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第46話:結衣視点。解けた呪いと、残された甘い毒



 白い天井。消毒液のツンとした匂い。

 水無月結衣が重い瞼を開けると、そこは静まり返った学園の保健室だった。

 窓から差し込む朝の光が、カーテンを白く透かしている。どうやら、丸一日近く眠り込んでしまっていたらしい。


「……あ、れ……」


 結衣は、ゆっくりとベッドから上体を起こした。

 自分の身体に触れて、驚く。

 軽い。

 まるで、これまでずっと背負っていた見えない鉄の枷が、嘘のように消え去っている。


 魂の奥底で、十年もの間ずっとドクドクと不気味に脈打っていた、あの黒い大蛇のような『威嚇印』の気配が、どこにもない。

 人を遠ざけ、傷つけ、自分自身を孤独な牢獄に閉じ込めていたあの呪いが、本当に、綺麗さっぱり消滅しているのだ。


「呪いが……解けた……」


 結衣は、震える両手で自分の顔を覆い、ポロポロと涙をこぼした。

 もう、私がキヨくんに近づいても、彼が怪我をすることはない。

 誰かと話しても、不自然な事故が起きることはない。

 あの永遠に続くかと思われた地獄の十年間が、ようやく終わったのだ。


 だが、その安堵の涙は、すぐに別の「熱」によって乾かされていくこととなる。


 結衣の脳裏に、あの屋上での出来事が、映画のワンシーンのように鮮明にフラッシュバックした。


 大妖怪に喰われそうになった絶望の密室。

 そこに、空をガラスのように叩き割って舞い降りた、絶世の美女。

 白銀の髪。純白のドレス。金色の蛇の瞳。


 ――『私は彼であり、彼は私』

 ――『あなたの魂の奥底まで、私が直接、正しい印を刻み込んであげる』


「あ、ぁ……っ」


 結衣の顔が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まり、全身からボッと火が出るような熱を帯び始めた。


 あの神々しいまでに美しく、そして残酷な大妖怪『白鐘の姫』。

 その正体が、ずっと守りたいと願っていた、あの優しくて少し頼りない幼馴染の日高清春だったという衝撃。

 だが、今の結衣の脳を支配しているのは、その正体の矛盾への混乱ではない。


 あの、美しすぎる「お姉様キヨくん」に奪われた、唇の記憶だった。


 結衣は、自分の唇を指先でそっと撫でた。

 あの時の感触が、あまりにも生々しく蘇ってくる。

 氷のように冷たくて、なめらかな舌が、自分の口の中をこじ開け、十年間の孤独を根こそぎ蹂躙するようにしゃぶり尽くしてきた。

 雪山の極限の冷気と、脳髄を溶かす猛毒の甘い蜜の匂い。

 それが、自分の粘膜から直接流れ込んできて、身体の隅々にまで浸透していく、あの狂おしいほどの快楽。


「んんっ……、はぁ、ぁ……」


 思い出しただけで、結衣の身体がビクンと小さく跳ね、シーツの中で身悶えした。

 下腹部の奥が、キュゥゥッと甘く締め付けられ、熱い雫が滲むのが分かる。


 信じられない。

 十年もの間、誰にも心を開かず、氷の仮面を被って生きてきた私が。

 あんな風に、だらしなく舌を絡めて、よだれを垂らして、獣みたいに喘ぎ声を上げてしまうなんて。


 でも、嫌じゃなかった。

 怖いどころか、もっと、もっと奥まで侵してほしいと、魂の底から願ってしまった。

 あの匂いがないと、もう生きていけないとすら思ってしまった。


「キヨ、くん……。お姉、様……っ」


 結衣は、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめながら、その矛盾した二つの呼称を熱っぽい吐息と共に零した。


 幼馴染の少年としての「キヨくん」への、十年間抑圧してきた純粋な愛情。

 そして、自分を圧倒的な暴力と快楽で支配し、魂に消えない『隷属の印』を刻み込んだ「お姉様(姫)」への、狂信的なまでの依存と情欲。

 その二つが、結衣の中でドロドロに混ざり合い、もはや手がつけられないほどの『激重な執着』へと変異を遂げていた。


 ふと。

 結衣は、自分の肩に、見覚えのない上着が掛けられていることに気がついた。

 男子用の、少し大きめの学生服のカーディガンだ。


「これ……」


 結衣は、そのカーディガンを手に取り、顔を近づけた。

 瞬間、結衣の瞳孔が開いた。


 微かに残る、あの匂い。

 清春の男の子としての体臭と、その奥に隠しきれない『白鐘の姫』の甘い毒の残滓。

 あの大妖怪から直接流し込まれた原液に比べれば微々たるものだが、今の結衣の鋭敏すぎる感覚には、それだけで十分すぎるほどの「マタタビ」だった。


「すぅぅぅぅぅぅぅ……っ! はぁぁ……っ、キヨくんの、匂い……っ!」


 結衣は、誰にも見られていない保健室のベッドの上で、そのカーディガンに顔を深く埋め、狂ったように匂いを吸い込み始めた。


「んちゅ、はぁ、はぁっ……! あぁ、頭が、溶けそう……っ。もっと、もっとキヨくんの匂いが欲しい……っ。これがないと、私、息ができない……っ」


 かつての「氷の美少女」の面影は、そこにはもう微塵もない。

 顔を真っ赤にして、よだれを垂らしながら幼馴染のカーディガンに頬ずりをする姿は、完全に理性を飛ばした変態ストーカーのそれだった。


 威嚇の呪いが解けた代償。

 それは、清春から直接与えられた「極上の甘い毒」への、絶対的な依存だった。

 十年間、清春のために自己犠牲を強いてきた反動が、ここに来て「もう絶対に彼を手放さない」という恐ろしい独占欲に火をつけてしまったのだ。


「……そうだ。もう、離れなくていいんだ。私が側にいても、キヨくんは傷つかないんだから」


 結衣は、カーディガンを抱きしめたまま、ベッドの上で暗く、妖しい笑みを浮かべた。


 ずっと、遠くから見ているだけだった。

 でも、これからは違う。

 私は、彼の幼馴染だ。誰よりも長く彼を知っていて、誰よりも深く、彼の「秘密の姿」に蹂躙され、愛されたのだから。


 だが、そこで結衣の表情が、スッと冷たいものに変わった。

 彼女の脳裏に、清春の周りをうろついていた「三人の女たち」の姿が浮かんだのだ。


 図書委員の八束綾。

 ギャルの猫宮珠希。

 水泳部の波澄澪。


「……あの泥棒猫たち」


 結衣の声が、地を這うように低くなる。


 私が、キヨくんを守るために必死に孤独に耐えている間。

 あいつらは、キヨくんにくっついて、ヘラヘラと笑っていた。

 キヨくんの匂いを嗅ぎ、キヨくんの時間を奪っていた。

 許せない。絶対に許さない。

 キヨくんは、私のものだ。あの美しくて残酷なお姉様も、私の魂の所有者だ。

 ぽっと出のメス豚どもに、私の神様を横取りされてたまるものか。


「……ふふっ。待っててね、キヨくん。今日から、私がずっと側にいてあげるから」


 結衣は、カーディガンを自分の制服の下、素肌に直接触れるように巻きつけると、ベッドから立ち上がった。

 足取りは軽く、そしてその瞳には、これまでの冷たさとは次元の違う、暗く燃え盛る「狂気」の炎が宿っている。


 でも。

 すぐに抱きついて、「好き」と伝えるのはだめだ。

 私は十年間、彼に冷たく接してきた。急に態度を変えれば、彼を困惑させてしまう。

 それに、あの「お姉様」は、私が素直になるよりも、少し反抗的な態度をとった方が、より残酷に、より深く私を蹂躙してくれた。


(……表面上は、今まで通りの「冷たい幼馴染」でいよう。……でも、裏では、彼の匂いを、彼のすべてを、私が誰よりも深くしゃぶり尽くすの)


 ツンデレの皮を被りながら、その実態は、清春の匂いを狂おしく求める激重百合ストーカー。

 それが、十年の孤独から解放された水無月結衣が導き出した、最狂の愛情表現だった。



 ◆



 その日の放課後。

 日高清春は、旧校舎の家庭科室で、今日も今日とて地獄の修羅場に放り込まれていた。


「キヨっち! 昨日の放課後、どこ行ってたの! あたしのマタタビ成分が完全に切れて、昨日の夜は発狂しそうだったんだからね!」

「清春くん……。私を置いて、どこに行ってたの。……もう、清春くんの匂いがないと、私、生きていけないのに……」

「清春様! どうか、どうか私に罰を与えてください! あなた様の聖なる香りを一日嗅げなかった私は、もはや汚れた罪人です!」


 猫宮珠希が背中から首筋に噛み付き、八束綾が右腕を抱え込んで耳を舐め、波澄澪が足元で靴に頬ずりをする。

 いつもの、だが相変わらず人間の尊厳を削り取られる三つ巴の『匂い搾取』の光景。


「痛い! 猫宮、噛むな! 八束さんも舐めないで! 波澄はいい加減に立て!!」


 清春は、激しい胃痛に顔を歪めながら叫んだ。

 昨夜、結衣を助けるために変身の限界を超え、さらには『威嚇印』の反動で折れた肋骨が、まだズキズキと痛むというのに。この容赦のない猛獣たちのスキンシップは、文字通りの拷問だった。


(……でも、これでいい)


 清春は、揉みくちゃにされながらも、心のどこかで安堵していた。

 俺が昨日、あのバケモノを倒して、結衣の呪いを解いたことは、誰の記憶にも残っていない。

 結衣は無事に保健室に運ばれ、シキが「貧血で倒れていたところを発見した」と工作してくれた。

 彼女の十年の呪いは解けた。明日からは、きっとあいつは普通の女の子として、新しい友達を作って、あの太陽みたいな笑顔で高校生活を楽しんでくれるはずだ。


 俺は、この三人の激重ヒロインたちの相手(生贄)で手一杯だ。

 結衣には、俺なんかに関わらず、幸せになってほしい。


 清春がそう願って、小さく微笑んだ、その時だった。


 ――ガラララッ!!


 家庭科室の引き戸が、勢いよく開け放たれた。


「……っ!?」


 清春も、清春に群がっていた三人のヒロインたちも、一斉に扉の方へと視線を向けた。


 そこに立っていたのは。

 長い黒髪を揺らし、氷のように冷たい、無表情な仮面を貼り付けた、水無月結衣だった。


「……結衣?」


 清春が、驚きのあまり呆然と名前を呼ぶ。

 なぜ、彼女がここに? ここは料理部だ。彼女が寄り付くような場所ではないはずだ。


 結衣は、清春に群がる三人の少女たちを、文字通り「ゴミ」でも見るかのような冷酷な視線で一瞥した。

 その視線の冷たさに、さすがの綾たちも一瞬、息を呑んで動きを止める。


 結衣は、コツ、コツと足音を立てて家庭科室の中へと入り、清春の目の前で立ち止まった。


「……キヨくん」


 結衣の口から発せられたのは、相変わらず冷たく、素っ気ない声だった。


「昨日、保健室に運んでくれたの、キヨくんでしょ。……先生から聞いたわ」


「あ、ああ……。屋上で倒れてるのを見つけてさ。……具合は、もう大丈夫なのか?」


「……ええ。別に、助けてなんて頼んでないけど。……一応、幼馴染として、お礼だけは言っておこうと思って」


 ツン、と顔を背ける結衣。

 その態度は、昨日までの彼女と何ら変わらないように見えた。

 清春は、少し寂しさを感じつつも、「まぁ、急には変われないよな」と納得しようとした。


 だが。

 清春の目には見えていなかった。


 顔を背けた結衣が、清春の制服の袖口に鼻を近づけ、周囲にバレないように『すぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ……!』と、凄まじい勢いで清春の匂いを吸い込み、恍惚とした表情で頬を真っ赤に染めていることを。


(あぁぁっ……キヨくんの匂い……っ! 最高……っ! もっと、もっと嗅ぎたい……っ!)


 内心ではドロドロの快楽に浸りながらも、結衣は瞬時に氷の表情に戻り、清春に群がる三人へと冷たい視線を向けた。


「……で。あなたたち、私の幼馴染に群がって、何をしてるのかしら」


 最強のカードである「幼馴染」という言葉。

 それを聞いた綾、珠希、澪の三人の目の色が、明らかな『敵意』へと変わった。


 事なかれ主義の少年の胃袋を粉砕する。

 四人の激重ヒロインが激突する、文字通りの地獄の修羅場が、今、ここに幕を開けようとしていた。

 

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