第42話:絶望の密室。結衣の覚悟
ドロドロと溶け落ちるような赤黒い空間の壁が、水無月結衣の背後で完全に閉ざされた。
――『待て! 何やってるんだ結衣! 戻れェッ!!』
血を吐きながら自分に手を伸ばしていた日高清春の悲痛な叫び声が、水の中に沈んだようにくぐもり、やがて完全に途絶える。
「……ごめんね、キヨくん」
結衣は、もう何も見えなくなった背後の壁に向かって、最後にもう一度だけ謝罪の言葉を零した。
これでいい。これで、あの化け物の狙いは完全に私一人に絞られた。
私がこの『異界』と呼ばれる密室の中で喰われ、魂ごと消化されれば、私の身体に染み付いた呪いの匂いも消え去る。清春の日常を脅かすものは何もなくなるのだ。
結衣は、ゆっくりと前を向いた。
彼女が自ら足を踏み入れたその場所は、もはや学園の屋上ではなかった。
空には太陽の代わりに、血のように赤い巨大な月が浮かび、足元は腐肉と泥が混ざり合ったようなブヨブヨとした悍ましい地面に変わっている。
空間全体が、巨大な生物の胃袋の中にいるかのように生温かく脈打ち、鼻を突くのは、何万年分もの死臭とヘドロを煮詰めたような強烈な瘴気だ。
「アァァ……。ヨクゾ逃ゲズニ、自ラ入ッテキタナ。……賢イ餌ダ……」
ズズンッ、と。
結衣の目の前で、巨大な肉の塊が蠢いた。
大妖怪。
腐った大樹に、無数の動物や人間の死骸を無造作に縫い合わせたような、冒涜的なまでの巨体。
表面には赤黒い目玉がびっしりと蠢き、そのすべてが、結衣というたった一人の少女を、貪欲な食欲と劣情を込めて見下ろしている。
その巨体から発せられる霊的なプレッシャーだけで、結衣の肺から空気が押し出され、立っていることすら困難になった。
「あ、ぁ……っ」
結衣の足から力が抜け、ぬかるんだ腐肉の地面にへたり込む。
怖い。
死ぬのが怖い。喰われるのが怖い。
あの巨大な顎で噛み砕かれ、ドロドロの胃液に溶かされていくのだと想像しただけで、全身の血が凍りつき、ガタガタと歯の根が合わなくなる。
「ヒャハハハッ! 震エテイルノカ? 怖イノカ? ダガ、モウ遅イ……。コノ空間ハ、オレノ胃袋ソノモノ。現実ノ世界カラハ完全ニ切リ離サレタ、絶対ノ『密室』ダ……!」
大妖怪が歓喜に打ち震えながら、数十本の節くれだった腕をワラワラと結衣の方へ伸ばしてくる。
結衣の魂に刻まれた『大蛇の威嚇印』が、防衛本能から黒い瘴気を放って抵抗しようとするが、結衣自身が戦意を喪失しているため、先ほど清春を弾き飛ばしたほどの力は出ない。
大妖怪の腕が、結衣の細い身体を、蛇が獲物を締め上げるようにゆっくりと、そして残酷に巻き込んでいく。
「痛っ……」
泥と腐肉の感触が、制服越しに結衣の肌を這い回る。
気持ち悪い。今すぐ逃げ出したい。
けれど、結衣は逃げなかった。いや、逃げられないのだと自分に言い聞かせた。
(……これで、キヨくんは助かるんだから)
結衣は、恐怖で涙をこぼしながらも、ぎゅっと目を閉じて過去の記憶にすがりついた。
小学生の頃の、泥だらけになって笑い合った日々。
中学生になって、自分の周囲で不審な事故が起き始め、自分が「呪われている」と気づいた日の絶望。
そして、自分に話しかけてくれた清春が、見えない力に弾き飛ばされて怪我をした時の、あの凍りつくような恐怖。
――私が近づけば、彼を傷つけてしまう。
――だから私は、彼を嫌いにならなければいけない。彼から嫌われなければいけない。
それからの十年間は、地獄だった。
誰も寄せ付けず、誰からも愛されず、常に冷たい仮面を被って生きてきた。
遠くで笑い合う清春の姿を、ただ影から見つめることしか許されなかった。
どれほど寂しかったか。どれほど、あの温かい日常に戻りたかったか。
夜、自分の部屋で一人きりになった時、何度声を出して泣いたか分からない。
でも、今日。
最後の最後に、清春は私のためにあの屋上に駆けつけてくれた。
私が呪われていると知っても、逃げ出さずに「俺が呪いを消してやる」と言ってくれた。
その言葉だけで。
私の十年間は、決して無駄じゃなかったのだと、報われた気がした。
(……ありがとう、キヨくん。……ずっと、大好きだったよ)
結衣は、迫り来る大妖怪の巨大な顎を見上げながら、心の中で最後の別れを告げた。
大妖怪の口から流れ落ちる黄色い粘液が、結衣の頬を掠め、ジュウウッという音と共に地面を溶かす。
逃げ場のない異界の中心で。
一人の少女の孤独な自己犠牲が、今、最も残酷な形で幕を下ろそうとしていた。
◆
一方、現実世界。
夕闇に染まる学園の屋上で、日高清春は血を吐きながら、何もない虚空を呆然と見つめていた。
「結衣……ッ! 結衣ィィィィィッ!!」
いくら叫んでも、何もない。
先ほどまで、赤いドーム状の異界の壁があったはずの空間は、今や完全に元の屋上の風景へと戻っていた。
空を覆っていた暗雲も、大妖怪の巨体も、そして結衣の姿も。
まるで最初から何も存在しなかったかのように、跡形もなく消え去っている。
『マスター。……水無月結衣の霊的反応、および大妖怪のエネルギー波形が、現実空間から完全にロストしました。……対象は、次元の裏側にある異界の最深部へと完全に格納されました』
清春のスマートフォンから、シキの無機質で冷徹な音声が響き渡る。
その言葉が意味する絶望の深さを、清春は痛いほどに理解していた。
「……異界に格納されたって……どういうことだ。結衣は……どこに行ったんだよ……っ」
『彼女は今、現実の物理法則が一切通用しない、大妖怪の「胃袋」というべき密室空間にいます。……そこは外からの干渉を完全に遮断する絶対の檻。生身の人間はおろか、低級な怪異でさえ、あの中に侵入することは不可能です』
「不可能って……じゃあ、結衣は……結衣はあのまま、喰われるのを待つしかないって言うのか……!?」
清春は、折れた肋骨の激痛に顔を歪めながら、血だらけの手でコンクリートを力任せに殴りつけた。
ゴツン、ゴツンと鈍い音が響き、拳から血が滲む。
俺のせいだ。
俺が、あいつをあんな場所に追いやったんだ。
俺の中にいる化け物が、十年前にお前に呪いをかけなければ。
俺が、もっと早くお前の孤独に気づいていれば。
俺が、もっと強ければ。
「……うぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
清春の喉から、獣のような慟哭が漏れる。
『マスター、感情のコントロールを。……現在のあなたの肉体は、結衣から放たれた『威嚇印』の衝撃で深刻なダメージを負っています。これ以上の無茶は、生命活動に支障をきたします』
「うるさい……っ!! 黙れ、シキ……!!」
清春は、血走った目で虚空を睨みつけた。
事なかれ主義。
誰の記憶にも残らず、ただ平穏に高校生活を終える。
そんな馬鹿げた見栄のために、俺は一番身近にいた大切な人間を、十年もの間、地獄のような孤独の中に放置し続けてきた。
そして今、彼女は俺を守るために、自ら化け物の餌になろうとしている。
ふざけるな。
そんな結末、誰が認めるものか。
もしこのまま彼女を見殺しにして、明日から何食わぬ顔で料理部のあいつらと笑い合う日常に戻れるとでも言うのか?
(……シキ)
清春の瞳の奥で、人間としての理性の光が、音を立てて消え失せていく。
代わりに燃え上がり始めたのは、人間というちっぽけな器には到底収まりきらない、圧倒的で、暴虐的な黄金の輝き。
(……俺の中にいる、あの『姫』を……叩き起こせ)
『……マスター? 何を言っているのですか。先ほども申し上げた通り、大妖怪の異界はすでに完全に閉ざされています。いかに『白鐘の姫』の妖力をもってしても、次元の壁を外から破ることは……』
「破れるかどうかの問題じゃない!!」
清春の怒声が、夕暮れの屋上にビリビリと響き渡った。
「俺が、開けるんだ。……俺が結衣をあそこに閉じ込めたなら、俺の手で、あの壁をぶち壊して、あいつを引きずり出す!!」
『……』
シキの合成音声が、一瞬だけ沈黙した。
AIであるシキには、今の清春から放たれている異常な熱量と、限界を突破しようとする魂の波長が、論理的思考を超えた「何か」を引き起こそうとしているのが見えていた。
「俺の身体がどうなってもいい。人間としての人生が、ここで終わっても構わない。……結衣を、俺の幼馴染を、あんな泥棒猫の胃袋なんかにくれてやるもんか……ッ!!」
清春の覚悟。
それは、ただの自己犠牲ではない。
自分自身の罪を認め、それを精算するために、己の中に眠る「最恐の化け物」と完全に同化するという、後戻りのできない決断だった。
清春の下腹部の奥底。
深い氷河の底で眠っていた大妖怪『白鐘の姫』の意識が、主である清春の極限まで煮詰まった殺意と、獲物を奪われた怒りに呼応して、ドクン、と大きく脈打った。
――そうよ。その怒り。その殺意。
――私の玩具を、許可もなく盗み出した薄汚い泥人形を。塵一つ残さず、氷の地獄で砕き散らしてやりなさい。
――全部、私に明け渡せばいいわ。次元の壁など、私が物理で叩き割ってあげるから。
姫の残酷で美しい囁きが、清春の脳髄を直接舐め回す。
清春は、もはやその声に抗うことはしなかった。
折れた肋骨の痛みが、肺を刺す苦しみが、急速に「圧倒的な全能感」へと塗り替えられていく。
「……シキ。制限解除だ。……やれ」
『……命令、受理しました。マスターの魂の波長、妖力コアと100%同期。……これより、大妖怪『白鐘の姫』、完全顕現フェーズへと移行します』
シキの冷徹な宣告と共に。
清春の身体から、夕闇を完全に駆逐するほどの、目も眩むような白銀の閃光が爆発的に放たれた。
絶望の密室に閉じ込められた少女と。
それを奪還するために人間をやめた少年。
二人の十年に及ぶ呪縛を断ち切るための、次元を超えた破壊劇が、今、幕を開けようとしていた。




