第58話:料理部包囲網。第五の刺客は生徒会長
放課後の旧校舎。
家庭科室の空気は、今日も相変わらず致死量の甘い香水と、少女たちのねっとりとした情念によって、物理的に白く濁っているようにさえ見えた。
「ねえキヨっち! 今日の放課後、今度こそ駅前のクレープ屋さん行こうよ! あたし、キヨっちにあーんしてほしいなー!」
「……だめ。清春くんは、私と一緒に帰るの。……最近、清春くんの匂いが薄れてきて、私、夜も眠れないの……だから、もっと補充させて……」
「お二人とも、神聖なる清春様の御時間を何だと思っているのです! 清春様、本日は私が最高級の紅茶を淹れました。さあ、この澪が口移しで温度をお確かめいたします!」
猫宮珠希、八束綾、波澄澪の三人が、清春の右腕、左腕、そして正面のスペースを完全にロックし、三つ巴の激しいマウント合戦を繰り広げている。
「お前ら……いい加減に離れろ……っ。紅茶がこぼれるだろ……」
清春は、激しい胃痛と酸欠に顔を歪めながら、何とか三人を引き剥がそうと抵抗していた。だが、怪異のフェロモンに洗脳され、リミッターが外れた美少女たちの腕力は、並の男子高校生ではどうにもならないほど強い。
「……本当、低俗な雌豚どもね。キヨくんが嫌がってるのが分からないのかしら」
その惨状を、少し離れた調理台から氷のような視線で見つめているのは、水無月結衣だった。
彼女は腕を組み、いかにも「私はあんな下品な真似はしない」という誇り高い幼馴染の顔を保っている。
だが、清春は知っていた。結衣が今、腕を組んで隠しているその胸元に、清春が先ほどまで使っていた『ハンドタオル』がしっかりと抱き込まれており、彼女が呼吸をするたびに、タオルの匂いを狂ったように吸引しているという恐ろしい事実を。
(……この部屋、頭のおかしい奴しかいない……。マジで誰か、助けてくれ……)
清春が、助けの来ない天井を見上げて絶望の涙を流した、まさにその時だった。
ピシャァァァァァァァンッ!!!!
家庭科室の引き戸が、外れるのではないかというほどの凄まじい勢いで開け放たれた。
「……っ!?」
清春も、群がっていた三人も、そして隠れてタオルを嗅いでいた結衣も、一斉に扉の方へと視線を向けた。
そこに立っていたのは。
腕に赤い『生徒会長』の腕章をつけ、右手にクリップボードを持ち、背筋をピンと伸ばした金髪の少女。
学園の治安維持者であり、昨日、清春と共に地下祭壇の死地を潜り抜けた退魔師、御子柴天音だった。
「……御子柴、先輩……?」
清春が、驚きの声を上げる。
天音は、氷のように冷たく、一切の感情を排した絶対零度の視線で、家庭科室の中を見回した。
「……やはりな。廊下まで、風紀を乱す酷い匂いが漏れ出していると思えば。……料理部。君たちの活動実態は、もはや部活動の体を成していない」
コツ、コツ、と。
天音は、威圧感のある足音を立てて、部屋の中へと踏み込んできた。
その毅然とした態度と、生徒会長という圧倒的な権力者のオーラに、さすがの綾たちも一瞬だけ動きを止めた。
「日高清春。……そして、そこにいる女子生徒たち」
天音は、清春の目の前で立ち止まり、クリップボードをバインッと鳴らした。
「私は生徒会長として、この学園の風紀の乱れを看過することはできない。……男女の不純異性交遊、密室での過度な身体的接触、および、周囲に不快感を与える異常な匂いの発生。……これより、生徒会権限をもって、料理部の『立ち入り指導』を執行する」
「た、立ち入り指導!?」
清春が目を丸くする。
確かに、今の料理部の惨状は、誰が見ても風紀の乱れどころの騒ぎではない。天音からすれば、怪異の洗脳から彼女たちを救えなかった代わりに、せめて生徒会長としての権力を使って、この異常な空間を解体しようとしているのだろう。
清春は、天音のその「真面目で不器用な正義感」に、少しだけ申し訳なさと、同時に助かったという安堵を覚えていた。
だが。
清春は、全く気づいていなかった。
目の前で、冷酷な生徒会長の仮面を被り、自分を厳しく見下ろしている御子柴天音が。
その制服のYシャツの下に、清春の匂いが染み込んだ『男子用ブレザー』を直接素肌に巻き付け、今この瞬間も、彼に近づけた興奮と快感で、太腿をガクガクと震わせていることに。
(あぁっ……ご主人様……っ! ご主人様のお顔が、こんなに近くに……っ!)
天音の内心は、完全にピンク色に染まりきった狂犬のそれだった。
(さあ、私を睨みつけて! 『邪魔をするな、消えろ』って、あの時のように冷たい声で私を罵って……っ! そうすれば、私はもっとあなたに縋り付いて……っ!)
天音は、自身の歪みきったマゾヒズムを満たすため、さらに清春へと歩み寄った。
彼女の顔が、清春の顔のすぐ数センチの距離まで近づく。
「日高。……君のそのだらしないネクタイはなんだ。……風紀の乱れは、服装の乱れから始まる。私が直してやろう」
天音は、震える手を伸ばし、清春の首元のネクタイに直接触れた。
「え、あ、いや、自分でやりますから……っ」
「動くな。……これは、指導だ」
天音は、清春のネクタイを直すふりをしながら、その顔を清春の胸元にギリギリまで近づけ。
誰にも見えない角度で、「すぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ……!!」と、清春の首筋から立ち昇る『姫の匂い』を、肺の限界まで狂ったように吸引した。
(んんんんっ!! 最高……っ! 最高です、ご主人様……っ! 昨日よりも、少し汗ばんだ匂いが……っ、あぁ、お腹の奥が熱い……っ!)
天音の頬が、一瞬にして林檎のように真っ赤に茹で上がり、口から銀色の唾液が漏れそうになる。
清春は、天音の手がガタガタと震え、顔が赤いことに気づき、「もしかして、昨日地下で無理をした毒のダメージがまだ残ってるんじゃ……」と、完全に的外れな心配をしていた。
「……ちょっと、生徒会長。あんた、さっきからキヨくんに近すぎない?」
その時。
天音の背後から、地を這うような冷酷な声が響いた。
水無月結衣だった。
結衣は、清春のハンドタオルを胸に隠したまま、天音と清春の間に割って入ろうと歩み寄ってきた。
彼女の氷の瞳には、明らかな『同類への敵意』が燃え盛っていた。
結衣は、天音が清春のネクタイを直すふりをして、匂いを嗅いでいることに、その異常な嗅覚とストーカーとしての直感で気づいていたのだ。
「風紀の指導だかなんだか知らないけど。……あんた、キヨくんの匂い嗅いでるでしょ。……隠したって無駄よ、顔が真っ赤じゃない」
「なっ……!?」
図星を突かれた天音の肩が、ビクッ!と大きく跳ねた。
「な、何を馬鹿なことを! 私は生徒会長として、正当な職務を……!」
「嘘おっしゃい。……あんたから、私と同じ『お姉様(姫)の匂い』がするわ。……しかも、昨日今日の浅い匂いじゃない。魂の奥底までドロドロに書き換えられた、極上の服従の匂いがね」
結衣の、核心を突く容赦のない言葉。
その言葉に、綾、珠希、澪の三人もハッとして天音を見た。
「……ほんとだ。この女、キヨっちの匂いがする……!」
「清春くんの匂い……私以外の女が……許さない……っ」
「生徒会長! まさかあなたも、清春様の神聖なる洗礼を受けたというのですか!?」
四人の激重ヒロインたちの視線が、一斉に天音へと集中する。
そこにあるのは、風紀委員に対する反発ではない。
自分たちの「唯一の神」を奪い合う、新たなライバル(泥棒猫)に対する、純粋で絶対的な殺意だった。
「……っ」
天音は、四人からの凄まじいプレッシャーに、一瞬だけ息を呑んだ。
だが、彼女は腐っても誇り高き御子柴の当主。そして何より、清春の『忠犬』としてメス堕ちしたという異常な性癖が、彼女の恐怖心を完全に「興奮」へと書き換えていた。
(……この程度の雌犬どもに、私の指定席は譲らない。……私が一番、ご主人様の残酷な愛を知っているのだから……!)
天音は、スッと立ち直り、再び冷酷な生徒会長の仮面を被り直した。
「……言いがかりも甚だしいな。私が君たちのような、風紀を乱す破廉恥な真似をするはずがないだろう。……だが、君たちのその反抗的な態度は、指導の必要がある」
天音は、バインッ!とクリップボードを叩き、家庭科室の四人に向けて高らかに宣言した。
「これより、料理部は生徒会の『特別監視対象』とする! よって、私、御子柴天音は、明日から毎日この時間に、料理部の活動を直接監視しに来る!」
「「「「はぁぁぁっ!?」」」」
四人のヒロインたちが、一斉にブチギレの声を上げる。
「ちょっと待ってよ! あんた、職権乱用でキヨっちに近づきたいだけっしょ!」
「……泥棒猫。清春くんに近づいたら、私が……っ」
「……いい度胸ね。生徒会長だか何だか知らないけど、幼馴染の私からキヨくんを奪えると思ってるの?」
バチバチバチッ!!!
家庭科室の空中で、五つの全く異なるベクトルの愛(独占欲)が激突し、目に見える火花が散った。
依存、発情、狂信、ツンデレストーカー。
そして新たに加わった、合法的な権力を持った『ドMの忠犬生徒会長』。
五人の美少女たちが、それぞれに「白鐘の姫」の極上のマーキングを魂に刻まれ、ただ一人の少年を巡って殺し合い一歩手前の聖杯戦争を開始したのだ。
『……お見事です、マスター。ついに、学園最強の治安維持者をも自らの眷属に引きずり込み、完全な『ペンタグラム(五芒星)』が完成しましたね』
エプロンのポケットから、シキの呆れを通り越して感嘆すら混じった音声が響く。
『事なかれ主義、ここに完全崩壊です。これからは、毎日が五等分のマタタビ搾取地獄。あなたの胃壁は、三日と持たずに消滅するでしょう』
「……シキ。もう、殺してくれ……っ」
清春は、五人のヒロインたちが放つ異常なフェロモンの嵐の中心で、ガクンと膝をつき、両手で顔を覆った。
平穏な日常を守るために、怪異を倒した。
その結果が、怪異よりも恐ろしい『激重百合ストーカーたちの巣窟』の中心に据え置かれることだとは。
後悔しても、もう遅い。
学園の怪異騒動を巡る物語は、すべての元凶である『白鐘の姫』の秘密を抱えたまま、この出口のない甘く狂ったハーレム地獄の中で、次なる波乱の火種を静かに育てていくのであった。




