第47話:翌日。ツンデレの皮を被った『激重百合ストーカー』の誕生
「……で。あなたたち、私の幼馴染に群がって、何をしてるのかしら」
放課後の旧校舎、家庭科室。
水無月結衣の、氷のように冷たく、絶対的な零度を含んだその一言が、室内の空気を一瞬にして凍りつかせた。
極度の男性恐怖症をねじ伏せて清春に依存する八束綾。
化け猫の本能を剥き出しにして発情する猫宮珠希。
命の恩人を神と崇めて狂信する波澄澪。
学園を代表する三人の激重ヒロインたちは、突如として現れた「幼馴染」という最強の肩書を持つ闖入者に対し、一斉に明らかな敵意の牙を剥いた。
「……幼馴染? 何それ。過去の肩書きなんて、何の意味もない。……今の清春くんの隣は、私の指定席なの」
綾が、清春の右腕を自らの豊かな胸の谷間にさらに深く抱き込みながら、分厚い眼鏡の奥から暗い視線を射抜く。
「そうそう! あんた、ずっとキヨっちのこと無視して嫌ってたじゃん! 今更しゃしゃり出てきて、幼馴染ヅラしないでよね!」
珠希が清春の背中から威嚇するようにシャーッ!と猫のようないきり立った声を上げる。
「お二人の言う通りです! 清春様は我々にとっての神なる存在! ……それに、あなた!」
澪が、清春の足元から立ち上がり、結衣を指差して驚愕に目を見開いた。
「あなたから……なぜ、清春様と同じ、あの『神聖な匂い』がするのですか!? しかも、私たちよりも遥かに深く、濃厚に魂に染み付いたような……まるで、何年も前から漬け込まれていたような、圧倒的な香りが!」
人魚の半妖である澪の嗅覚は、結衣の魂に刻まれた『白鐘の姫』のマーキングの異常な濃さを正確に嗅ぎ取っていた。
(……ふふっ。当然よ。私が一番長く、一番深く、あの人(お姉様)に愛されたんだから)
結衣は内心で、ドロドロに甘い優越感に浸りながらも、表面上は一切の感情を顔に出さず、氷の仮面を維持し続けた。
「……匂い? 何を気持ち悪いこと言ってるの。頭でもおかしいんじゃないかしら」
結衣は冷たく鼻で笑い、清春へと視線を向けた。
「キヨくん。あなた、私に関わらない間に、随分と変な女たちに絡まれるようになったのね。……見過ごせないわ。幼馴染として、あなたが変な道に外れないように、今日から私が監視させてもらうから。……ここ、料理部でしょ? 私も入部するわ」
「ええええっ!? 結衣も料理部に!?」
清春の胃袋が、もはや薬ではどうにもならないレベルで悲鳴を上げた。
三つ巴の地獄ですらキャパオーバーだったのに、そこに四人目が、しかもずっと気まずかった幼馴染が加わるなど、まさにカオスだ。
「……文句、あるの?」
「いや、文句はないけど……お前、ずっと俺を避けてたのに、急にどうしたんだよ」
「……別に。昨日、助けられた借りがあるから、少しだけ気にかけてあげようと思っただけよ。勘違いしないで。あなたのことが好きになったとか、そういうのじゃ全くないから」
ツン、と顔を背けて言い放つ結衣。
だが、清春から顔を背けたその瞬間、結衣の鼻孔は凄まじい勢いで収縮と拡張を繰り返し、空気中に漂う清春の残り香を「すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」と限界まで吸い込んでいた。
(ああああああっ、キヨくんの声! キヨくんの匂い! 幸せ……っ! もっと、もっと嗅ぎたい……っ!!)
結衣の顔は、清春からは見えない角度で、林檎のように真っ赤に茹で上がり、だらしなく口角が緩みきっていた。
十年の孤独から解放された反動と、圧倒的な女神(姫)から直接注ぎ込まれた妖力の毒。
それが、水無月結衣という少女の理性を完全に破壊し、表向きはツンデレの幼馴染、裏では清春の匂いなしでは呼吸もできない『激重百合ストーカー』という、最狂のモンスターを誕生させてしまったのだ。
『マスター。心拍数の異常上昇を検知。……ご愁傷様です。料理部のパワーバランスは完全に崩壊し、四人のヒロインによる「マスター争奪・聖杯戦争」の幕開けですね』
エプロンのポケットから、シキの呆れ混じりの、しかしどこか楽しげな合成音声が響く。
「シキ、お前はもう黙ってろ……っ!」
清春の悲痛な叫びは、四人の少女たちが放つむせ返るような香水とフェロモン、そしてバチバチと飛び交う火花の音にかき消されていった。
◆
翌日。
学園の昼休み。
3時間目の体育の授業を終え、清春はジャージ姿のまま、購買で買ったパンを抱えて誰もいない教室へと戻ってきた。
「……ふぅ。やっと一息つける」
清春は自分の席に座り、大きな溜息を吐き出した。
最近、昼休みすらも綾や珠希たちに囲まれて休む暇がなかった。今日はたまたま彼女たちが委員会の集まりなどで別行動になったため、奇跡的に訪れた平穏な時間だった。
「……そういえば、結衣の奴、今日も朝から冷たかったな」
清春は、パンをかじりながら、登校時の幼馴染の態度を思い出した。
『おはよう、キヨくん。……汗臭いから、あんまり近づかないで』と、氷のような声で言い放たれたのだ。
昨日、料理部に入部すると宣言した時もそうだったが、呪いが解けたからといって、すぐに昔のように仲良くなれるわけではないらしい。
「まぁ、何年間も避けてたんだし、気まずいのも仕方ないか。ゆっくり元に戻っていければいいさ」
事なかれ主義の清春は、結衣のツンツンした態度を言葉通りに受け取り、「昔の世話焼きで、少し口うるさい幼馴染に戻っただけだ」と、都合よく解釈していた。
だが。
清春は、気づいていなかった。
彼が席を立ち、ゴミを捨てに教室を出ていった、その直後のことである。
ガラッ、と。
教室の後ろの扉が、音もなく開いた。
そこから、周囲を警戒するようにして忍び込んできたのは、他でもない水無月結衣だった。
彼女は、誰もいない教室を見渡すと、真っ直ぐに清春の席へと向かった。
そこには、清春が体育の授業で脱ぎ捨て、背もたれに掛けてあった「指定の体操着のジャージ」があった。
結衣は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
(……キヨくんの、脱ぎたてのジャージ……)
彼女の瞳孔が限界まで見開き、呼吸が荒くなる。
結衣は、震える両手でそのジャージをそっと持ち上げると、まるで壊れ物を扱うように顔の前へと持ってきた。
「……すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!」
ズォォォォォォォォッ!!という、掃除機のような吸引音。
結衣は、清春のジャージに顔全体を完全に埋め込み、肺の限界を超えて、狂ったようにその匂いを吸い込み始めた。
「んんんっ! はぁっ、はぁぁっ……!! 最高……っ、キヨくんの汗の匂い……っ、少し酸っぱくて、でもその奥に、お姉様の甘い猛毒の匂いが隠れてる……っ!」
結衣の顔面は瞬く間に茹でダコのように真っ赤になり、目には恍惚の涙が浮かんでいる。
彼女の足から力が抜け、そのままジャージを抱きしめた状態で、清春の椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「あぁぁっ……頭が溶ける……っ。キヨくん、キヨくんキヨくん……っ! 私、もうこの匂いがないと生きていけない……っ。ちゅっ、んちゅ、はむっ……」
匂いを嗅ぐだけでは飽き足らず、結衣はジャージの襟元の、一番汗が染み込んでいるであろう部分を、自らの舌で直接舐め回し始めた。
銀色の唾液が糸を引き、清春のジャージを卑猥に濡らしていく。
何年もの孤独。
その反動は、彼女の理性を跡形もなく消し飛ばしていた。
表向きは「あなたなんて嫌い」と氷の仮面を被っておきながら、裏では清春の使ったもの、触れたものすべてを貪欲に求める、正真正銘の変態ストーカー。
それが、呪いから解き放たれた水無月結衣の、本当の姿だった。
「……んっ、あ、これ……キヨくんがさっき飲んでた紙パックのジュース……」
結衣の視線が、机の上に置かれた飲みかけのジュースの紙パックを捉えた。
ストローが刺さったままになっている。
結衣は、ジャージを抱きしめたまま、震える手でそのストローに触れた。
(キヨくんの、唇が触れた場所……。間接、キス……っ)
結衣の頭の中に、異界の屋上で、あの絶世の女神(清春)に唇を塞がれ、口の中を蹂躙された記憶が鮮烈にフラッシュバックする。
下腹部がキュンと熱くなり、太腿を強く擦り合わせた。
結衣は、ゆっくりと顔を近づけ、清春が咥えていたストローを、自らの唇でそっと咥え込んだ。
「……ちゅ、じゅるる……っ。んんっ……、あまい……っ」
ただのリンゴジュースのはずなのに、結衣にはそれが、あの夜に流し込まれた「極上の妖力」と同じ味に感じられた。
ストローを吸いながら、結衣は完全にイってしまった顔で、空虚な教室の天井を見上げて喘ぎ声を上げた。
――その時だった。
「あれ? 結衣、何してんだ?」
ガラッ、と。
教室の前扉が開き、ゴミ捨てに行っていた清春が戻ってきてしまったのだ。
「……っ!!?」
結衣の心臓が、口から飛び出しそうなほど跳ね上がった。
見られた。
幼馴染のジャージを顔面に押し当てて、飲みかけのストローを舐め回しているという、どう言い訳しても変態としか思われない最悪の現場を。
「え、あ、その……っ」
結衣は、咄嗟にストローから口を離し、抱きしめていたジャージをバサッ!と乱暴に机の上に放り投げた。
顔はまだ真っ赤に上気し、息は肩でしている。
「お前、顔赤いぞ? 熱でもあるのか?」
清春が、心配そうに近づいてくる。
結衣は、ギリギリのところで理性を総動員し、顔の筋肉を強制的に凍らせて「氷の仮面」を装着した。
「……な、何でもないわ! ちょっと、探し物をしてただけよ!」
「探し物? 俺の席で?」
「そ、そうよ! あなたが昨日、私の消しゴムを借りパクしたまま返してないから、探しに来たのよ!」
完全なでっち上げだったが、結衣は堂々と胸を張って言い放った。
「消しゴム? いや、俺、借りた覚え……」
「いいから! ないならいいわ。……それより、このジャージ、汗臭いから早くしまいなさいよ。近迷惑よ」
結衣は、清春に背を向け、ツンツンと怒ったような足取りで教室から足早に立ち去っていった。
廊下に出た瞬間、壁に寄りかかって「ふぅぅぅぅぅぅっ……!!」と心臓を押さえて深く安堵の息を吐き出す結衣。
ギリギリだった。あと一秒遅ければ、確実に変態だとバレていた。
教室に残された清春は、首を傾げながら自分の席に戻った。
「なんだよ、相変わらず冷たいな……。ん? なんかジャージ、変に濡れてないか?」
清春が、襟元がビショビショに濡れているジャージを持ち上げた瞬間。
『マスター。報告します。先ほど水無月結衣は、マスターのジャージの匂いを狂ったように吸引し、さらに襟元を執拗に舐め回し、とどめにマスターの飲みかけのジュースのストローを吸って恍惚としておりました。……すべて、私のカメラ機能でバッチリ録画済みです』
エプロンのポケットから、シキの冷徹な、そして完全に面白がっている音声が響いた。
「は……?」
清春の顔から、スッと血の気が引いた。
『彼女に刻み込まれた「姫のマーキング」は、十年間熟成された極上品です。その依存度と執着心は、綾や珠希たちとは比べ物になりません。……表面上はツンデレを装っていますが、中身は完全に理性を失った「激重ストーカー」へと変貌していますね』
「ストーカーって……嘘だろ、あの結衣が……?」
『嘘ではありません。証拠映像をプロジェクターで投影しましょうか? よだれを垂らして喘ぐ幼馴染の姿、なかなか見応えがありますよ』
「やめろ!! 絶対に見るな! 俺も見ない!!」
清春は、パニックになってスマートフォンを両手で塞いだ。
信じたくなかった。あのクールで氷のように冷たい結衣が、裏で俺の脱ぎたてのジャージを嗅いで悶絶しているなどという、ホラー映画よりも恐ろしい現実を。
『事なかれ主義の代償は、雪だるま式に膨れ上がっていますよ、マスター。……これからは、一秒たりとも自分の私物から目を離さないことです。油断すれば、あなたのリコーダーや体操着は、すべて彼女の極上のマタタビとして消費される運命です』
「……お、俺の平穏な高校生活は、もう終わった……完全に終わったんだ……」
清春は、濡れたジャージを絶望の目で見つめながら、その場に崩れ落ちた。
依存、発情、狂信。
そこに新たに加わった、最強のカードを持つ「ツンデレストーカー」。
四つの重すぎる愛のベクトルが複雑に絡み合う地獄の料理部で、日高清春の胃痛は、もはや致死量の領域へと突入しつつあった。
そして、この学園の霊的バランスが崩壊したことによる真の危機が、まだ静かに、しかし確実に迫り来ていることに、彼らはまだ気づいていなかったのである。




