第49話:崩壊した平穏と、退魔の生徒会長
学園の放課後。
夕日に染まる校舎の廊下を歩く生徒たちの間で、最近、奇妙な噂が囁かれるようになっていた。
『ねえ、最近の料理部って、なんかやばくない?』
『ああ、日高清春のところだろ? あいつ、八束に猫宮、水泳部の波澄に、あの「氷の美少女」って呼ばれてた水無月まで囲い込んでるらしいぜ』
『それだけじゃないんだよ。あの子たちが通った後って、すっごく甘い……なんていうか、脳みそがクラクラするような香水の匂いがするの。嗅いだだけでボーッとしちゃうっていうか……』
『魔性の男ってやつかよ。事なかれ主義で目立たない奴だったのにな』
すれ違う生徒たちの好奇と嫉妬の視線を浴びながら、噂の渦中にある日高清春は、旧校舎の裏庭で一人、胃薬を水なしで飲み込んでいた。
「……死ぬ。マジで、俺のライフはもうマイナスを突き破ってる」
清春は、力なくベンチに崩れ落ちた。
結衣が料理部に参戦してからというもの、清春の日常は「ラブコメ」などという生易しい言葉では到底表現できない、文字通りの『生存競争』へと変貌していた。
右腕を八束綾にホールドされ、背中には猫宮珠希が噛み付き、足元では波澄澪が靴を舐めるように頬ずりしてくる。そこへ、水無月結衣が「あんたたち、キヨくんが困ってるでしょ」と正妻ヅラをして割って入りながら、どさくさに紛れて清春の背中に鼻を押し当てて深く匂いを吸い込むのだ。
四つの全く異なるベクトルの愛(執着)が、ただ一つの獲物である清春の『匂い』を巡ってバチバチと火花を散らす。彼女たちから絶えず発せられる「白鐘の姫」の妖力の残り香は、今や料理部だけでなく、彼女たちが歩く廊下にまで濃厚にこびりつくようになっていた。
『お疲れ様です、マスター。本日の「マタタビ搾取」によるマスターの疲労度はレッドゾーンに到達しています。……ですが、事なかれ主義の代償としては、非常に見応えのあるハーレム形成ですよ』
エプロンのポケットから、シキの無機質でどこか楽しげな合成音声が響く。
「……シキ、お前なぁ。あいつらのストーカー行為を録画して俺を脅すの、いい加減にやめてくれないか」
『脅迫ではありません。危機管理です。特に水無月結衣の「マスターが使ったストローの舐め回し」および「脱ぎたてのジャージへの顔面埋没」の映像は、彼女の精神状態が極めて危険な領域(ド変態)にあることを示す貴重なデータです。油断すれば、マスターの貞操は物理的に奪われますよ』
「ああああああっ! 思い出すだけで胃が痛い!!」
清春は頭を抱えて身悶えした。
怪異から彼女たちを救った代償が、まさか彼女たち自身を「俺なしでは生きられない激重モンスター」に変えてしまうことだとは。
だが、清春が抱える問題は、ヒロインたちの重すぎる愛情だけではなかった。
『マスター。冗談はここまでにして、極めて深刻な報告があります』
シキの音声が、突如として冷徹な警告のトーンに切り替わった。
「……なんだよ。また結界がどうとか言うんじゃないだろうな」
『その通りです。マスターがこれまでに消し飛ばした怪異……図書室の吸精鬼、旧校舎の特級怨霊、プールの水妖。そして先日、次元の壁を叩き割って消滅させた外部からの『大妖怪』。……これらの異常事態が重なったことで、学園全体の霊的バランスが決定的に崩壊しつつあります』
「だから、俺はあいつらを助けるために……」
『ええ。ですが、この学園の霊脈を裏で管理している「存在」からすれば、マスターの行動は、秩序を破壊する絶対悪に他なりません。……すでに、彼女はマスターに目をつけ、調査を完了しつつあります』
「彼女……?」
清春の脳裏に、ある一人の少女の姿が浮かび上がった。
金色の髪。凛とした佇まい。学園の生徒会長であり、退魔師の家系である御子柴天音。
あの夜、特級怨霊の結界の前で対峙した、厳格な少女だ。
『マスターから発せられる微弱な妖力のパルス、そして四人のヒロインたちから漏れ出す「姫の残り香」。退魔師の嗅覚が、この異常事態を見逃すはずがありません。……彼女は今、マスターを「未知の特級怪異に魅入られた生贄」、あるいは「怪異そのものの隠れ蓑」として、ロックオンしています』
◆
同時刻。
学園の本館最上階、厳重なセキュリティで守られた生徒会室。
西日が差し込むその部屋で、生徒会長・御子柴天音は、巨大なオーク材のデスクに広げられた学園の霊脈図を、険しい表情で見つめていた。
彼女の美しい金髪が、窓から吹き込む風に静かに揺れる。
その瞳には、学園の風紀を守る生徒会長としての責任感だけでなく、怪異を絶対悪として激しく憎む、退魔師としての暗く冷たい炎が宿っていた。
「……あり得ない。いくら何でも、異常すぎる」
天音は、マップ上に記されたバツ印を、万年筆の尻でコツコツと叩いた。
図書室。旧校舎。屋内プール。
ここに巣食っていた怪異たちは、御子柴家が代々管理してきた霊脈の「澱み」から生まれたものだ。低級な霊能者では太刀打ちできないレベルの強さを持っており、天音自身、時期を見て討伐するつもりで監視していた。
それが、わずか数週間の間に、跡形もなく「蒸発」したのだ。
残されたのは、絶対零度で完全に凍結・粉砕された凄惨な霊的痕跡だけ。
そして極めつけは、数日前に学園上空に出現した『次元の亀裂』。外部から侵入しようとした超特大級の大妖怪が、次元の壁ごと物理的に叩き割られ、チリ一つ残さず消し飛ばされたという事実。
「……これだけの暴虐を、単独で成し遂げられる存在。……私が知る限り、御子柴の当主レベルでも不可能だ。間違いなく、神に匹敵する『未知の特級怪異』が、この学園に潜伏している」
天音は、デスクの横に積まれた数枚の書類を手に取った。
そこには、四人の女子生徒の写真と、一人の凡庸な男子生徒の写真がクリップで留められていた。
八束綾。猫宮珠希。波澄澪。水無月結衣。
そして、日高清春。
「この四人の女子生徒。……最近の彼女たちの霊的波形は、異常という言葉では生ぬるい」
天音は、退魔師としての鋭敏な感覚で、彼女たちがすれ違うたびに放つ「匂い」の正体に気づいていた。
雪山の極限の冷気と、咲き乱れる毒花を濃縮したような、脳を狂わせる甘い香り。
それは間違いなく、生態系の頂点に君臨する強大な怪異が、自らの獲物(お気に入り)に刻み込んだ『マーキング』の残り香だった。
「あのような特級のバケモノが、なぜ、この四人の少女たちに極上のマーキングを施している? 魅入られたのか? それとも、操られているのか?」
天音の視線が、四人の少女たちの中心にいる、日高清春の写真へと移動する。
「そして、この男。……日高清春。ただの事なかれ主義の凡庸な生徒。霊力など微塵も感じられない。……だというのに、あの強烈な怪異の印を刻まれた少女たちは皆、異常なほどにこの男に執着し、群がっている」
天音の眉間に、深いシワが刻まれる。
彼女の論理的な思考は、一つの恐ろしい仮説を導き出していた。
「……この日高清春という男が、すべての元凶。……あるいは、あの大怪異が、この男の身体を『隠れ蓑(器)』として乗っ取り、学園に潜伏している……っ!」
天音は、バンッ!とデスクを強く叩き、立ち上がった。
もしその仮説が正しいのなら、これは学園の存亡に関わる重大な危機だ。
あの四人の少女たちは、すでに怪異の毒(匂い)に完全に脳を焼かれ、手遅れになっている可能性が高い。
これ以上、あの怪異に好き勝手させるわけにはいかない。この御子柴天音が、退魔師の誇りにかけて、あの化け物の正体を暴き、必ず祓ってみせる。
「……待っていろ、日高清春。君に憑いているその悪霊ごと、私が叩き斬ってやる」
天音は、生徒会室の壁に立てかけられていた、布で厳重に包まれた長刀を手に取った。
怪異を絶対に許さない、苛烈な正義感。
それが、事なかれ主義の少年の日常を、さらに凄惨な地獄へと引きずり込む引き金になるとも知らずに。
◆
夕焼けが赤々と校舎を照らす中、清春は重い足取りで下駄箱へと向かっていた。
(はぁ……。今日は結衣の奴、機嫌悪かったな。俺が珠希に腕組まれたからって、あからさまに舌打ちしやがって……)
四人のヒロインたちの顔を思い浮かべながら、清春はため息をつく。
なんとか彼女たちを撒いて、今日は一人で帰路につくことができた。少しでも一人になって、削られた精神を回復させたかった。
だが。
昇降口を抜け、校門へと向かう渡り廊下に差し掛かった、その時。
『マスター。……前方より、極めて鋭利な霊的パルスと殺意が接近しています。……来ますよ』
シキの警告と同時に。
渡り廊下の先に、夕日を背にして立つ一人の影が現れた。
金色の長い髪を風に靡かせ、背筋をピンと伸ばした、凛とした佇まい。
腕には「生徒会長」の腕章が赤く光り、その手には、布で包まれた細長い『何か(長刀)』が握られている。
「……御子柴、先輩……」
清春は足を止め、ごくりと生唾を飲み込んだ。
その少女、御子柴天音から放たれるプレッシャーは、これまでの怪異たちが放っていた怨念や食欲とは全く違う。
冷徹で、純粋な『正義の殺意』だった。
「……日高清春」
天音の、氷のように冷たく、しかし静かな怒りを孕んだ声が響く。
「君に、聞きたいことがある。……君の周りの女子生徒たちについて、そして……君の背後に隠れている『得体の知れない化け物』について」
「……っ」
清春の背筋に、冷たい汗が伝う。
バレている。
俺が怪異に関わっていることも、綾たちから姫の匂いが漏れ出していることも、この退魔師の生徒会長には完全に見透かされている。
「……同行してもらう。生徒会室へ来い。……抵抗すれば、力ずくでも連行する」
天音が、手に持った長刀の布をパラリと解き、鍔鳴りを響かせた。
有無を言わさぬ、絶対的な威圧。
事なかれ主義で隠し通そうとしていた秘密が、ついに白日の下に晒されようとしている。
四人のヒロインとの甘くカオスな日常の裏側で、学園の霊的治安を司る誇り高き退魔師との、避けられない対立。
新たな波乱の幕開けを告げる鐘の音が、夕暮れの学園に静かに、そして重々しく鳴り響いていた。
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次回お楽しみに。




