第53話:匂いの奪い合いと、迫る結界崩壊
その日の放課後。
日高清春は、激しい胃痛を理由に部活動を休み、逃げるようにして一人暮らしのアパートへと帰宅していた。
「……痛たたた……。胃薬、どこに置いたっけ……」
清春は、制服のままベッドに倒れ込み、お腹を押さえて呻いた。
昼休みに「お腹が痛い」と言ったのは、決して御子柴天音の窮地を考えて誤魔化したわけではない。四人の激重ヒロインたちから連日浴びせられるフェロモンと、異常なスキンシップによるストレスで、事なかれ主義の少年の胃壁は物理的に限界を迎えていたのだ。
静かな部屋。誰の匂いもしない、自分だけの安全地帯。
布団の温もりに包まれ、清春の意識がようやく微睡みへと落ちようとした、その時だった。
――ピンポーン。ピンポーン! ピンポンピンポンピンポーン!!
玄関のインターホンが、火災報知器のような狂った連打を始めた。
「……っ!? なんだよ、こんな時間に……」
清春は嫌な予感を抱きながら、重い身体を引きずって玄関へ向かい、ドアスコープを覗き込んだ。
そこに映っていたのは、ドアの前で今にも乱闘を始めそうな勢いで睨み合っている、四人の美少女たちの姿だった。
「……嘘だろ」
清春が絶望してドアのチェーンを掛けようとした瞬間。
「あ、鍵開いてる!」という猫宮珠希の声と共に、ドアが強引にこじ開けられた。
「キヨっちー! 看病に来てあげたよ! 具合どう!?」
「清春くん……っ。心配で、図書室の仕事放り出してきた……。私が、全部お世話してあげるからね……」
「清春様! お加減はいかがですか!? この澪が、神聖なる御身を拭き清めるため、最高級のタオルを持参いたしました!」
ドカドカと雪崩れ込んでくる、依存(綾)、発情(珠希)、狂信(澪)の三銃士。
そして、その最後尾から、氷のような冷たい仮面を被った水無月結衣が、腕を組んで入ってきた。
「ちょっと、あんたたち勝手に上がり込まないでよね。……私は、この雌豚どもがキヨくんに変なことしないか、監視役としてついてきてあげただけだから。感謝しなさい」
ツンデレの皮を被った激重ストーカーは、そう言い放ちながらも、部屋に入った瞬間に鼻腔を膨らませ、「すぅぅぅぅぅっ……!!」と清春の部屋の空気を肺の奥底まで貪欲に吸い込んでいた。
「お前ら……なんで俺の家を知って……っていうか、勝手に入るな!」
「キヨっちの匂いを辿ってきたら、余裕で着いたっしょ!」
珠希が胸を張って答える。怪異のフェロモンに洗脳された彼女たちにとって、清春の匂いはGPSよりも正確なのだ。
「もういい……俺は寝るから、お前らは大人しくしててくれ……」
清春は抗議する気力もなく、再びベッドへと倒れ込んだ。
だが、それが完全な悪手だった。四人のヒロインが、無防備にベッドに横たわる清春(極上のマタタビ)を放置するはずがない。
「……清春くん。熱、あるかもしれない。……私が、直接測ってあげる」
ヌルリ、と。
八束綾が、清春の掛け布団の中に躊躇いもなく潜り込んできた。
「ひゃっ!?」と清春が驚く間もなく、綾は清春の胸に顔を埋め、制服のシャツ越しにその豊かな胸の谷間をぐりぐりと押し付けてくる。
「あぁ……っ。お布団の中、清春くんの匂いが一番濃い……。……すぅぅぅぅぅ……っ。このまま、ここで溶けちゃいたい……っ」
綾は、分厚い眼鏡をずらしながら、恍惚とした表情で清春の胸元にヨダレを垂らし始めた。
「ちょっと八束さん! 一人でキヨっちのお布団独占するとかズルいっしょ!」
ベッドの横から、珠希がシャーッ!と牙を剥く。
彼女はそのまま、ベッドの上にダイブし、清春のお腹の上に馬乗りになった。
「ぐふっ!?」
「キヨっち、胃が痛いんでしょ? 猫のゴロゴロ音は治癒効果があるんだよ! ほら、あたしのお腹、触って!」
珠希は、清春の両手を強引に掴み、自分のルーズな制服の中に引き入れて、素肌のお腹に触れさせた。彼女の喉の奥から、「ゴロゴロ、にゃぁぁ……っ」という、発情期真っ盛りの甘い鳴き声が漏れる。
「やめろ猫宮! 重いし、胃がさらに痛くなる!」
「お二人とも、ベッドの上でなんという破廉恥な! 清春様の安眠を妨げるなど、万死に値します!」
波澄澪が激怒して二人を引き剥がそうとするが、その彼女の行動も異常だった。
彼女はベッドの足元に正座し、清春が脱ぎ捨ててあった靴下を両手で恭しく握り締めながら、顔面に押し当てているのだ。
「あぁ……っ、清春様が一日お召しになっていた靴下……っ。これぞ神の聖遺物! この神聖な香りで、私の魂は浄化されていきます……っ!」
依存、発情、狂信。
三方向からの物理的・精神的な『匂い搾取』が、清春の自室という完全な密室で展開される。
逃げ場はない。むせ返るような香水と、彼女たちの体温が、部屋の酸素を急速に奪っていく。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ! 病人から離れなさい!」
見かねた結衣が、ベッドに群がる三人を無理やり引き剥がした。
結衣の、圧倒的な「幼馴染(正妻)」としてのマウントと、魂に刻まれた『姫の残り香』の濃さに気圧され、綾と珠希、澪は不満げにベッドから距離を取った。
「キヨくん。具合が悪いなら、ちゃんとお粥を食べなさい。私が台所で作ってあげるから」
結衣は、氷のように冷たく、しかし世話焼きの幼馴染としての顔を保ったまま、清春の部屋の小さなキッチンへと向かった。
「……結衣。悪いな、ありがとう……」
清春は、結衣のまともな気遣いに少しだけ安堵の息を吐いた。
なんだ、結衣はやっぱり、昔みたいに俺の世話を焼いてくれるんじゃないか。
だが。
清春のポケットの中で、シキの無機質な音声が容赦なく現実を突きつけた。
『……マスター。安堵している場合ではありません。被写体「水無月結衣」の、キッチンにおける現在の行動をモニターへ投影します』
「え……?」
シキがスマートフォンの画面に映し出した、キッチンの光景。
結衣は、冷蔵庫から食材を取り出すどころか、清春が朝食で使ってシンクに置いてあった『マグカップ』を両手で握りしめていた。
彼女の氷の仮面は完全に崩れ去り、耳の先まで真っ赤に茹で上がっている。
「……すぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!! あぁぁっ、キヨくんのお部屋の匂い、キヨくんが使ったマグカップ……っ! 最高……っ、最高すぎる……っ!」
結衣は、マグカップの飲み口のところを、自らの舌で「れろぉ……っ」と執拗に舐め回し始めた。
それだけでは飽き足らず、清春が使った箸、スプーン、果ては洗面所にあったタオルにまで顔を埋め、狂ったように匂いを吸い込んでいる。
「んちゅ……じゅるる……っ。これ、お粥を煮るお鍋……。私の愛情(唾液)、たっぷり入れてあげるからね、キヨくん……っ。私のお粥を食べて、私の匂いに染まっちゃえばいいのよ……ふふっ、ふふふふっ……」
画面の中の結衣は、よだれを垂らしながら、鍋の中に自分の指先を舐めては擦り付けるという、ホラー映画顔負けの狂気の儀式を行っていた。
「ぎゃああああああああっ!!」
清春は、ベッドの上で恐怖のあまり悲鳴を上げた。
「キヨっち!? どうしたの、やっぱり胃が痛い!?」
「清春くん、大丈夫……? 私がもっと抱きしめてあげる……っ」
「来るな! お前ら全員、俺に触るなァァァッ!!」
清春の魂からの絶叫が、アパートの部屋に虚しく響き渡る。
看病という名目で押し寄せた四人の激重ヒロインによる、プライベート空間の完全な蹂躙。
事なかれ主義の少年の日常は、もはや「甘い」という言葉では到底隠しきれない、狂気と性癖の煮詰まった地獄の底へと転がり落ちていた。
◆
その頃。
清春の甘くカオスな地獄から遠く離れた、学園の地下最深部。
「が、はっ……! ごほっ、ごほっ……っ!!」
御子柴天音は、血塗れの唇から激しく咳き込みながら、地下祭壇の冷たい石畳に倒れ伏していた。
彼女の視線の先にある「大結界の封印岩」は、すでに原形を留めないほどにひび割れ、そこから噴き出すドス黒い瘴気は、もはや滝のような勢いになっていた。
岩の亀裂の奥から、無数の苦悶に歪んだ顔が浮かび上がり、天音に向かって怨嗟の声を囁きかけている。
『……ミコシバ……。ミコシバノ血……』
『……憎イ……。オマエモ、オマエノ親モ……全テ、呪ッテヤル……』
『……外ヘ、出セ。……アノ甘イ、極上ノ匂イノ元ヘ……行カセロ……っ』
怨霊たちの言葉に、天音はハッと顔を上げた。
極上の匂い。
それは間違いなく、日高清春と、彼を取り巻く四人の少女たちから放たれている『白鐘の姫』の妖力の残り香のことだ。
学園の生態系を破壊したあの特級怪異の匂いが、地下に封じられた数千の怨霊群にまで届き、彼らの飢餓感と狂乱を極限まで煽り立てているのだ。
「……させない。……お前たちを、一匹たりとも外には出さない……っ!」
天音は、震える手で長刀を杖にして、再び立ち上がった。
ブレザーの制服は瘴気に焼かれてボロボロになり、自らの霊力を絞り出しすぎた反動で、視界は赤く明滅している。
「オン・アビラウンケン……ソワカ……ッ!!」
天音が再び印を結び、決死の霊力を岩に叩きつける。
だが、その力はすでに、数千の怨霊群の圧力を前にしては、焼け石に水でしかなかった。
パキィィィィンッ!!
岩の表面に貼られていた最後の一枚の御札が、真っ黒に焦げて灰となり、パラパラと崩れ落ちた。
それと同時に、封印の岩が、内部からの圧力に耐えきれず、大きく二つに割れるような異音を立てた。
「……っ!! くそっ……限界か……!」
天音は、長刀を構え直し、噴き出してくる怨霊の群れを物理的に斬り伏せようと前に出た。
だが、その動きは鈍く、無数の怨霊の手が、彼女の細い足首や腕に絡みつく。
『……喰ワセロ。……オマエノ誇リト、血肉ヲ……』
『……絶望シロ、退魔師。……コノ学園ハ、我々ノモノダ……』
「離せッ! 汚らわしい化け物どもが……ッ!!」
天音が長刀を振るい、絡みつく腕を切り裂く。
だが、切っても切っても、次から次へと溢れ出す怨念の奔流。
天音の霊的防壁は完全に食い破られ、怨霊の放つ『毒』が、彼女の傷口からじわじわと体内へと侵入し始めていた。
「が、ぁぁ……っ! あぁぁぁっ……!」
天音の口から、悲痛な叫び声が上がる。
身体の芯が、氷のように冷たくなる。同時に、頭の中に直接、数千の怨念の絶望が流れ込み、彼女の自我と理性を削り取っていく。
(……明日だ)
天音は、薄れゆく意識の中で、冷酷な計算を弾き出した。
(このままでは、明日の夜には結界が完全に決壊する。……生徒たちが帰った後、夜の間に……私が、私の命と引き換えに、すべてを道連れにして……結界を、張り直すしかない)
それが、御子柴の当主として、彼女に残された唯一の、そして最期の手段だった。
誰にも知られず。誰にも理解されず。
ただ一人、地下の暗闇の中で、バケモノどもと一緒に死ぬ。
――『なんで先輩は、そこまでして怪異を憎むんですか。……どうして一人で、そんなに無理をしてるんですか』
ふと。
天音の脳裏に、昨日の夕方、自分にそう問いかけてきた、あの凡庸な男子生徒の顔が浮かんだ。
日高清春。
彼に憑いている怪異を祓ってやることも、彼を洗脳から救い出してやることも、もうできないだろう。
「……ごめんな。……君たちを、助けてやれなくて」
天音の目から、退魔師としての誇りに隠されていた、十八歳の少女としての孤独な涙が一滴、こぼれ落ちた。
学園を飲み込む巨大な厄災の足音。
事なかれ主義の少年が、彼女のその悲壮な決意を知り、自らの中に眠る『神』を叩き起こすまでのタイムリミットは。
もはや、あと一日を残すのみとなっていた。




