第60話:地獄の温泉合宿、開幕。勘違いの終焉
学園からバスに揺られること数時間。
人里離れた山奥、険しい峠道を越えた先に現れたのは、日高清春の想像を遥かに超えるほど巨大で豪華な日本家屋だった。
「……ここ、本当に個人所有の別荘なのか? ちょっとした高級旅館じゃないか」
清春はバスを降り、目の前にそびえ立つ門構えを見上げて圧倒されていた。
御子柴家の本家が管理しているというその別荘は、周囲を深い森と険しい崖に囲まれ、外界から完全に遮断された、まさに「秘境」と呼ぶに相応しい場所だった。
「ええ。この一帯の山はすべて御子柴の領地だ。……誰に邪魔されることも、誰に監視されることもない。……ふふっ、最高の環境だろう?」
清春の隣で、生徒会長・御子柴天音が凛とした、しかしどこか熱っぽい声を漏らした。
彼女はいつも通り厳格な生徒会長の顔を崩していないが、その手には「監視用」と称して清春の着替えが入ったバッグをしっかりと握りしめ、時折、その持ち手から伝わる清春の残り香を密かに掌で愛でている。
「キヨっちー! 見て見て、あっちに川もあるよ! 後で一緒に泳ごうよ!」
「……だめ。清春くんは、私と一緒にお庭を散策するの。……ね、清春くん?」
猫宮珠希が清春の背中に飛びつき、八束綾がその腕にヌルリと絡みつく。
以前ならここで「離れなさいよ泥棒猫!」と怒鳴り散らしていた水無月結衣が、今日はなぜか静かだった。彼女は手帳を広げ、何やら複雑なタイムテーブルを確認しながら、冷徹な声で言い放った。
「あんたたち、予定を乱さないで。……最初の三十分は、幼馴染(私)がキヨくんを部屋まで案内する時間。……珠希と綾は、荷物の搬入。澪と会長は、夕食の準備。……協定を破ったら、明日の自由時間は没収よ」
「……チェッ、分かってるっしょ。……キヨっち、後でね!」
「……清春くん、三十分後、待ってるから……」
珠希と綾が、未練たっぷりに清春から離れていく。
清春は、その光景を見て、再び深い安堵の溜息を吐き出した。
「……すごい。本当にあいつら、結衣の指示に従ってる。……あんなに仲が悪かったのに、今じゃ完璧な連携じゃないか」
清春の目には、彼女たちが「歩み寄り、協力し合っている美しき友情」に見えていた。
事なかれ主義の少年にとって、争いがないことは何よりも優先される平和の象徴だった。
『……マスター。あなたのその全肯定のフィルター、一度煮沸消毒した方がいいかもしれません。……彼女たちが協力しているのは、マスターという名の「極上のマタタビ」を、最も効率よく、一滴も残さず搾り取るためです。……これは友情ではなく、肉食獣による「配分会議」の成果ですよ』
「シキ、お前は本当にひねくれてるな。……いいじゃないか、平和なら。さあ、温泉バカンスの始まりだ!」
清春はシキの警告を陽気な鼻歌で受け流し、結衣に促されるまま、豪華な木造建築の中へと足を踏み入れた。
◆
別荘の内部は、外観以上に豪華だった。
磨き抜かれた廊下、歴史を感じさせる重厚な梁、そして至る所に生けられた季節の花々。
案内された清春の部屋は、最上階の角部屋で、大きな窓からは山々の絶景と、御子柴家自慢の露天風呂が見下ろせる最高の立地だった。
「……素晴らしい部屋だな。本当に、修学旅行より贅沢だ」
清春は、畳の上に大の字になって寝転がった。
移動の疲れと、温泉の硫黄の香りが混ざり合った心地よい空気が、彼の警戒心を完全に溶かしていた。
「……そう。気に入ってくれたならよかったわ。……はい、お茶を淹れたわよ。キヨくん」
結衣が、流れるような動作でお茶を淹れ、清春の枕元に置いた。
清春は「サンキュ」と短く答え、その温かい茶を一気に飲み干した。
「ふぅ……美味い。……結衣、お前も座って休めよ」
「……ええ、そうさせてもらうわ」
結衣は、清春のすぐ隣に腰を下ろした。
その距離、わずか数センチ。
以前の彼女なら、恥ずかしがって距離を置くか、逆に攻撃的な態度を取っていたはずだが、今の結衣は違う。
彼女は、清春の腕が自分の太腿に触れるか触れないかの限界の距離を維持したまま、静かに、そして深く、清春の体温が混ざった空気を鼻から吸い込んでいる。
「……」
清春が、飲み終わった湯呑みを畳に置いた、その瞬間だった。
「……片付けておくわね」
結衣の手が、電光石火の速さで湯呑みを回収した。
清春が「あ、ありがとう」と言う間もなく、結衣はそのまま背を向けて部屋を出て行こうとする。
(……早いな。そんなに急がなくても……)
清春は、少し違和感を覚えた。
だが、彼が本当に驚愕すべきは、その後の光景だった。
『……マスター。被写体「水無月結衣」、廊下に出た瞬間にマスターの使った湯呑みを両手で包み込み、まだ残っているマスターの唾液と唇の温もりを、狂ったように舌で舐め回しています。……あ、耳の先まで真っ赤にして昇天していますね。……立派なマタタビジャンキーです』
シキが脳内に投影した隠し撮り映像。
廊下の影で、あの氷のように冷たいはずの結衣が、湯呑みに顔を押し当てて「はぁぁっ……キヨくんのエキス……っ。美味しい、美味しいわぁ……っ」と身悶えしている。
「げっ……結衣……お前……っ」
清春が絶句していると、入れ替わるようにして部屋に御子柴天音が現れた。
「失礼する。……日高、三十分が経過した。次は、生徒会長(私)による『周辺環境の安全確認』の同行時間だ。……立ちなさい」
「あ、はい……」
天音は、清春の手を強引に引き、彼を立たせた。
そのまま彼女は、清春が座っていた座布団の上に手を置き、その「余熱」を確認するようにして掌を押し当てる。
「……ふむ。問題ない。……残留霊気(匂い)も安定しているな」
「……先輩、何してるんですか?」
「……何でもない。風紀の乱れがないか確認しただけだ」
天音は、清春に背を向けた瞬間、座布団に残った清春のお尻の形に鼻を近づけ、「すぅぅぅぅぅぅっ……!!」と全身全霊でその匂いを吸い込んでいた。
清春の目には見えないが、彼女の顔面はすでに恍惚とした快楽でドロドロに溶け出しており、忠犬のように尻尾があれば、間違いなく高速で振っていたであろう。
『マスター。御子柴天音、マスターの座布団の残り香だけで「絶頂」の閾値の80%に到達しました。……協定によって「直接接触」を制限されている反動で、彼女たちの感受性は今、常軌を逸したレベルまで敏感になっています』
「……この別荘、一歩外に出れば地獄じゃないか……っ!」
清春は、冷や汗を流しながら天音の後を追った。
どこへ行っても、何に触れても。
彼が残した「痕跡」を、五人の少女たちがシフト制で完璧に、そして狂気的な執着をもって回収・消費していく。
廊下を歩けば、角を曲がった先で波澄澪が「清春様が歩かれた後の空気が神聖すぎます……っ」と、壁に頬を擦り付けて空気を吸っている。
庭に出れば、八束綾が「清春くんが踏んだ土……大切に持ち帰らなきゃ……」と、清春の足跡がついた土をスコップで丁寧に採取している。
そして、物陰からは猫宮珠希が「あーっ! キヨっち、今ちょっと首筋掻いたでしょ! その剥がれ落ちた皮膚の欠片、あたしが真っ先に見つけるんだからね!」と、肉食獣の目で狙っている。
「……シキ。俺、もう帰りたい」
『不可能です。ここは御子柴の領地。バスは明日まで来ませんし、徒歩で下山しようとすれば、森に潜む土蜘蛛の女や化け猫の女に、即座に捕縛・回収されて「強制添い寝」の刑に処されるのが関の山です』
「詰んでる……。俺の人生、完全に詰んでる……っ!」
◆
夕食の時間。
大広間に用意された料理は、山海の珍味を尽くした超豪華なものだった。
清春を囲むように、五人の美少女たちが並んで座っている。
「さあ、キヨっち! これ、あたしが焼いたイワナだよ! あーんして!」
「……清春くん。この山菜、私が一枚一枚、丁寧に清春くんの匂いを念じながら洗ったの。……食べて?」
「清春様! このお吸い物は、私が心を込めて……いえ、魂を込めて調味いたしました! どうぞ、私の指先で温度を確認してからお召し上がりください!」
次から次へと差し出される料理。
本来なら幸せな光景のはずだが、清春には分かる。
どの料理にも、彼女たちの「執念」と、隠し味としての「唾液」や「何らかの魔術的処理」が施されていることが。
「……あ、ああ。美味いよ。全部美味い」
清春は、死んだ魚のような目で、ひたすら口に運んだ。
下手に拒否すれば、彼女たちの「協定」が崩壊し、その場で集団夜這いに発展しかねないという恐怖が、彼を完璧なイエスマンに変えていた。
「……ところで、日高」
天音が、ノンアルコールカクテルのグラスを傾けながら、とろけた顔を無理やり引き締めて言った。
「食後は、この別荘自慢の温泉に入ってもらう。……当然だが、君を一人にさせるわけにはいかない。……『衛生管理』と『安全確認』のため、我々が交代で君の入浴をサポートする」
「……えっ?」
清春の手が、止まった。
「いや、温泉くらい一人で入れるから! っていうか、混浴!? ダメだろ、それは流石に!」
「勘違いしないでよね。あんたみたいな不器用な男が一人で入ったら、背中も満足に洗えないでしょ。……幼馴染として、私が完璧に『洗浄』してあげるって言ってるのよ」
結衣が、氷のような声で、しかし瞳の奥にギラリとした肉食獣の光を宿して告げる。
「そうです! 清春様の御身を、一分の汚れもなく磨き上げるのは、我々眷属の義務! ……さあ、清春様。心の準備(という名の覚悟)をなさってください」
澪が、鼻息を荒くして立ち上がった。
『……マスター。おめでとうございます。……今夜、あなたの貞操は文字通り「五等分」にされる準備が整いました。……温泉という密室で、薄衣一枚になった彼女たちの理性が、果たしてどこまで持つか。……非常に興味深いデータが取れそうです』
「シキ! 実況してないで助けてくれ! 俺、このままじゃ温泉の露天風呂で干からびて死ぬぞ!!」
清春の悲鳴のようなツッコミは、五人のヒロインたちが放つ、むせ返るような期待と情欲の吐息にかき消されていった。
夜の帳が下り、湯煙が立ち込める温泉へと、事なかれ主義の少年は、獲物として引きずり込まれていく。
「共同管理協定」という名の恐ろしい飼育計画。
その真の恐怖が、熱い湯船の中でついに牙を剥こうとしていた。
次回、お風呂回!




