第48話:幼馴染の特権と、四人の甘すぎる修羅場
翌日の昼休み。
学園の旧校舎にある家庭科室は、むせ返るような四種類の甘い香水とフェロモンが混ざり合い、もはや酸素濃度が異常に低下しているのではないかと錯覚するほどの、超高密度の『愛の密室』と化していた。
「……清春くん、あーん。……私のおかず、美味しいよ。……だから、他のみんなのなんて食べなくていいからね……」
清春の左腕にしっかりと抱きつき、離れる気配を見せない八束綾が、自らの弁当箱からタコさんウィンナーを箸でつまみ、清春の口元へと押し当ててくる。分厚い眼鏡の奥の瞳は、清春しか映さないというようにドロドロに濁っていた。
「ちょっと八束さん、抜け駆けずるいっしょ! キヨっち、あたしのは唐揚げだよ! ほらほら、あたしの指ごとしゃぶってもいいからね!」
清春の背後から馬乗りになるような体勢で肩に顎を乗せた猫宮珠希が、唐揚げを手掴みにして清春の口にねじ込もうとする。彼女のルーズな制服の胸元が清春の後頭部にぐりぐりと押し付けられ、獣のような発情期の熱が直接伝わってくる。
「お二人とも、神聖なる清春様のお食事になんというはしたない真似を! 清春様、どうぞこの澪の膝の上に足を乗せてください。私が足元から清春様の疲れを癒やすマッサージ(という名目の靴への頬ずり)を……っ!」
床に正座した波澄澪が、清春の足首を両手で恭しく持ち上げ、恍惚とした表情で額をこすりつけている。
これが、現在の料理部の偽らざる日常風景だった。
依存、発情、狂信。
三つの異なるベクトルから放たれる重すぎる愛情(執着)が、唯一の獲物である清春の『匂い』と『接触』を求めて渦巻いている。
「お前ら……いい加減にしろ。飯くらい、一人で普通に食わせてくれよ……っ!」
清春は、胃の辺りを押さえながら、悲痛な叫びを上げた。
右から左から、そして下から責め立てられ、男としての理性を保つだけで体力がゴリゴリと削られていく。
「あら、相変わらず騒がしいのね。……動物園かと思ったわ」
そこへ、家庭科室の扉を開けて、氷のように冷ややかな声が響き渡った。
長い黒髪を揺らし、一切の感情を排した無表情な仮面を被った少女、水無月結衣。
彼女の登場に、綾、珠希、澪の三人は、一斉に敵意の籠もった視線を向けた。
「……また来たの、水無月さん。……ここは、私たちの場所なんだけど」
「幼馴染だからって、毎日しゃしゃり出てこないでよね! キヨっちはあたし達のなんだから!」
「そうです! 清春様の神聖な空気を、あなたのような部外者が汚さないでいただきたい!」
三人の牽制に対し、結衣はふん、と鼻で笑った。
「勘違いしないでよね。私は別に、あなたたちみたいにキヨくんに媚びを売りに来たわけじゃないわ。ただの幼馴染として、彼が変な女たちに毒されてないか、監視しに来ただけよ」
結衣はそう言い放つと、清春の正面の席にどすんと腰を下ろし、持参した重箱のように大きな弁当箱を広げた。
「それに、あなたたちのその貧相なお弁当、何かしら。そんなのじゃ、キヨくんの体力が持たないわ。……昔から、キヨくんは甘めの卵焼きと、ハンバーグが一番好きだったのよね。はい、キヨくん。これ食べなさい」
結衣は、完璧な栄養バランスと彩りで構成された手作り弁当のおかずを、箸でつまんで清春の口元へと差し出した。
「え、あ、いや……俺、自分で……」
「いいから、食べなさい。……それとも、私の作ったものは食べられないっていうの?」
結衣の氷のような視線に射抜かれ、清春は逆らうことができず、恐る恐るその卵焼きを口に含んだ。
「……っ、うまい。昔と変わらないな」
「……っ! そ、そう。当たり前でしょ。……昔から、あなたの胃袋の好みなんて、全部把握してるんだから」
清春の「うまい」という言葉に、結衣の頬が一瞬だけカッと赤く染まりかけたが、彼女はすぐに咳払いをして氷の表情を取り繕った。
だが、その一言は、他の三人にとって最大の地雷を踏み抜くものだった。
「……昔から、胃袋を把握してる……?」
「ちょっと、それどういうこと!? マウント取ってんの!?」
「不敬な! 清春様の過去を知っているからといって、調子に乗らないでください!」
「事実を言ったまでよ。あなたたち、彼が子供の頃、ピーマンが苦手で泣きべそかいてたのを知ってる? 自転車に乗れなくて、膝をすりむいて私が手当てしてあげたことは? ……あなたたちが知らないキヨくんの全部を、私は知ってるの。ぽっと出の泥棒猫たちとは、積み重ねてきた『時間』の重みが違うのよ」
結衣の、最強のカードである「幼馴染の過去」をフル活用した圧倒的なマウント攻撃。
綾、珠希、澪の三人は、ギリィッ!と歯を食いしばり、凄まじい殺気を放った。
「……なら、これから先の時間は、全部私が上書きする。……清春くん、こっち向いて。私のウィンナー、食べて……っ」
「負けないし! あたしだってキヨっちの匂いの好みくらい知ってんだから! ほらキヨっち、あたしの首筋の匂い嗅いで!」
「清春様! 過去など関係ありません! 今のあなたに最も忠誠を誓っているのはこの澪です! さぁ、私を踏んでください!」
「ちょ、お前らストップ!! 引っ張るな! 服が破ける!!」
家庭科室は、四人の激重ヒロインたちによる「清春争奪戦」の最終戦争へと突入した。
右腕を綾に、左腕を珠希に、足首を澪にホールドされ、正面からは結衣が「私のおかずを食べなさい」と口に次々とおかずをねじ込んでくる。
むせ返るような体臭と香水、そして異常なほどに濃密な「白鐘の姫」の妖力の残滓が入り混じり、清春の意識は酸欠と胃痛で遠のいていく。
『マスター。現在の状況を報告します。……マスターの心拍数、180を突破。四人のヒロインたちの嫉妬と独占欲のパラメータは、いずれも測定限界を超えています。……このままでは、マスターは物理的に四等分に引き裂かれますよ』
ポケットの中のシキが、どこか楽しげな声で実況を始める。
(分かってるよ! でもどうすりゃいいんだよこれ!)
『推奨アクション:ありません。事なかれ主義を気取って怪異に手を出した代償です。四つの重すぎる愛の十字架を背負い、永遠に彼女たちのマタタビとして消費され続けてください』
「ポンコツAIがあああああっ!!」
清春の悲痛な叫びは、少女たちの甘い吐息とマウント合戦の嬌声に虚しくかき消されていった。
◆
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、地獄の昼食会は一時休戦となった。
綾たちは「放課後、絶対に一緒に帰るから」という重たい捨て台詞を残して、それぞれの教室へと戻っていった。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
清春は、机に突っ伏してぜぇぜぇと肩で息をしていた。
制服は皺くちゃになり、首筋には珠希のキスマークがつけられ、耳は綾に舐められて真っ赤に腫れている。
「……だらしがないわね。あんな雌豚どもにあしらわれて」
家庭科室に一人残った結衣が、腕を組みながら冷たく言い放つ。
「結衣……お前も、もう少し手加減してくれよ。口にハンバーグ押し込まれて、死にそうだったんだぞ」
「ふん。残さず食べたんだから、文句言わないの。……ほら、お弁当箱洗うから、あなたが使ったお箸とコップ、こっちに貸しなさい」
「あ、悪い。洗うのは俺がやるよ」
「いいから貸しなさいって言ってるでしょ! あなたみたいな不器用な手で洗ったら、汚れが残るわ!」
結衣は、清春の使っていた割り箸と紙コップを引ったくるように奪い取ると、ツンと顔を背けて流し台へと向かった。
「……相変わらず、怒りっぽいな」
清春は苦笑しながら、次の授業の準備をするために家庭科室を出て行った。
バタン、と引き戸が閉まる。
家庭科室に、結衣一人が取り残された。
――その瞬間。
結衣の顔から、先ほどまでの「冷たい氷の仮面」が、音を立てて崩れ落ちた。
「……はぁっ……はぁぁっ……!!」
結衣は、流し台の前にしゃがみ込み、奪い取った清春の割り箸と紙コップを、震える両手で大切そうに胸に抱きしめた。
彼女の顔は、耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まり、瞳孔は限界まで見開かれ、口元からは銀色の唾液がだらしなく滴り落ちている。
「キヨくんの……キヨくんの唾液がついてるお箸……っ。キヨくんの唇が触れたコップ……っ!!」
結衣は、誰もいない家庭科室で、完全に理性を飛ばした変態へとその本性を現した。
「すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!! あぁぁぁっ、最高……っ! キヨくんの匂い……キヨくんのエキスの匂い……っ!!」
結衣は、紙コップの縁に顔を埋め、狂ったように匂いを吸い込み始めた。
それだけでは飽き足らず、彼女は清春が先ほどまで口に含んでいた割り箸の先端を、自らの唇でそっと挟み込んだ。
「……んちゅ……じゅるる……れろっ……」
目を閉じ、恍惚とした表情で、割り箸の先端を舌で執拗に舐め回す結衣。
彼女の脳内では、あの異界の屋上で、絶世の女神(清春)に口づけされ、魂の底まで蹂躙されたあの極上の快楽が、何度も何度もフラッシュバックしていた。
「あぁ……っ、お姉様……キヨくん……っ。もっと、もっと私をぐちゃぐちゃにして……っ。あなたの匂いがないと、私、もう生きていけない……っ」
結衣の下腹部がキュンと熱くなり、太腿を強く擦り合わせる。
あの三人の女たちの前では、余裕ぶって幼馴染のマウントを取っていたが、実のところ、最も深く清春の毒に侵され、彼なしでは自我を保てないほどに依存しているのは、この水無月結衣だった。
威嚇の呪いが解けた代償として彼女に植え付けられたのは、「近づいてはいけない」という枷が外れたことによる、恐ろしいまでの独占欲と情欲の爆発。
ツンデレの皮を被った、狂信的ストーカー。
彼女は、清春が目を離した隙を狙って、彼の使ったもの、触れたものを一つ残らず自分のマタタビとして回収し、舐め回すという秘密の儀式を日課としてしまったのだ。
『……録画継続中。被写体「水無月結衣」、割り箸の舐め回し行為により心拍数150を突破。……マスターがこの映像を見たら、確実にショック死するでしょうね』
流し台の影に隠されたスマートフォンから、シキの無機質で楽しげな音声が微かに漏れるが、完全にトランス状態に陥っている結衣の耳には届いていなかった。
◆
放課後。
夕焼けに染まる昇降口で、日高清春は再び地獄の底に立たされていた。
「……清春くん。今日は一緒に帰るって、約束したよね。……私の家に、寄ってく?」
「ちょっと八束さん! 今日はあたしがキヨっちとゲーセン行く約束してんだけど! ねえキヨっち!」
「お二人とも下がってください! 清春様のお帰りの道は、この澪がお供して安全をお守りいたします!」
「あんたたち、うるさいわね。キヨくんは私と帰るに決まってるでしょ。家が隣なんだから」
昇降口のど真ん中で、四人の美少女たちが清春を取り囲み、激しい火花を散らしている。
下校する生徒たちが、遠巻きに「また日高のハーレム修羅場かよ……」「あいつ、いつか刺されるぞ」とヒソヒソと囁きながら通り過ぎていく。
事なかれ主義。
目立たず、誰の記憶にも残らない平穏な高校生活。
それはもう、粉々に砕け散り、宇宙の塵となって消え去っていた。
「……もう、どうにでもなれ」
清春は、虚ろな目で夕空を見上げ、完全に魂が抜けたような声で呟いた。
依存、発情、狂信、そしてツンデレストーカー。
四つの激重な愛に絡め取られたまま、俺の日常はこれからもずっと、この甘くてむせ返るような地獄の中を転がり落ちていくのだろう。
だが。
この時、清春も、そして四人のヒロインたちも、まだ誰も気づいていなかった。
彼女たちから絶えず発せられる、清春(白鐘の姫)の強烈な妖力の残り香が。
学園の霊的バランスを裏で監視し、怪異を「絶対悪」として憎む、もう一人の恐るべき存在の注意を、完全に引き寄せてしまっていることに。
四人の少女たちを取り巻く甘い地獄の裏側で、学園の霊脈に次なる崩壊の足音が、静かに、そして確実に近づいていたのである。




