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第55話:闖入者と真実。退魔師の眼前に顕現する『白鐘の姫』



 吹き飛ばされた地下祭壇の分厚い鉄扉。

 舞い上がる土埃の向こうから現れたのは、制服のネクタイを緩めた、どこにでもいる平凡な男子高校生――日高清春だった。


「……ひ、だか……? な、ぜ……」


 無数の怨霊の触手に全身を縛り上げられ、毒の瘴気に侵されて血を吐く御子柴天音は、自らの目を疑った。

 なぜ、彼がここにいるのか。

 避難誘導の放送は流したはずだ。一般の生徒なら、すでに学園の敷地外へ逃げ出している時間である。それに、ここは厳重に隠蔽された御子柴家の地下祭壇。ただの生徒が入り込める場所ではない。


『ゲギャギャギャッ! 新タナ、肉ダ……ッ!』

『新鮮ナ血肉ガ、自ラ歩イテキタゾ……ッ!』


 天音を捕食しようとしていた数千の怨霊群が、新たな獲物の登場に狂喜の声を上げる。

 怨霊たちの視線が一斉に清春へと向き、ドス黒いヘドロのような触手が、這うようにして彼の方へと伸び始めた。


「逃げろッ! 日高清春ッ!!」


 天音は、喉の奥から血の塊を吐き出しながら、悲痛な絶叫を上げた。


「ここは、お前のような一般人が立ち入っていい場所じゃない! 早く逃げろ! この化け物どもに喰われるぞッ!!」


 自分が命を懸けて守ろうとした「日常」の象徴である生徒が、わざわざ死地に足を踏み入れてしまった。その絶望が、天音の心を限界まで追い詰める。

 彼に憑いていると思っていた「背後の怪異」の姿はない。彼はたった一人で、無謀にもこの地下へと降りてきてしまったのだ。


 だが。

 無数の怨霊の触手が目前まで迫ってきているというのに、清春は一歩も退かなかった。

 それどころか、彼はポケットからスマートフォンを取り出し、まるで退屈な授業でも受けているかのような、冷めた瞳で怨霊たちを見据えていた。


「……なぁ、シキ。こいつら、俺が前に図書室で消し飛ばした吸精鬼より、数が多いだけで弱くないか?」


『……個体レベルの霊力はそれほどでもありませんね。ただ、数百年にわたって蓄積された「数の暴力」と「怨念の粘度」が厄介なだけです。……もっとも、マスター(生態系の頂点)から見れば、ただの泥遊びに等しいですが』


 清春のスマートフォンから、無機質で冷徹な合成音声が響く。


「日高……? 何を、言っている……?」


 天音は、混乱の極みにあった。

 目の前の少年は、恐怖で狂ってしまったのか。それとも。


『シネェェェェェェェェッ!!!』


 怨霊の群れが、一斉に清春に向かって飛びかかった。

 黒い泥の津波が、彼を頭から丸呑みにしようと大きく口を開ける。


「……制限解除フル・アンロックだ。……このふざけた泥遊びを、終わらせるぞ」


 清春が、静かにその言葉を紡いだ、次の瞬間だった。


 バチィィィィィィィィィィンッ!!!!!!!


 地下祭壇の淀んだ闇を、太陽が爆発したかのような、目も眩む『白銀の閃光』が完全に切り裂いた。


「ガ、ギィィィィッ!?」

「な、に……っ!?」


 清春に飛びかかろうとしていた最前列の怨霊たちが、その閃光に触れた瞬間、悲鳴を上げてドロドロに溶け落ちる。

 天音は、あまりの光の強さに思わず目を細め、そして、閃光の中心で起きている「あり得ない光景」に、呼吸をすることすら忘れて魅入ってしまった。


 光の中で。

 日高清春という、ただの平凡な男子生徒の肉体が、内側から爆発的な妖力によって作り変えられていく。

 無骨な骨格が砕け、しなやかで完璧な黄金比を持つ「女神」の肢体へと再構築される。

 短かった黒髪は、光を乱反射する白銀の滝となって足首まで伸び広がり、制服を内側から引き裂いて、純白の薄衣ドレスが現世に顕現した。


 光が収束し、そこから現れたのは。

 この世のすべての美と残酷さを凝縮して人の形に押し込めたような、絶世の美女だった。


「あ、ぁ……っ」


 天音は、その姿を見て、全身の血が凍りつくような悪寒と、相反する強烈な魅了を同時に感じた。

 間違いない。

 あの四人の少女たちから漂っていた、雪山の冷気と猛毒の甘い蜜を混ぜ合わせたような匂い。

 学園の怪異たちを跡形もなく消し飛ばし、大妖怪すらも屠った、圧倒的な『絶対零度』のプレッシャー。


 未知の特級怪異。

 その正体は、日高清春の背後に隠れていたのではない。

 日高清春『そのもの』だったのだ。


「……本当に、目障りな泥人形どもね。少し数が集まったくらいで、自分が世界でも呑み込めるようになったと錯覚しているのかしら」


 白鐘の姫――清春の意識と大妖怪の意識が完全に融合した圧倒的な女神が、赤い唇を歪めて冷酷に吐き捨てた。

 その声は鈴を転がすように美しいが、空間そのものを震え上がらせる絶対的な神威を帯びていた。


『ヒ、ヒィィィィッ!?』

『バ、バケモノ……ッ! ナゼ、コンナ所ニ、神代ノ大妖怪ガ……ッ!?』


 先ほどまで天音を絶望に突き落とし、傲慢に振る舞っていた数千の怨霊群が、姫の姿を見た瞬間、パニックを起こして一斉に後ずさった。

 霊的な格が違いすぎる。

 彼らは、自分たちが何百年かけて怨念を蓄積させようとも、目の前の存在には指先一つ触れることすらできないという事実を、怪異としての本能で瞬時に理解してしまったのだ。


「……逃げるな」


 姫の金色の蛇の瞳が、爛々と輝く。


「私の器(清春)の平穏な日常を壊し。……あまつさえ、その器が『死なせたくない』と願った小娘を、随分と無残に穢してくれたわね。……万死に値するわ。塵一つ残さず、氷の地獄で砕け散りなさい」


 姫が、白く細い右腕を、怨霊の群れに向かって優雅に差し出した。

 その瞬間。


 ピキィィィィィィンッ!!!!


 姫の指先から、地下祭壇の空間そのものを凍結させる『絶対零度の波動』が放たれた。

 それは、吹雪などという生易しいものではない。空間の熱量エネルギーを強制的にゼロへと変換する、物理法則の破壊。


『ギャァァァァァァァァァァッ!!!!』


 逃げようと背を向けた怨霊たちから順に、ドス黒い瘴気の身体が一瞬にして白濁し、カチン、と音を立てて氷の彫刻へと変わっていく。

 天音を縛り上げていた泥の触手も、彼女の肌に触れた状態のまま、一瞬で純白の氷へと変貌した。


「……っ!」


 天音は、自分の身体を縛っていた触手がパキンッと音を立てて砕け散り、自由を取り戻したことで、そのまま石畳の床に崩れ落ちた。

 彼女の目の前で、信じられない光景が繰り広げられている。


 数百年にわたって蓄積され、退魔師である父が命と引き換えに封印するしかなかった数千の怨霊群が。

 たった一人の女神の、指先一つの動作で。

 ただの巨大な「氷のオブジェ」へと、残らず変換されてしまったのだ。


「……さて。掃除の時間よ」


 姫は、コツン、と氷の靴音を鳴らして一歩前に出ると。

 凍りついた怨霊の群れに向かって、ふっ、と軽く息を吹きかけた。


 パリーーーーーーーンッ!!!!!!


 数千体の怨霊の氷像が、まるで精巧なガラス細工をハンマーで叩き割ったかのように、一斉に粉々に砕け散った。

 数億の氷のダイヤモンドダストが地下祭壇に舞い上がり、キラキラと輝きながら、ドス黒かった空間を清浄な白銀の世界へと浄化していく。


 圧倒的。

 ただの一方的な、生態系の頂点による蹂躙。

 戦闘ですらなかった。人間が足元の蟻を踏み潰すよりも簡単に、学園を飲み込むはずだった巨大な厄災は、文字通り痕跡一つ残さずにこの世界から消し飛ばされたのである。


「……あ、……ぁ……」


 床に倒れ伏した天音は、舞い散るダイヤモンドダストを見上げながら、呆然と声を漏らした。

 退魔師としての自分の人生は、一体何だったのか。

 父の犠牲は。自分が十年間、血を吐くような思いで守り続けてきた結界は。

 目の前に立つこの化け物(女神)からすれば、ただの取るに足らない泥遊びに過ぎなかったというのか。


『……マスター。対象の完全消滅を確認。学園の霊的バランスは、マスターの圧倒的な力によって、極めて強引ですが「平定」されました』


 シキの合成音声が、静まり返った氷の祭壇に響く。


 姫は、ふぅと小さく息を吐き、長い白銀の髪をかき上げながら振り返った。

 その金色の瞳が、床に倒れ伏して息も絶え絶えになっている天音を見下ろす。


「……無様ね、退魔師の小娘。私を祓うと豪語していた誇り高き生徒会長が、泥に塗れて這いつくばる姿は、なかなか滑稽でそそられるわ」


 姫は、ゆっくりと優雅な足取りで天音の元へ歩み寄り、その前に膝を下ろした。

 冷たく、白磁のような指先が、天音の血に濡れた顎をくいっと持ち上げる。


「な、ぜ……。日高清春が……お前のような、化け物に……」


 天音は、霞む意識の中で、姫を強く睨みつけた。

 恐怖はない。ただ、自分の理解を超えた存在に対する純粋な怒りと、理不尽への抵抗。


「化け物? 口が減らないのね。……私の器(清春)は、あなたが一人で死のうとしているのを知って、ひどく心を痛めていたのよ。『俺のせいで彼女が死ぬのは嫌だ』って、自分の平穏を捨ててまで助けに来たというのに」


「……っ」


「それにしても。怨霊の毒が、随分と深く身体に回っているわね。……霊力回路はズタズタ。このまま放っておけば、あと数分であなたの心臓は腐り落ちて死ぬわ」


 姫の言葉通り、天音の肌には怨霊の触手から流し込まれた『呪いの毒』がドス黒い斑点となって浮かび上がり、急速に彼女の生命力を奪っていた。

 助かったのではない。

 怨霊の群れは消えたが、天音の命はすでに風前の灯火だったのだ。


「……構わない。……私は、退魔師としての誇りを守って死ぬ。……お前のような、得体の知れない化け物に助けられるくらいなら……ここで死んだ方がマシだ……っ」


 天音は、血を吐きながらも、姫の指先を振り払おうとした。

 だが、力が入らない。


「ふふっ……あははははっ!」


 その言葉を聞いた瞬間、姫は腹の底から、残酷で、どこまでもサディスティックな笑い声を上げた。

 その笑い声は、氷の祭壇に不気味に響き渡る。


「死んで誇りを守る? 本当に、人間の小娘というのは滑稽な勘違いをする生き物ね」


 姫の金色の瞳が、獲物を完全に追い詰めた蛇のように、ねっとりと細められる。


「あなたがここで死ねば、私の器(清春)は一生、その後悔と罪悪感を背負って生きていくことになるのよ。……私の大切な日高清春を悲しませておいて、自分だけ綺麗なまま死ねると思っているの?」


「な……にを……」


「死なせないわ。絶対に。……あなたが私を『悪』だと憎むその誇りごと、私が残らず粉々にへし折って。……私の匂い(毒)なしでは生きられない、哀れな忠犬に作り変えてあげる」


 姫は、純白のドレスの裾を揺らしながら、抵抗する力すら残っていない天音の身体に、覆い被さるようにして密着した。

 脳髄を麻痺させる、極上の冷気と甘い蜜の匂いが、天音の嗅覚を強制的に蹂躙し始める。


「や、めろ……。私に、触れるな……っ!」


「大人しく口を開けなさい。……今から、致死量の怨霊の毒を上書きするほどの、私の『極上の猛毒(愛)』を、あなたの魂の奥底まで注ぎ込んであげるから」


 退魔師としての孤独な戦いは終わった。

 後に残されたのは、怪異を激しく憎んでいた誇り高き少女の尊厳を、圧倒的な力と快楽をもってメス堕ちさせるための。最恐の女神による、残酷で甘い『解毒の儀式』だけだった。

 

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