第59話:五大勢力の頂上会議と、明かされる神の正体
学園の旧校舎、家庭科室。
窓から差し込む穏やかな午後の日差しの中で、日高清春は温かいお茶をすすりながら、心の底から安堵の涙を流していた。
「……平和だ。なんて素晴らしい日常なんだ……っ」
清春の目の前では、鍋の火加減を見ている水無月結衣が、静かに料理の手を進めている。
背後に張り付いて耳を舐め回してくる猫宮珠希もいなければ、腕に絡みついて離れない八束綾もいない。足元で靴を舐める波澄澪も、突然風紀指導と称して匂いを嗅ぎに来る生徒会長・御子柴天音の姿もない。
あの、五つの激重な愛が入り乱れ、むせ返るようなフェロモンで酸欠になりかけた地獄の『料理部包囲網』から、数日が経過していた。
なぜかあの日を境に、彼女たちはピタリと争うことをやめたのだ。
月曜は結衣が幼馴染として弁当を届けに来る。火曜は珠希が休み時間に少しだけちょっかいを出しに来る。水曜は綾が図書室で静かに勉強を教えてくれる。木曜は澪が下校の付き添いをし、金曜は天音が「風紀の確認だ」と少しだけ立ち話をして去っていく。
「みんな、俺の必死の説得を分かってくれたんだ。……お互いに適度な距離感を保つ、健全な高校生活。事なかれ主義の完全復活だ!」
清春は、ガッツポーズをして己の勝利を噛み締めた。
胃薬を水なしで飲み込む日々は終わったのだ。彼女たちは怪異の洗脳から少しずつ正気を取り戻し、大人になってくれたに違いない。
『……マスター。あなたのその楽観的すぎる脳髄は、一度取り出して塩揉みした方がいいかもしれませんね』
エプロンのポケットから、シキの無機質で呆れ果てた合成音声が響く。
「なんだよシキ。嫉妬か? 俺が平穏を取り戻したのがそんなに悔しいのか」
『嫉妬ではありません、事実の指摘です。……彼女たちから立ち昇る「マスターへの依存と発情」のパラメータは、減少するどころか、地下でマグマのように圧縮され、限界突破寸前まで膨れ上がっています。……マスター、あなたが今謳歌しているのは「平穏」ではなく、「高度に管理された飼育環境」に過ぎませんよ』
「……ははっ。またお前はそういうオカルトめいた冗談を言って。俺は騙されないぞ」
清春は、シキの警告を鼻で笑い飛ばし、鼻歌交じりで家庭科室のシンクを磨き始めた。
事なかれ主義の凡庸な少年は、完全に平和ボケのぬるま湯に浸かりきっていた。
裏側で進行している、あまりにも恐ろしく、そして狂気に満ちた『取り決め』の存在に、微塵も気づくことなく。
◆
時は数日前に遡る。
放課後の本館最上階、厳重に施錠された生徒会室。
重厚なオーク材のデスク(円卓)を囲むように、学園を代表する五人の美少女たちが、氷のように冷たく、しかし底知れぬ熱情を秘めた瞳で睨み合っていた。
生徒会長・御子柴天音。
幼馴染・水無月結衣。
図書委員・八束綾。
ギャル・猫宮珠希。
水泳部・波澄澪。
「……全員、集まったな。それではこれより、『第一回・日高清春(ご主人様)保護および共同管理会議』を執り行う」
天音が、両手で顔の半分を覆うような威厳あるポーズで宣言した。
その顔は「厳格な生徒会長」そのものだったが、彼女の制服のYシャツの下には、清春が昨日着ていた脱ぎたての『体操着』が直接素肌に巻き付けられており、天音は時折「ふぅっ……」と恍惚とした吐息を漏らして身悶えしている。
「……ちょっと生徒会長。あんた、キヨくんの体操着隠し持ってるでしょ。匂いがここまで漏れてるわよ」
結衣が、氷のような視線で天音を射抜く。
結衣自身も、清春が使ったばかりの『割り箸』をジップロックに入れて胸ポケットに大切に保管しているというのに、同類へのマウントは忘れない。
「ふ、ふん! これは私が風紀の点検中に、偶然回収した紛失物だ! ……それより、本題に入るぞ」
天音は咳払いをして、一度真剣な表情を取り戻した。
「単刀直入に言う。我々がこのまま、彼の匂いを巡って無秩序に争い続ければ、遠からず彼の胃壁は物理的に崩壊し、精神が壊れてしまうだろう。……それは、我々全員にとって最大の損失である。ここまでは、異論ないな?」
その言葉に、綾、珠希、澪の三人も渋々といった様子で頷いた。
だが、天音の言葉はそこで終わらなかった。彼女は隣に座る結衣と目配せをし、小さく頷き合うと、爆弾を投下した。
「……今日、君たちを集めたのは、これからの管理方法を決めるためだけではない。……君たち三人に、『真実』を共有しておくためだ」
「真実……?」
綾が、分厚い眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。
「君たちは、なぜ我々がこれほどまでに、彼という存在に惹かれ、匂いを嗅がなければ生きていけない身体になってしまったか、考えたことはあるか?」
「そ、それは……キヨっちが、特級怪異からあたしたちを助けてくれたから……その化け物のマーキングが残ってるせいでしょ?」
珠希が首を傾げる。
「違うわ。……そもそも、彼の背後に化け物なんていないのよ」
結衣が、冷たい声で真実を告げた。
「キヨくん自身が、私たちを狂わせた『白鐘の姫』そのもの。……圧倒的な絶対零度と妖力で、この学園の怪異の生態系を更地にした、絶世の女神。それが、日高清春の正体よ」
「「「……えっ?」」」
綾、珠希、澪の三人が、同時に息を呑んだ。
「私が……いや、私と水無月が、それぞれ別の機会に、彼が直接その『女神』の姿に変貌し、圧倒的な力で怪異を蹂躙する様をこの目で見届けた。……間違いない。彼は、特級怪異に魅入られた哀れな生贄などではない。彼自身が、我々の魂を縛り付ける『神』そのものだ」
生徒会室に、重苦しい沈黙が落ちた。
自分たちが恋焦がれ、群がり、匂いを貪っていた凡庸な男子生徒。
彼が、自分たちを助け、同時にその魂をドロドロに作り変えた「生態系の頂点」だった。
普通であれば、騙されていたことに恐怖するか、あるいは人間離れした存在から逃げ出そうとするだろう。
だが。
彼女たちの魂に刻み込まれた『マーキング(姫の毒)』は、すでにそんなまともな理性を、跡形もなく溶かし尽くしていた。
「……あ、あぁ……っ。そう、だったんだ……。清春くんが、あのお姉様だったんだ……」
沈黙を破ったのは、綾だった。
彼女は、顔を両手で覆い、ガタガタと震えながら、歓喜と恍惚に満ちた涙を流し始めた。
「じゃあ、私が嗅いでいたあの匂いは……残り香なんかじゃなくて、清春くん自身の匂い……! あぁっ、なんて尊い……っ。清春くんこそが、私の神様……っ!」
「マジで!? キヨっちがあのバケモノだったの!? ……ヤバい、超燃えるっしょ!! 生態系の頂点を、あたしの匂いでマーキングし返してやるんだから……っ!!」
珠希が、化け猫の本能を爆発させ、尻尾をパタパタと激しく揺らす。
「あぁ……やはり、私の信仰は間違っていませんでした! 清春様ご自身が、我々を導く神であったとは! この命、すべて清春様に捧げます……っ!」
澪が、その場でひれ伏し、カーペットに額をこすりつけて祈り始める。
恐怖など微塵もない。
真実を知ったことで、彼女たちの執着は「恋」という次元を完全に突破し、絶対的な『信仰』と『狂信』へと進化を遂げたのである。
「……理解してくれたようだな」
天音は、すっかり発情しきった三人を見下ろし、ホワイトボードに大きく『日高清春・共同管理協定(休戦条約)』と書き殴った。
「彼が神である以上、我々は『眷属』として、彼の平穏を守り、同時に最高の状態で彼から匂いを搾取し続けなければならない。……以下、三つの条項を提案する」
天音はペンを叩き、条項を一つずつ読み上げた。
「まず『第1条:搾取のシフト制』。一日を五分割、あるいは曜日ごとに接近権を等分し、彼に我々の存在を過剰に意識させないよう配慮する。……彼には『平穏な日常が戻った』と勘違いさせておくのが、最も効率よく良質なマタタビを生産させるコツだ」
「なるほど、悪くないわね。泳がせて、より上質な汗と匂いを分泌させるってわけね」
結衣が、冷酷なストーカーの顔で同意する。
「次に『第2条:間接エキス(私物)の公平な分配』。彼が使用したストロー、コップ、衣服などの『極上の聖遺物』は、発見者が独占することを禁ずる。……必ず五等分に切り分けるか、匂いを嗅ぐ時間を秒単位で均等に割り当てること」
「ちょっと待ってよ! あたしが見つけたキヨっちのペットボトル、どうやって五等分するのさ!」
珠希が牙を剥く。
「馬鹿ね。飲み口の部分を順番に舐め回せばいいのよ。前回私が回収したペットボトルだって、ちゃんと五人で回し飲み(舐め)したでしょ。……あの時、土蜘蛛の女(綾)なんて、二秒もタイムオーバーしたんだからね」
「……っ。だって、清春くんの唾液の匂いが濃すぎて……理性が飛んじゃったのよ……」
綾が顔を真っ赤にして俯く。
すでに彼女たちの間では、清春のあずかり知らぬところで、常軌を逸した「間接キスの共有」という恐ろしい儀式が常態化していた。
「そして最後。『第3条:睡眠時の安全規定』だ」
天音の顔が、極めて真剣なものになる。
「我々にとって、彼の寝込みを襲い、その無防備な身体に直接すがりつく行為は、究極の誘惑だ。……だが、合意のない直接的な性行為(夜這い)や、無理やり粘膜を奪うような行為は、彼の精神を著しく傷つけ、我々から心を遠ざける危険性がある」
一線を越えれば、彼は自分たちを軽蔑し、二度とあの極上の匂いを与えてくれなくなるかもしれない。それは彼女たちにとって死を意味する。
「ゆえに、夜這いや直接的な襲撃は『原則禁止』とする。……ただし! 寝ている彼の至近距離での『深呼吸』、寝具への『顔面埋没』、および寝汗の匂いの『回収(舐め取りを含まない)』は、合法的なスキンシップとして許可する!」
「「「「賛成!!」」」」
満場一致。
こうして、表向きは事なかれ主義の日常を装いながら、裏では清春の一挙手一投足を五人で完全に監視・管理し、合法的に匂いを搾取し尽くす『共同管理協定』が成立したのである。
◆
――そして、現在。
協定が結ばれてから数日後の、生徒会室。
「……足りない」
円卓に突っ伏した結衣が、うわ言のように呟いた。
彼女の目の下にはくっきりとしたクマができ、氷の仮面は完全に剥がれ落ちて、禁断症状に苦しむジャンキーのような顔つきになっている。
「……全然、足りないわ……。シフト制のせいで、キヨくんに直接触れられる時間が減った……。割り箸やタオルの『間接的な匂い』だけじゃ、もう夜も眠れない……っ」
「あたしも……っ。キヨっちの熱い体温がないと、発情期が抑えきれないっしょ……!」
珠希が、自分のルーズな制服を掻きむしりながら身悶えする。
「……清春くんの、原液(直接の接触)が欲しい……。あの甘い匂いを、直接肌から吸い上げないと、私の中の蜘蛛が暴れ出しそう……っ」
綾が、虚ろな目で自分の指先に絡まる見えない粘糸を弄っている。
協定によって争いは無くなった。
だが、その副作用として「供給量」が制限されたことで、彼女たちの中で圧縮された欲望は、もはや爆発寸前の危険水域に達していたのだ。
「……ふふっ。お前たち、限界のようだな。……実は、私もだ」
生徒会長席に座る天音が、自らの制服の胸元を強く握り締めながら、ドMな忠犬の顔で荒い息を吐き出した。
「あの絶対的な女神(ご主人様)の力で、直接私を蹂躙してほしい。……間接的な匂いなどという生ぬるいものではなく、直接的な罰を与えられたい……っ。この渇望を癒やすため、私は生徒会権限を行使した」
天音が、デスクの上に一枚の書類を叩きつけた。
そこには、『料理部・特別監視合宿の実施について』と書かれていた。
「生徒会主催による、料理部の特別監視合宿を組んだ。場所は、御子柴家が管理する山奥の温泉付き別荘だ。期間は二泊三日。……当然、交通費や宿泊費はすべて生徒会(御子柴家)で持つ」
「合宿……!? でも、私は料理部じゃないんですけど!」
水泳部の澪が立ち上がる。
「お前は今日付けで水泳部を兼任し、料理部に入部しろ。それで書類上は完璧だ」
天音が、学園の権力者としての強権(暴挙)をあっさりと発動させる。
「聞け、お前たち」
天音の金色の瞳が、夜の森を徘徊する肉食獣のように、妖しく、そしてドロドロの情念を帯びて光り輝いた。
「この合宿は、ただの旅行ではない。外界から完全に隔離された密室……ご主人様からどれだけ濃厚な匂いを絞り出しても、誰にも邪魔されない『狩り場』だ。……よって、この合宿の夜に限り、協定の第3条を『一部緩和』する」
ゴクリ、と。
結衣、綾、珠希、澪の四人が、同時に生唾を飲み込んだ。
「……夜の添い寝当番を設定し、合意のない行為は避けるという前提のもと。……寝ている彼への『極限の密着』、および……直接的な汗の舐め取りや、ディープキスによる『エキス(妖力)の直接補給』を、特例として許可しようじゃないか」
「「「「……っ!!!」」」」
五人の少女たちの瞳に、限界を突破した狂気と、狂おしいまでの情欲の炎が灯った。
「やった……! キヨくんの寝込みを襲って、あの甘い唇を直接……っ!」
「……ふふっ、清春くん、私の糸で優しくベッドに縛り付けてあげるからね……」
「あたしの番が来たら、キヨっちの首筋に本気のキスマーク(マーキング)残しちゃうっしょ!」
五大勢力による、完全に理性を投げ捨てた『合宿(マタタビ搾取の宴)』の可決。
何も知らない事なかれ主義の少年は、今日も家庭科室で「平穏な日常が戻った」と幸せそうに茶をすすっている。
だが、彼の向かう先にあるのは、平穏などという言葉とは無縁の、逃げ場のない山奥での『限界ギリギリの官能搾取地獄』であった。
波乱と色欲が渦巻く特別監視合宿編の幕が、今、静かに、そして恐ろしいほどに甘く切って落とされたのである。
しばらくコメディです




