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第52話:退魔師の誇りと、怪異への憎悪



 生徒会室の重厚な扉が閉じられ、日高清春の足音が廊下の奥へと消えていく。


 完全に一人きりになった生徒会室で。御子柴天音は、ピンと張り詰めていた背筋を崩し、革張りの椅子に深く沈み込んだ。


「……くっ、ぅ……っ」


 天音の薄い唇から、苦痛に満ちた呻き声が漏れる。

 彼女は、ブレザーの胸元を強く握り締め、荒い息を繰り返した。額からは脂汗が滲み、透き通るような白い肌は、今は血の気を失って青ざめている。


「……また、結界が悲鳴を上げている。……抑え込まなければ……」


 天音は震える手で、デスクの傍らに立てかけてあった長刀を引き寄せ、その柄を杖代わりにして立ち上がった。

 彼女の視線の先、学園の床下――さらにその奥深くへと続く「霊脈の最深部」から、一般の生徒には決して感じ取れない、どす黒く、悍ましい瘴気が絶え間なく這い上がってきているのだ。


 御子柴家。

 この土地を代々守護し、霊脈の澱みから生まれる怪異を祓い続けてきた退魔師の一族。

 だが、その歴史は決して輝かしいものではない。むしろ、怨念と血に塗れた呪われた歴史だ。


 ――『天音。……決して忘れるな。我々退魔師の使命は、人間の平穏な日常を守ることだ』


 天音の脳裏に、十年前のあの日、血まみれになって微笑んだ父の顔がフラッシュバックする。

 当時の御子柴家当主であった父は、この学園が建つ土地の地下深くに、数百年にわたって蓄積された「最悪の怨霊群」を封印するために、自らの命を捧げた。

 本来なら、一帯の街を飲み込み、数万の死者を出すほどの巨大な厄災。父はそれを、自らの魂と肉体をくさびとすることで、学園の地下という極小の結界内に押し込めたのだ。


 遺された天音は、たった八歳で次期当主の座を背負わされた。

 父の命と引き換えに守られたこの学園の秩序を、今度は自分が守り抜く。地下の結界を維持し、そこから漏れ出る瘴気から生まれる低級な怪異(吸精鬼や水妖など)を、人知れず間引いていく。

 それが、彼女の十年間だった。


「お父様……。私は、決して屈しません」


 天音は、長刀を抱きしめるようにして、自らの誇りを奮い立たせる。

 怪異は絶対悪だ。人間の理不尽な死や、怨念から生まれ、善良な人々の日常をいとも簡単に壊していくバケモノ。

 父の命を奪ったのも、怪異だ。


 だからこそ、天音は許せなかった。

 日高清春の周囲で、四人の少女たちが怪異のフェロモンに洗脳され、理性を失って群がっているあの異常な光景が。

 化け物に魂を弄ばれ、日常を壊されている被害者たちを、この手で救い出さなければならない。


「……だが、なぜだ」


 天音は、ふらつく足取りで生徒会室の奥、隠し扉の先にある地下祭壇へと向かう階段を降りながら、歯噛みした。


「なぜ急に、お父様が命懸けで施した『地下大結界』が、これほどまでに暴れ出している……?」


 階段を下りるにつれ、空気は冷蔵庫のように冷え込み、空気が重く粘り気を帯びてくる。

 最深部の祭壇。そこには、床一面に敷き詰められた無数の御札と、中央に鎮座する巨大な封印の岩があった。

 だが、その岩には今、無数の亀裂が走り、そこからドス黒いヘドロのような怨念の瘴気が噴き出している。

 御札は次々と黒く焦げて燃え上がり、結界の崩壊はもはや秒読み段階に入っていた。


「くっ……! オン・アビラウンケン……ソワカ……ッ!!」


 天音は、長刀を床に突き立て、印を結んで自らの霊力を全力で結界へと注ぎ込んだ。

 バチバチと火花が散り、天音の霊力と怨霊の瘴気が激しく衝突する。


「がはっ……!」


 圧倒的な怨念の圧力に霊力回路を焼かれ、天音の口から鮮血が吐き出された。

 彼女は膝をつき、肩で激しく息をする。


 天音は知らなかった。

 なぜ、安定していたはずの結界が急に崩壊し始めたのか。

 その原因が、他でもない日高清春(白鐘の姫)にあるということを。

 清春が、特級怨霊や大妖怪といった「間引きされるべきではなかった強力な怪異」までをも、理不尽な絶対零度でチリ一つ残さず消し飛ばしてしまったためだ。

 生態系の頂点が空いたことで、学園の霊的バランスが崩壊し、地下に封じられていた怨霊群が「今なら外に出られる」と狂乱して暴れ出したのである。


「私が……私が、抑えなければ……。この学園の、生徒たちの日常は……」


 天音は、血塗れの唇を噛み締めながら、再び立ち上がろうとする。

 誰にも頼れない。誰にも理解されない。

 誇り高き退魔師の少女は、たった一人で、学園の地下で静かに進行する巨大な死と向き合い続けていた。



 ◆



 翌日の昼休み。

 旧校舎の家庭科室は、相変わらずこの世の終わりかと思うほどの、甘く、ドロドロの修羅場と化していた。


「キヨっち! ねえ、昨日の夜、何回あたしのこと考えてくれた!? 匂い嗅がせてあげるから数えなさい!」

「……清春くん。私の手作りサンドイッチ、残さず食べて……。もし猫宮さんの唐揚げを食べたら……私、ここで泣くから……」

「清春様! 本日は私が清春様の靴をピカピカに磨き上げてまいりました! どうぞ、私の顔面を踏み台にしてその履き心地をお確かめください!」


「ああああああっ!! もう嫌だ!! お前ら、いい加減にしろ!!」


 清春の悲鳴が、家庭科室に虚しく響き渡る。

 右から八束綾に腕をロックされ、背中には猫宮珠希が張り付き、足元には波澄澪がへばりついている。

 そして、その三人の狂騒を、少し離れたパイプ椅子から冷ややかな目で見つめている水無月結衣。


「本当、低俗なメス豚どもね。……キヨくん、そんな奴らのおかずなんて食べたらお腹壊すわよ。ほら、私の持ってきたお弁当箱を開けなさい」


 結衣が、氷のような声で命令する。

 清春は、結衣の冷たい態度に少しホッとしながら、彼女の弁当箱に手を伸ばそうとした。


 だが。

 清春は、結衣の弁当箱の横に、見覚えのない『空のペットボトル』が置かれているのに気づいた。


「ん? 結衣、このペットボトル……これ、俺がさっきの体育の後に飲んで、机に置いといたやつじゃないか?」


 清春の言葉に、結衣の肩がビクッ!と大きく跳ねた。


「な、ななな何の事かしら!? そ、それは私がゴミ箱に捨てようと思って、たまたま持ってきてあげただけよ!」


「いや、でもこれ、飲み口のところが……なんか、変に濡れて……」


 清春がペットボトルを持ち上げようとした瞬間。


「触らないでぇぇぇぇっ!!」


 バシッ!!と、結衣が凄まじいスピードで清春の手を払い除け、ペットボトルを強奪するように抱き抱えた。

 氷の仮面は完全に剥がれ落ち、顔を耳の先まで真っ赤にして、息を荒くしている。


「あ、あんたがゴミの分別もしないから、私がわざわざ洗って捨ててあげようと思ったのよ! ば、馬鹿! 変態! 勘違いしないでよね!!」


 結衣は早口でまくし立てると、ペットボトルを後生大事に胸に抱えたまま、家庭科室を飛び出していってしまった。


『……マスター。被写体「水無月結衣」、マスターのペットボトルの飲み口を完全な真空状態になるまで吸い尽くし、唾液でコーティングした上でコレクションに加えるつもりのようです。……立派な変態ストーカーですね』


 エプロンのポケットから、シキの呆れ混じりの報告が響く。


「……シキ。俺、もう生きていける自信がない……」


 清春は、胃薬の瓶を握りしめながら、机に突っ伏した。

 依存、発情、狂信、そしてツンデレストーカー。

 怪異から彼女たちを救った代償は、彼女たちの魂を「俺の妖力(匂い)なしでは生きられない激重モンスター」に書き換えてしまうことだった。


 だが。

 机に突っ伏した清春の脳裏に、ふと、昨日の夕方に見た御子柴天音の姿が思い浮かんだ。


 ――『怪異は、人間の日常を理不尽に破壊する絶対悪。だから、私がすべて斬る』


 あの時、天音から感じた、隠しきれない疲労と、悲壮なまでの決意。

 シキは、学園の地下から不吉な瘴気が漏れ出し、天音が何かを押さえ込んでいると言っていた。


「……シキ。学園の地下の瘴気って、今どうなってる?」


『……芳しくありませんね。むしろ、最悪のペースで膨張を続けています。このままの速度で結界が崩壊すれば、遅くとも明日の夜には、地下に封印されている「特級クラスの怨霊群」が数千体規模で学園に溢れ出します』


「数千体……!? そんな数が地下に!?」


『はい。かつての御子柴の当主が、命と引き換えに封印した代物です。……現在の御子柴天音の霊力だけでは、完全に決壊するのを防ぐことは不可能です。彼女は、それを知っていながら、一人で結界と心中するつもりでしょう』


「……っ」


 清春は、ギュッと拳を握りしめた。


 彼女は、俺の周りの結衣たちを「怪異に操られた哀れな被害者」だと思い込み、救おうとしてくれていた。

 その不器用で、真っ直ぐな正義感。

 彼女が一人で地下のバケモノを抑え込んでいるのは、この学園の生徒たちの……俺や、俺の周りで馬鹿騒ぎをしているこの四人のヒロインたちの「日常」を守るためなのだ。


 しかも、結界が崩壊しそうになっている根本的な原因は、俺が『白鐘の姫』の力を無自覚に振るい、怪異の生態系を破壊してしまったことにある。


(……俺のせいだ。俺が、事なかれ主義を気取って、中途半端に力を使ったせいで……彼女が、死のうとしてる)


「キヨっち? どうしたの、難しい顔して」

「清春くん……胃が痛いの? 私が撫でてあげる……」


 珠希と綾が、心配そうに清春の顔を覗き込んでくる。

 その甘く、ドロドロの瞳の中にあるのは、清春に対する狂おしいほどの愛と依存だ。

 このふざけた、しかし手放したくない日常を守ってくれているのは、地下で血を流している一人の退魔師の少女なのだ。


「……なんでもない。ちょっと、お腹が痛いだけだ」


 清春は、無理に笑顔を作って誤魔化した。


 事なかれ主義。

 誰の記憶にも残らず、平穏に過ごす。

 その信条は、すでに俺自身の手でズタズタに引き裂かれている。

 なら、腹を括るしかない。


 日高清春の瞳の奥で、黄金色の光が微かに瞬いた。

 誇り高き退魔師の少女の孤独な戦いに、最恐の大妖怪が理不尽な暴力をもって介入する、決断の時が静かに迫っていた。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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