第50話:四つの重すぎる愛と、甘い地獄の日常
昨日の夕暮れ時。
学園の霊的治安を裏で管理する生徒会長・御子柴天音に長刀を突きつけられた日高清春は、絶体絶命の危機に瀕していた。
『君の背後に隠れている得体の知れない化け物について、聞かせてもらおうか』
氷のような殺気を放つ天音の尋問に対し、清春は持てるすべての演技力を総動員して「化け物? 何のことですか? 俺はただの料理部員です!」と、涙目で事なかれ主義の凡人を演じきった。
結果として、決定的な証拠を持っていなかった天音は、一度だけ長刀を収めてくれた。
だが、別れ際に彼女が残した言葉は、清春の心に重い鉛のようにのしかかっていた。
『……いいだろう。今日は帰すが、君への疑いが晴れたわけではない。明日から、君と君の異常な取り巻きたちを、徹底的に監視させてもらう』
――そして、現在。
放課後の旧校舎、家庭科室。
「ねえキヨっち! 今日のクッキー、あたしの形(猫型)にして焼いてくれた!? ほらほら、ご褒美にあたしの匂い、たっぷり嗅がせてあげるから!」
清春の背中に、ドスリ!と重みがかかる。
化け猫ギャル・猫宮珠希が、ルーズな制服の胸元を清春の背中にぐりぐりと押し付けながら、首筋に顔を埋めてきた。彼女の口から漏れる熱い吐息が、清春のうなじをくすぐる。
「……猫宮さん、邪魔。……清春くんは今、私に一番甘いクッキーを選んでくれてるところ。……清春くん、あーんして……?」
清春の右腕には、図書委員の八束綾がヌルリと絡みついている。
彼女は清春の腕を自分の胸の谷間に深く抱き込み、分厚い眼鏡の奥から、虚ろでドロドロに濁った独占欲の瞳で珠希を牽制した。
「お二人とも! 神聖なる清春様の御身になんという気安さを! 清春様、どうぞこの澪の頭を撫でてください! そして、その神々しい香りで私をお清めください……っ!」
清春の足元では、水泳部の波澄澪が正座をし、清春のズボンの裾を両手で恭しく握り締めながら、恍惚とした表情で涙を流している。
「お前ら……いい加減にしろ! クッキーが焦げるだろ! 離れろ!」
清春は、胃の辺りを押さえながら悲痛な叫びを上げた。
依存、発情、狂信。
三つの異なるベクトルから放たれる重すぎる愛情が、唯一の獲物である清春の『匂い』を求めて、狭い家庭科室の中でむせ返るように渦巻いている。
生徒会長に「監視する」と宣言されたばかりだというのに。
この異常すぎる密着度と、彼女たちから絶えず発せられる『白鐘の姫』の妖力の残り香は、どこからどう見ても「怪異に魅入られたカルト集団」のそれにしか見えない。
「……本当、動物園みたい。みっともないったらありゃしないわね」
その時。
家庭科室の窓際のパイプ椅子に座っていた水無月結衣が、氷のように冷ややかな声で吐き捨てた。
彼女は足を組み、文庫本に視線を落としたまま、清春たちをゴミでも見るかのような冷酷な視線で一瞥した。
そして、パタンと文庫本を閉じると、清春の目の前までツカツカと歩み寄ってきた。
「ちょっとキヨくん。あなた、そのエプロン、彼女たちの安い香水と汗が染み込んでて不潔よ。……見てるこっちが気持ち悪くなるから、今すぐ脱ぎなさい。私が洗ってあげるから」
「えっ……いや、エプロンは自分で洗うからいいよ!」
清春は、ビクッとして一歩後ずさった。
以前の清春なら、この結衣の言葉を「昔みたいに世話を焼いてくれてるんだな」と都合よく解釈していただろう。
だが、今の清春は違う。
シキの録画映像によって、この氷の仮面の裏に隠された「激重百合ストーカー」の正体を、嫌というほど知ってしまっているのだ。
(こいつ……俺のエプロンを回収して、また裏でベロベロ舐め回す気だ!!)
清春の背筋に、オカルト的な怪異とは全く違うベクトルの、生々しい恐怖の悪寒が走る。
「不潔だから」「洗ってあげるから」という正当な理由をつけて、俺の私物を合法的に剥ぎ取ろうとする、あまりにも巧妙なマタタビ狩り(ハンティング)。
「いいから脱ぎなさい。……それとも、幼馴染の私の言うことが聞けないの?」
結衣が、ジロリと冷たい視線を向けてくる。
その氷の瞳の奥で、「早く寄越せ、その汗の染み込んだ極上の布を寄越せ」というドロドロの欲望が渦巻いているのを、清春は確かに感じ取っていた。
「わ、分かった……脱ぐ、脱ぐから引っ張るな……っ」
清春は、完全に結衣の無言の圧力に屈し、身につけていたエプロンを恐る恐る脱いで、パイプ椅子の上に置いた。
「……ふん。最初からそうやって素直に聞いてればいいのよ。……じゃあ、私は後でこれ洗っとくから」
「お前ら、絶対についてくるなよ! 俺はオーブンの様子見てくるから!」
清春は、逃げるようにして家庭科室の奥の準備室へと駆け込んだ。
バタン、と引き戸を閉め、小さな窓から家庭科室の様子を覗き込む。
清春が姿を消した瞬間。
綾、珠希、澪の三人は、「チッ、マタタビ成分が逃げた」「仕方ない、クッキーが焼けるまで待つか」と、それぞれ調理台の隅へと散っていった。
そして。
パイプ椅子の前に、結衣が一人残された。
『マスター。……始まりますよ、被写体「水無月結衣」の、本日の日課(ストーカー行為)が』
準備室の中で震える清春のポケットから、シキの楽しげな実況音声が響く。
「……見たくない。俺はマジで見たくない……」
清春が両手で顔を覆いながら指の隙間から覗き見ると、そこには案の定、世にも恐ろしい光景が広がっていた。
周囲の三人が自分を見ていないことを確認した瞬間。
結衣の顔から、「氷のように冷たい仮面」が音を立てて崩れ落ちたのだ。
「……っ、はぁっ……はぁぁっ……!!」
結衣の顔が、耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まる。
瞳孔は限界まで見開かれ、口元からは銀色の唾液がだらしなく滴り落ちそうになっている。
彼女は、パイプ椅子の上に置かれた清春のエプロンを、まるで国宝か何かのように震える両手でそっと持ち上げると、顔の真正面へと持ってきた。
「……すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!」
ズォォォォォォォォッ!!という、ダイソン顔負けの凄まじい吸引音。
結衣は、清春のエプロンに顔全体を完全に埋め込み、肺の限界を超えて、狂ったようにその匂いを吸い込み始めた。
「んんんっ! はぁっ、はぁぁっ……!! 最高……っ、キヨくんの汗の匂い……っ! 首回りの少し酸っぱい匂いと、その奥に隠れてるお姉様の甘い猛毒の匂い……っ! 脳みそが、脳みそが溶けちゃうぅぅぅっ!!」
結衣の足から力が抜け、そのままエプロンを抱きしめた状態で、床に崩れ落ちるように座り込んだ。
彼女の脳内では、あの異界の屋上で、絶世の女神(清春)に唇を塞がれ、口の中を蹂躙され、魂の底まで書き換えられたあの極上の快楽が、何度も何度もフラッシュバックしているのだろう。
「あぁぁっ……キヨくん、お姉様、キヨくん……っ! ちゅっ、んちゅ、はむっ……」
匂いを嗅ぐだけでは飽き足らず。
結衣は完全にイってしまった顔で、エプロンの胸当ての部分――清春の汗が最も染み込んでいるであろう布地を、自らの唇でそっと咥え込み、舌で執拗に舐め回し始めた。
銀色の唾液が糸を引き、清春のエプロンを卑猥に濡らしていく。
「ヒィィィッ……」
準備室の小窓からその光景を見ていた清春は、恐怖のあまり小さな悲鳴を上げた。
表向きは「不潔よ」と冷たく言い放つツンデレの幼馴染。
しかしその実態は、裏で俺のエプロンをよだれまみれにして這いつくばる、理性を失った狂信的百合ストーカー。
十年の孤独から解放された反動と、姫の妖力がもたらした劇薬は、水無月結衣という少女を完全に後戻りのできないバケモノ(別の意味で)へと作り変えてしまっていた。
『……録画継続中。被写体「水無月結衣」、エプロンに対するディープキスおよび深呼吸により、心拍数160を突破。……見事なまでのメス堕ちっぷりですね。マスター、あなたはいずれ、彼女にすべてを吸い尽くされて物理的に干からびるでしょう』
「笑い事じゃない! どうすんだよこれ、俺の私物が全部あいつのよだれまみれになるぞ!?」
『推奨アクション:ありません。事なかれ主義を気取って怪異に手を出した代償です。これからは、四つの重すぎる愛の十字架を背負い、永遠に彼女たちのマタタビとして消費され続けてください』
「ポンコツAIが……っ!!」
清春が準備室の壁に頭をぶつけて絶望していた、まさにその時だった。
『マスター。……極めて不味い状況です。前方、家庭科室の扉の外から、強烈な霊的パルスと殺意を検知しました』
シキの警告音が、ピピピッ!と短く鳴った。
「扉の外……?」
清春が小窓から、家庭科室の入り口の方へ視線を向けた、その瞬間。
ガララララッ!!
勢いよく、家庭科室の引き戸が開け放たれた。
「……っ!?」
エプロンを舐め回していた結衣が、ビクッとして動きを止め、咄嗟にエプロンを背中に隠して「氷の仮面」を装着し直す。
綾、珠希、澪の三人も、突然の闖入者に警戒の視線を向けた。
そこに立っていたのは。
腕に赤い『生徒会長』の腕章をつけ、右手にクリップボードを持った、金髪の少女。
御子柴天音だった。
「……随分と、騒がしい部活動だな。料理部」
天音の、絶対零度よりも冷たく、刺すような視線が、室内の四人のヒロインたちを舐め回す。
「昨日から監視させてもらっていたが。……君たちのこの部屋から漏れ出している『異常な匂い』と、不自然すぎる風紀の乱れ。……到底、見過ごすわけにはいかない」
天音は、コツ、コツと足音を立てて家庭科室の中へと踏み込んできた。
その視線は、四人の少女たちを通り越し、準備室の小窓から顔を覗かせていた清春へと真っ直ぐに突き刺さる。
「日高清春。……君には、昨日の放課後に警告したはずだ。君の背後に隠れている、得体の知れない化け物について吐けと」
「せ、生徒会長……! いや、これは、ただの部活動で……!」
清春が慌てて準備室から飛び出すが、天音の目は一切笑っていなかった。
「部活動? この、怪異のフェロモンが充満した異常なカルト空間が? ……しらばっくれるのも大概にしろ」
天音は、クリップボードをバンッ!と近くの調理台に叩きつけた。
「君の周囲の女子生徒たちからは、明らかに強力な怪異に魅入られ、洗脳された痕跡がある。……日高清春。君を、未知の特級怪異に関与した重要参考人として、これより生徒会室で徹底的に『尋問』する」
天音の言葉に、四人のヒロインたちが一斉に殺気を放った。
「ちょっと! キヨっちを連れて行くなんて、許さないからね!」
「清春くんは……どこにも行かない。私の隣にいるの……」
「不敬な! 清春様を罪人扱いするなど、万死に値しますよ!」
「……キヨくんに触れたら、タダじゃおかないわよ」
四人の激重ヒロインたちが、清春を庇うようにして天音の前に立ち塞がる。
だが、誇り高き退魔師である天音は、彼女たちの殺気など意に介さず、冷たく鼻で笑った。
「……哀れだな。完全に化け物の毒に脳を焼かれている。……安心しろ。君たちをこんな風にした元凶(化け物)は、この私が必ず祓ってやるから」
事なかれ主義の少年の、甘くカオスな日常は、ここにきて完全に終焉を迎えた。
学園の治安を司る生徒会長による、容赦のない異端審問。
隠し通してきた『白鐘の姫』の秘密が暴かれようとする中、清春は胃薬を握りしめながら、避けられない絶望の淵へと引きずり込まれていくのであった。




