第44話:激突。過去の呪いごと打ち砕く
「キヨ、くん……?」
氷河へと変貌した異界の底で。結衣の震える唇から、信じられないというようにその名前が零れ落ちた。
目の前で微笑んでいるのは、この世のすべての美を集めて形にしたような、純白のドレスを纏った絶世の美女だ。
結衣のよく知る、少し頼りなくて、大人しくて、優しい幼馴染の少年の姿はどこにもない。
だが、結衣の魂は、この恐ろしくも美しい女神の奥底に、確かに「日高清春」の魂が、彼の切実な祈りと後悔が融合しているのを感じ取っていた。
そして何より、この女神から立ち昇る、脳髄を溶かすような甘く冷たい匂い。それこそが、十年間結衣の魂を縛り付け、孤独に追いやっていた「呪い」の正体であり、今となっては彼女が最も安心を覚える絶対的な支配者の香りだった。
「……ええ、そうよ。結衣」
姫は、結衣の頬を撫でていた手をゆっくりと離し、優しく、甘く囁いた。
その声は、鈴を転がすような女性の声でありながら、どこか清春の面影を感じさせる不思議な響きを持っていた。
「私の器(清春)は、ずっと泣いていたわ。自分が無意識に刻んだ印のせいで、一番大切なあなたを、十年間も孤独な地獄に閉じ込めてしまったと。……自分が弱かったから、あなたを守れなかったのだと」
「ちがう、キヨくんは悪くない……! 私が、私が勝手に……っ!」
「いいえ。悪いのは彼でも、あなたでもない」
姫は、ふわりと立ち上がった。
その瞬間、彼女から放たれていた「優しさ」が完全に消え失せ、周囲の温度がさらに数十度低下したような、絶対的な凍気が空間を支配した。
「悪いのは。私の極上の玩具に、許可もなく手を出そうとした、この薄汚い泥人形よ」
姫が冷たい視線を向けた先。
氷の檻に数十本の足を縫い止められた大妖怪が、怒りと恐怖で完全に狂乱していた。
「オノレェェェェッ!! オレノ獲物ダ! オレガ見ツケタ、最高ノ餌ダゾォォォォォッ!!」
大妖怪が鼓膜を破らんばかりの咆哮を上げる。
バキィィィィンッ!!
自らの凍りついた足を根元から引きちぎり、ドス黒い体液を噴出させながら、大妖怪は無理やり氷の戒めから脱した。
そして、失った足を補うように、その腐肉の巨体から新たに無数の触手を生やし、姫と結衣に向かって雪崩のように襲いかかってきた。
「キヨくんッ!」
結衣が悲鳴を上げ、姫の純白のドレスの裾を強く握りしめる。
空を覆い尽くすほどの巨大な触手の群れ。一本一本が大木のような質量を持ち、先端には鋭い刃と、獲物を溶かす猛毒の粘液が滴っている。それが数百、数千という数で、逃げ場のない異界の空から降り注いでくるのだ。
だが、姫は結衣を庇うように立ち塞がったまま、一歩も退かなかった。
結衣の手が震えているのを感じると、姫は小さく息を吐き、右手を軽く天へと掲げた。
「……私の後ろで、安心して見ていなさい。あなたの十年の苦しみを、今ここで、塵一つ残さず精算してあげるから」
カッ!!
姫の金色の瞳が、蛇のように爛々と輝きを増した。
直後、結衣と姫の周囲に、透明な「氷の半球」が出現した。
それは、ただの氷の盾ではない。絶対零度の極低温によって、近づくあらゆる物質の運動エネルギーを強制的に「ゼロ」にする、不可侵の聖域だった。
ズガガガガガガガガガガガガッ!!!!!
大妖怪の放った数千の触手が、氷の聖域に激突する。
しかし、そのすべてが、氷の壁に触れるか触れないかの瞬間に白濁し、カチン、と音を立てて凍りついていく。
猛毒の粘液も、腐肉の刃も、圧倒的な質量による打撃も、姫の展開した絶対零度の前では、脆いガラス細工へと変換されてしまうのだ。
「ギ、ギャァァァァァッ!?」
大妖怪が、自らの触手が次々と凍結し、神経を焼かれるような冷気の逆流に悲鳴を上げる。
聖域の内側で、結衣は信じられないものを見るような目で、その光景を見上げていた。
あんなに巨大で、恐ろしかったバケモノが。
目の前に立つ、細くしなやかな背中をした『彼女』の指先一つに、手も足も出ずに悶え苦しんでいる。
圧倒的。理不尽。生態系の頂点。
これが、私を十年間縛り付けていた、呪いの主の本当の姿。
「……本当に、目障りね。いつまで蠢いているつもり?」
姫の赤い唇が、冷酷な弧を描く。
防御は終わり。ここからは、一方的な蹂躙の時間だ。
姫は、天に掲げていた右手を、今度は横へと優雅に薙ぎ払った。
「散りなさい」
パキィィィィンッ!!!
氷の聖域に張り付いていた数千の凍結した触手が、姫の言葉と共に、一斉に粉々に砕け散った。
ダイヤモンドダストの嵐が異界に吹き荒れ、大妖怪の巨体を容赦なく切り刻んでいく。
「オォォォォォォォォォォォッ!! イタイ、イタイィィィィッ!!」
「痛い? それがあなたの悲鳴? ……笑わせないで」
姫は、ゆっくりと大妖怪に向かって歩みを進めた。
その顔には、大妖怪に対する怒りだけでなく、清春の心からの慟哭が重なっていた。
「十年よ。十年間、この子がどれほどの孤独の中で、どれほどの痛みに耐えてきたか。あなたがた如き低劣な泥が、理解できるとでも思っているの?」
姫が歩くたびに、異界の赤黒い空間が、白銀の雪と氷へと塗り替えられていく。
大妖怪は、近づいてくる姫の圧倒的な神威に、ついに完全に戦意を喪失した。
食欲よりも、生存本能が警鐘を鳴らす。
逃げなければ。このままでは、文字通り魂の欠片すら残さずに消し飛ばされる。
「ヒィィィッ! コ、コッチニ来ルナァァァッ!!」
大妖怪は、巨体を丸めるようにして、自分が作り出した異界の壁を食い破り、現実世界へ逃げ帰ろうと足掻き始めた。
だが、姫がそんなことを許すはずがなかった。
「……逃がすと言った覚えはないわ。あなたはここで、私の器の『怒り』を、その醜い身体の隅々まで味わって消えるのよ」
姫が、両手を胸の前で交差し、祈るように組んだ。
その瞬間。大妖怪の頭上に、直径数十メートルにも及ぶ、巨大な『氷の槍』が何百本となく顕現した。
それは、ただの氷ではない。姫の妖力と、清春の十年分の後悔と怒りが極限まで圧縮された、神の裁きの刃。
「串刺しになって、地獄で永遠に凍えていなさい」
ズドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
数百本の巨大な氷の槍が、逃げようとする大妖怪の背中に、豪雨のように降り注いだ。
「ギャ、ガァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!」
大妖怪の絶叫が、異界の空間そのものを引き裂くように響き渡る。
氷の槍は、腐肉の巨体を容易く貫き、無数の赤い目玉を潰し、その身体を地面の氷河へと深々と縫い付けた。
ドス黒い体液が噴き出す端から、絶対零度の冷気によって凍りつき、赤い血の花となって咲き乱れる。
「ア……ァ……。ユル……シテ……」
全身をハリネズミのように氷の槍で串刺しにされ、大妖怪はもはや動くことすらできなくなった。
その口から漏れるのは、強者の傲慢さなど微塵もない、ただの命乞いの呻き声。
だが、姫の瞳には、一切の慈悲はなかった。
彼女は、大妖怪の目の前まで歩み寄り、その巨大な顎を見下ろした。
「許し? 結衣を喰らおうとしたあなたに? ……身の程を弁えなさい、泥人形」
姫は、スッと右手を伸ばし、大妖怪の顔面に触れた。
その瞬間。大妖怪の巨体の内側から、凄まじい勢いで氷の結晶が増殖し始めた。
内臓、骨、血管、そして怪異としての霊的な核。そのすべてが、姫の直接的な妖力注入によって、完全な「氷のオブジェ」へと強制的に変換されていく。
「ピ、ギィィィィィィ…………ッ」
大妖怪の断末魔は、全身が完全に凍結する音に掻き消された。
学園を覆い尽くそうとした災厄。結衣を絶望の淵に追いやった巨大なバケモノは、今や、ピキピキと音を立てる巨大な氷の彫刻へと成り果てた。
「……砕けなさい」
姫が、背を向けたまま、静かに指を鳴らす。
パリーーーーーーーンッ!!!!
巨大な氷の彫刻が、内部から爆発したように、数億の細かな氷の塵となって粉々に砕け散った。
異界に吹き荒れる吹雪が、その塵を空高く巻き上げ、浄化していく。
大妖怪という存在は、文字通り、この世界から痕跡一つ残さずに消し飛ばされたのだ。
同時に。
主を失った大妖怪の異界が、ガラガラと音を立てて崩壊を始めた。
赤黒い肉壁が剥がれ落ち、そこから現実世界――夕闇の学園の屋上の景色が、再び姿を現し始める。
『……マスター。対象の完全消滅を確認。……異界の崩壊に伴い、現実空間への帰還プロセスへと移行します』
シキの合成音声が、勝利の宣告を告げる。
姫は、ふぅ、と短く息を吐き、静かに振り返った。
そこには、一連の圧倒的な蹂躙劇を、ただ呆然と見つめていた結衣が、へたり込んだままこちらを見上げていた。
恐怖はない。
彼女の瞳にあるのは、自分を救ってくれた圧倒的な存在に対する、底知れぬ憧憬と、そして、自分の魂に刻まれた呪いが歓喜して疼く、甘い服従の予感。
「……キヨ、くん」
結衣は、震える声で再びその名を呼んだ。
姫は、優雅な足取りで結衣の元へと歩み寄り、その真っ白なドレスの裾を揺らしながら、彼女の前に膝をついた。
「ええ。もう大丈夫よ、結衣」
姫の白く細い指先が、結衣の冷え切った手を優しく包み込む。
その手は氷のように冷たいはずなのに、結衣の心臓は、火傷しそうなほどの熱を持って激しく脈打ち始めていた。
「邪魔者は消えたわ。……さあ、十年間も放置してしまった、あなたのその古い『呪い』を。私が責任を持って、正しく、そして永遠に消えない形へと……上書きしてあげる」
姫の金色の瞳が、結衣の魂の奥底まで見透かすように、甘く、妖しく細められる。
幼馴染の過去の罪を精算するための戦いは終わった。
後に残されたのは、孤独だった少女の魂を、絶対的な支配と快楽で塗り替えるための、最も重く、切ない『口づけ』の儀式だけだった。




