。お悔やみ申し上げます。胃薬の枯渇は、事なかれ主義の完全なる「死」を意味します。……さあ、今夜はどうやって彼女たちの「協定破棄」による暴走から生き延びるつもりですか?』
「シキ……もう、白鐘の姫に変身して……全員凍らせていいかな……」
夕闇が迫る温泉別荘。
供給を制限されたことで逆に理性のタガが外れつつある五大勢力と、胃薬を失い絶望の淵に立つ主人公。
限界ギリギリのバランスで保たれていた『共同管理協定』は、今夜、完全なる崩壊の時を迎えようとしていた。




