第54話:決壊。学園を飲み込む先祖の怨念
その日の放課後。
学園の旧校舎にある家庭科室では、今日も今日とて四人の少女たちによる甘く、そしてドロドロの牽制合戦が繰り広げられていた。
「キヨっち! 今日の放課後こそ、絶対にあたしとクレープ食べに行くんだからね! 他の女の匂いなんて全部上書きしてあげるっしょ!」
「……だめ。清春くんは、私と一緒に図書室で静かに過ごすの。……猫宮さんのうるさい声、清春くんの迷惑になるから」
「お二人とも不敬です! 清春様のお疲れを癒やすため、本日は私が最高級のハーブティーを……」
「……あんたたち、うるさいわね。キヨくん、そんなメス豚どもの言うことなんて聞かなくていいわ。私と一緒に帰りなさい」
猫宮珠希、八束綾、波澄澪、そして水無月結衣。
四つの重すぎる愛と、むせ返るような香水とフェロモンが飛び交う空間で。
しかし、日高清春の心は、彼女たちのマウント合戦には全く向いていなかった。
(……昨日のシキの報告。地下の結界が、限界を迎えてるって……)
清春は、腕に絡みつくヒロインたちを適当になだめながら、窓の外の夕空を見つめていた。
生徒会長、御子柴天音。
彼女が昨日、生徒会室で見せたあの隠しきれない疲労の色。そして、「私がすべて斬る」と言い放った、あの悲壮なまでの正義感。
彼女は、この学園の日常を――俺や、俺の周りで笑っているこの四人の少女たちの日常を守るために、たった一人で地下の化け物と心中しようとしている。
しかも、その結界が崩壊しそうになっている根本的な原因は、俺が『白鐘の姫』の力を振るいすぎたことにあるのだ。
『マスター。……いよいよ、時間がありません』
不意に。
清春のポケットの中で、シキの無機質な音声が、かつてなく緊迫したトーンで響いた。
『学園の地下最深部から、測定限界を超える怨念の瘴気が急激に膨張しています。……封印の岩が、内部からの圧力に耐えきれず、完全に砕ける寸前です』
「……っ!」
清春が顔を上げた、その瞬間だった。
ズズズズズズンッ……!!
学園全体を、下から突き上げるような不気味な地鳴りが襲った。
窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げ、調理台の上に置かれた鍋やボウルがガチャガチャと音を立てて揺れる。
「きゃっ!?」
「地震!?」
ヒロインたちが悲鳴を上げ、咄嗟に清春に抱きついてくる。
だが、清春には分かっていた。これは自然の地震などではない。地下に封じられた数千の怨霊群が、外に出ようと結界の殻を叩き割ろうとしている「霊的な衝撃」なのだ。
ジリリリリリリリリリリリリッ!!!!
直後、学園中にけたたましい非常ベルの音が鳴り響いた。
そして、校内放送のスピーカーから、ノイズ混じりの、しかし凛とした少女の声が流れてくる。
『――全生徒、および教職員に告ぐ。旧校舎の地下にて、大規模なガス漏れ、および地盤沈下の兆候が確認された』
「……御子柴、先輩……」
清春は、その声を聞いて確信した。天音だ。
『これは訓練ではない。直ちにすべての活動を停止し、速やかに学園外へと避難、下校すること。……繰り返す。直ちに学園から離れなさい』
放送の奥に、彼女の微かな息切れと、苦痛を堪えるような震えが混じっているのを、清春の耳だけは確かに拾い上げていた。
天音は、ガス漏れというもっともらしい理由をつけて、生徒たちを学園から遠ざけようとしているのだ。
結界が決壊する前に。自分が地下で怨霊たちと相刺し違える前に、一人でも多くの人間を安全な場所へ逃がすために。
「……キヨくん、避難だって。早く出ましょう」
結衣が、清春の手を引こうとする。
綾も珠希も澪も、不安げな表情で清春を見つめていた。
「……結衣。八束さんも、猫宮も、波澄も。先に行っててくれ」
清春は、結衣の手を優しく、しかし力強く振り払った。
「キヨっち? 何言ってんの、一緒に逃げなきゃ……」
「俺、火の元の確認とか、戸締まりを先生に頼まれてたんだ。すぐ終わるから、後から絶対追いかける。だから、お前たちは絶対に、一歩も振り返らずに学園の外へ出ろ」
清春の、有無を言わさぬ真剣な瞳。
事なかれ主義の彼が、これまで見せたことのない「雄」としての決意の表情に、ヒロインたちは一瞬息を呑み、そして逆らうことをやめた。
「……分かった。でも、絶対に、絶対にすぐ来てね。……私、キヨくんが来なかったら、狂っちゃうから」
結衣が、氷の仮面を外し、すがるような目で清春に告げる。
清春は力強く頷き、四人の背中を押して家庭科室から送り出した。
パタン、と扉が閉まる。
廊下からは、教師たちの誘導に従って避難する生徒たちの騒がしい足音が遠ざかっていく。
静まり返った家庭科室で。
清春は、深く息を吸い込み、窓の外を見下ろした。
すでに夕日は沈みかけ、学園は逢魔が時の不吉な影に包まれようとしている。
「……シキ。地下へのルートをナビゲートしろ」
『マスター。……正気ですか。相手は、数千規模の特級怨霊の群れ。いかに『白鐘の姫』の力をもってしても、あの閉鎖空間でまともに浴びれば、無事では済みませんよ』
「俺が行かなきゃ、あの人が死ぬ。……俺のせいで」
清春の瞳の奥で、黄金色の光が鋭く瞬いた。
「俺はもう、逃げない。……事なかれ主義なんて、クソ食らえだ」
◆
学園の地下最深部。
冷たく、重い湿気に満ちた地下祭壇。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
御子柴天音は、血に濡れた長刀を床に突き立て、かろうじて立ち続けていた。
彼女のブレザーの制服は瘴気に焼かれてボロボロに引き裂かれ、透き通るような白い肌には、無数の黒い痣(瘴気による火傷)が浮かび上がっている。
目の前の『大結界の封印岩』は、すでに完全にひび割れ、内部からドス黒いマグマのように怨念が沸き立っていた。
「……生徒たちの避難は、終わった頃か……」
天音は、天井を見上げ、血塗れの唇で小さく微笑んだ。
これでいい。
これで、誰も巻き込まずに済む。
退魔師である御子柴家の当主として、最後の仕事だ。
父が命と引き換えに封じたこの化け物どもを、今度は私が、私の命と魂を楔にして、もう一度この地下深くに縛り付ける。
私の人生は、そのためにあったのだから。
――ピキ、ピキピキピキッ……!!
封印の岩が、限界の音を立てる。
「……来い。汚らわしい怨霊ども」
天音は、長刀を両手で力強く握り直し、切っ先を岩へと向けた。
彼女の金色の瞳に、一切の恐怖はない。あるのは、絶対的な自己犠牲の覚悟と、怪異を許さない苛烈な炎だけだった。
ドガァァァァァァァァァァンッ!!!!
爆発音と共に、巨大な封印の岩が内側から粉々に吹き飛んだ。
そして。
岩の内部から、圧縮されていた数百年分の「人間の憎悪と絶望」が、真っ黒な津波となって一気に溢れ出した。
『アァァァァァァァッ!! 出タゾ……出タ……ッ!』
『ミコシバ……! ミコシバノ血肉ヲ、喰ラエ……ッ!』
『怨ラメシヤ……怨ラメシヤ……ッ!』
数千体、いや、それ以上。
無数の苦悶に歪んだ顔が、黒い瘴気の濁流の中で蠢き、重なり合い、巨大な「泥の津波」となって天音に向かって雪崩れ込んでくる。
その光景は、まさに地獄の釜の蓋が開いたとしか表現しようのない、圧倒的な冒涜と恐怖の具現化だった。
「オン・アビラウンケン・ソワカ……ッ!! 破ァッ!!」
天音が真言を唱え、長刀を一閃する。
刃から放たれた黄金の霊力が、押し寄せる黒い津波の最前列を横薙ぎに切り裂き、数十体の怨霊を浄化して消滅させた。
だが。
斬っても、斬っても、後ろから果てしない数の怨霊が湧き出してくる。
一振りの刀で海を切り裂こうとするような、あまりにも絶望的な戦力差。
『クケケケケケッ! 無駄ダ、小娘……ッ!』
『オマエノ親父モ、ソウヤッテ抗ッテ、最後ハ我々ニ喰ワレタノダ……ッ!』
「黙れ……ッ! お父様を愚弄するなッ!!」
天音は、血を吐きながら長刀を振るい続けた。
右へ、左へ、上へ。
霊力を限界まで振り絞り、接近してくる怨霊の顔を次々と両断していく。
彼女の剣技は、間違いなく歴代の御子柴の当主の中でも最高峰だった。美しく、無駄がなく、そして致命的。
だが、怨霊たちの真の恐ろしさは、その物理的な攻撃ではない。
空間を満たす『猛毒の瘴気』そのものだった。
「……くっ、ぁ……!?」
天音の動きが、ふっと鈍った。
肺に吸い込んだ瘴気が、彼女の体内を巡る霊力回路を直接腐らせ、神経を麻痺させ始めていたのだ。
『隙アリ……ッ!』
黒い泥の中から、タコのような無数の『怨霊の触手』が飛び出し、天音の足首と手首に絡みついた。
「しまっ……! 離せッ!」
天音が振りほどこうとするが、触手は万力のような力で彼女を締め上げ、さらにブレザーの布地を引き裂いて、彼女の白い素肌に直接張り付いてきた。
「あ、がぁぁぁぁぁっ……!!」
肌に触れた触手から、直接体内に『呪いの毒』が流し込まれる。
それは物理的な痛みではない。何万という人間の「死の苦痛」と「絶望」を、脳に直接流し込まれるような、魂を削り取られる激痛だった。
『イイ霊力ダ……。美味イ、美味イゾ、退魔師……ッ!』
『オマエノ誇リモ、身体モ……全テ、ドロドロニ穢シテヤル……!』
「ふ、ざけるな……っ。私が、お前たちごときに……屈する、ものか……っ!」
天音は、手首を縛られながらも、歯を食いしばって自らの内なる霊力を暴走させようとした。
自爆。
自らの魂の核を爆発させ、この空間ごと怨霊どもを消し飛ばす。
それが、彼女に残された最後のカードだった。
だが、怨霊たちはそれすらも許さなかった。
『サセナイヨ……。モット、ジックリト、泣キ叫ブ声ヲ聞カセロ……ッ』
さらに無数の触手が伸び、天音の首を絞め上げ、長刀を持つ右腕を背中側にへし折らんばかりの力で捻り上げた。
「あ、ぁ……っ」
天音の長刀が、カラン、と音を立てて床に落ちた。
終わった。
武器を奪われ、全身を毒の触手で縛り上げられ、霊力すらも封じられた。
誇り高き退魔師の少女は、無数の怨念の泥に全身を撫で回されながら、ついに絶望の淵へと突き落とされた。
(……お父、様。……ごめんなさい。……学園を、守れなかっ、た……)
天音の瞳から、無念の涙がこぼれ落ちる。
怨霊の巨大な口が、天音の頭を丸呑みにしようと、大きく開かれた。
彼女の視界が、真っ黒な絶望で塗り潰されようとした。
――まさに、その刹那だった。
ドガァァァァァァァァァァンッ!!!!!
地下祭壇の分厚い鉄の扉が、外側からの凄まじい衝撃によって、紙くずのように吹き飛ばされたのだ。
「……え?」
天音も、そして彼女を喰らおうとしていた怨霊群も。
突然の轟音に、一斉に扉の方へと視線を向けた。
舞い上がる土埃と、吹き飛んだ鉄の残骸。
その向こう側から、ゆっくりと、足音を立てて歩いてくる一つの影があった。
「……ったく。勝手に一人で死のうとするなよ、生徒会長」
土埃が晴れたそこに立っていたのは。
制服のネクタイを緩め、どこか呆れたような、しかし静かにブチギレているような眼差しでこちらを見据える、日高清春だった。
「ひ、だか……清春……?」
天音は、信じられないものを見るように目を丸くした。
なぜ、ただの事なかれ主義の男子生徒が、ここにいるのか。
そして、なぜ……彼の瞳の奥が、人間のものではない、圧倒的な黄金色の輝きを放っているのか。
「お前たち」
清春が、天音を縛り上げる数千の怨霊群に向かって、低く、絶対的な威圧を込めた声を放つ。
「俺の平穏な日常(修羅場)を、これ以上壊すな」
事なかれ主義の少年の、退路を断った宣言。
それは、学園の地下で繰り広げられる、最恐の女神による残酷な蹂躙劇の、開幕の合図であった。




