第41話:極上のディナー。大妖怪の襲来
空が、腐り落ちようとしていた。
学園の屋上を覆っていたオレンジ色の夕焼けは、まるでドス黒い血液をぶち撒けたかのような禍々しい暗赤色へと変色し、その中心に開いた巨大な「渦」からは、絶え間なく吐き気を催すような瘴気が噴き出している。
それは、空間そのものが物理的に引き裂かれた次元の穴だった。
穴の奥から聞こえてくるのは、金属を擦り合わせたような不快な摩擦音と、何万もの怨嗟の叫びを一つに練り固めたような重低音。
「……あ、ぁ、あぁ……ッ」
屋上のコンクリートにへたり込んだ水無月結衣は、震える両手で自分の身体を抱きしめたまま、その地獄のような空の穴から目を離せずにいた。
彼女の魂の奥底に刻み込まれている『大蛇の威嚇印』が、警鐘どころではない、狂乱の不協和音を掻き鳴らしている。
恐怖。絶望。そして、自分という存在が根本から捕食され、蹂躙されることへの根源的な拒絶。
「結衣、しっかりしろ! 俺から離れるな!」
清春が、強風に煽られながら結衣の盾になるように立ち塞がる。
だが、事態はすでに、人間の男子高校生が身を挺してどうにかなる次元を完全に超えていた。
ズズンッ……!!
大気が激しく震動し、空の渦の縁を押し広げるようにして、巨大な「指」が姿を現した。
ただの指ではない。一本一本が大木の幹ほどの太さを持ち、腐った肉と泥が混ざり合ったような皮膚の表面には、無数の赤黒い目玉がびっしりと埋め込まれ、ギョロギョロと狂ったように動き回っている。
その巨大な手は、まるで天の蓋をこじ開けるようにして次元の穴を力任せに引き裂き、遂にその『本体』を現世へと引きずり出した。
『――警告、警告。大妖怪の完全顕現を確認しました』
清春の脳内で、シキの無機質な合成音声がレッドアラートを鳴らし続ける。
『対象の質量、および霊的波形、いずれも測定限界を突破。……学園の霊脈に巣食っていた怨霊や水妖が、ただの「雑草」に思えるほどの、純粋な『災厄』です。このサイズの怪異が物理法則の壁を越えて侵入してくるなど、本来の霊的バランスが保たれていればあり得ない事態です』
「俺が、学園の怪異を一掃して結界に穴を開けたせいか……っ!」
『それだけではありません。穴が開いたからといって、大妖怪がわざわざこんな狭い学園に降りてくる理由にはならない。……彼らを狂わせ、次元の壁を食い破らせるほどの衝動を与えたのは、他でもない』
シキの言葉を待つまでもなく、大妖怪の巨大な顎が、その醜悪な顔の半分を割るようにして大きく開かれた。
「アァァ……。イイ匂イダ……。ドコダ、ドコニアル……?」
言葉の形を保ってはいるが、それは知性によるものではない。
純粋な食欲と、理性を焼き切るほどの芳香に対する「発情」にも似た渇望の叫びだった。
大妖怪の顎から、黄色く濁った粘液が滝のように流れ落ちる。それが屋上のフェンスに触れた瞬間、ジュウウッという音と共に金属が飴細工のように溶け落ち、毒の煙が立ち昇った。
「ヒャァァァァァッ! ミツケタ、ミツケタゾォォォォォッ!!」
大妖怪の全身に埋め込まれた無数の赤い目玉が、一斉に、屋上にいる結衣の一点へと集中した。
ドクンッ!!
その瞬間、大妖怪から放たれる凄まじいプレッシャーが、物理的な重力となって清春と結衣を地面に叩きつけた。
「ぐはっ……!?」
清春は両手でアスファルトを踏みしめ、どうにか膝をついた状態で持ち堪えたが、結衣は完全に地面にうつ伏せに倒れ込み、苦痛に顔を歪ませた。
「結衣ッ!」
『マスター、対象の狙いは完全に水無月結衣に絞られています!』
シキの音声が、かつてなく切迫したトーンに変わる。
『彼女の魂に刻み込まれた、十年モノの「白鐘の姫の匂い」。生態系の頂点に立つ上位存在の妖力が、十年間という途方もない時間をかけて一人の少女の孤独と絶望の中で発酵し、純度を高め続けた……。怪異の世界において、それは王侯貴族が百年かけて熟成させた極上のヴィンテージ・ワインに匹敵します』
「極上の、ワイン……」
『ええ。あの低劣な泥の化け物にとって、彼女はただの人間ではありません。姫の力を間接的に取り込み、自らを最高次元の怪異へと引き上げるための、世界で最も甘く、最も芳醇な『極上のディナー』なのです。……あれは、結衣を骨の髄まで、魂の最後の一欠片までしゃぶり尽くすためにここに来ました』
「ふざけるな……! 誰が喰わせてやるかよ!」
清春は、歯を食いしばりながら、倒れている結衣の前に立ちはだかった。
強風が清春の制服を激しく揺らし、大妖怪の放つ腐臭が肺を焼くように侵入してくる。だが、退くわけにはいかなかった。
自分が無意識に刻んだ呪いのせいで、結衣は十年間も孤独に苦しみ、そして今、その呪いが極上の餌となって彼女を化け物の胃袋へと導こうとしている。
これ以上の理不尽を、これ以上の自分の罪を、黙って見過ごすことなど絶対にできなかった。
「……キヨくん、だめ。逃げて……」
結衣が、掠れた声で清春の足首に手を伸ばした。
彼女の指先は氷のように冷たく、ガタガタと小刻みに震えている。
「私を置いて、逃げて……っ! あのバケモノは、私を食べに来たの……私が呪われているから、私の中に気持ち悪い匂いがあるから……っ!」
「違う! お前は呪われてなんかない!」
清春は、結衣の冷たい手を両手で強く握りしめた。
「お前を呪ってたのは、俺なんだ! 俺の中にいる化け物が、勝手にお前に印をつけたせいで、お前は……お前は十年間も……っ!」
「……え?」
結衣の瞳が、驚きに見開かれる。
だが、その真実を彼女が咀嚼し、理解するよりも早く。
「アマイィィィィッ! ヨコセ、ソノ甘イ肉ヲ、オレニ喰ワセロォォォォォッ!!」
大妖怪が狂乱の雄叫びを上げ、天空から巨大な腐木の腕を、屋上に向かって一直線に振り下ろしてきた。
まるで隕石が落下してくるかのような、圧倒的な質量と速度。
それが直撃すれば、屋上ごと清春も結衣も肉片すら残らず粉砕されてしまう。
「……シキ! 変身だ!」
清春は、人間のままでは一秒も保たないと悟り、自分の中に眠る『白鐘の姫』の力を解放しようとした。
ロックを外し、絶対零度の冷気で、あの巨大な腕を凍りつかせて防ぐ。それしか生き残る道はない。
——だが。
清春が変身のトリガーを引こうとした、まさにその瞬間だった。
ドクンッ!!!
結衣の魂の奥底で、かつてないほどの激しさで『大蛇の威嚇印』が暴走したのだ。
空から迫り来る巨大な外敵の脅威。そして、目の前で自分を庇おうとする清春の存在。
結衣の無意識下にある「キヨくんを守りたい」「キヨくんを巻き込みたくない」という強烈な自己犠牲の祈りが、皮肉にも、清春が十年前に刻んだ呪いを『最大の防護壁』として発動させてしまった。
ズガァァァァァァンッ!!!
空から振り下ろされた巨大な腕が、屋上に激突する直前。
結衣の身体から爆発的に放たれた漆黒の衝撃波が、大妖怪の腕を弾き返した。
「ギャァァァァァッ!?」
大妖怪が、指の骨を折られたような悲鳴を上げて後退する。
それは、生態系の頂点である『白鐘の姫』の威嚇の力が、いかに強大であるかを証明する一撃だった。
だが。
その無差別に放たれた絶対的な拒絶の力は、バケモノだけでなく、結衣の目の前にいた清春にまで、容赦なく牙を剥いた。
「が、はっ……!?」
バチィィィンッ!!という激しい閃光と共に、清春の身体が、見えない巨大なハンマーで殴られたように弾き飛ばされた。
変身する間も与えられず、ただの人間の身体でその衝撃をもろに受けた清春は、数メートル後方の貯水タンクに背中から激突し、血を吐いて崩れ落ちた。
「キヨくんッ!?」
結衣が絶叫する。
自分の身体から放たれた正体不明の力が、バケモノを遠ざけたと同時に、一番守りたかったはずの清春を吹き飛ばし、傷つけてしまったのだ。
「あ、あぁ……。なんで……どうして……っ」
結衣は、血を流して倒れている清春を見て、頭を抱えてパニックに陥った。
そうだ。ずっとこうだった。
私が彼に近づけば、彼を想えば想うほど、私の周りの「呪い」は彼を排斥し、傷つけてしまう。
だから私は十年間、彼を避けて孤独を選んできたのだ。
なのに、今、私はまた彼を傷つけてしまった。
自分が呪われたバケモノの餌であるという事実以上に。自分の存在そのものが、愛する幼馴染の命を削っているという絶望が、結衣の心を完全に打ち砕いた。
「……ぐ、ぅ……結衣、逃げ、ろ……」
清春が、口から血を流し、薄れゆく意識の中で必死に腕を伸ばそうとする。
肋骨が何本か折れているかもしれない。肺が潰れたように呼吸が苦しく、指先一つ動かすのにも激痛が走る。
自分の刻んだ呪いが、自分自身を弾き飛ばした。その皮肉と無力さに、清春は絶望的な歯痒さを噛み締めた。
「ウオォォォォォォォォォッ!! オノレ、オノレェェェェッ!!」
上空で、腕を弾かれた大妖怪が、怒りと食欲で完全に狂乱の態を成していた。
狙った獲物に予想外の反撃を受け、その執着はさらにドロドロと醜悪なものへと煮詰まっている。
「ニガサン。……絶対ニ、ニガサンゾォォォッ!!」
大妖怪の無数の赤い目玉が、ギョロリと結衣を睨み下ろす。
次の瞬間、大妖怪の周囲の空間が、泥のようにドロドロと溶け始めた。
空を覆っていた赤黒い渦が、巨大なドーム状に変形し、学園の屋上全体を、あるいは結衣という存在そのものを、外の世界から完全に隔離するように包み込み始めたのだ。
『マスター!! 大妖怪が『異界』の形成を開始しました!』
シキの警告が、再び清春の脳内に響き渡る。
『先ほどの結衣の抵抗(威嚇印の暴走)を受け、大妖怪は力任せの捕食を諦めました。……代わりに、獲物を決して逃がさないための『絶対的な密室』を作り出し、その中でじっくりと嬲り、消化するつもりです!』
「異界……!」
『空間の位相が現実世界から切り離されていきます。このまま異界のドームが完全に閉じれば、内側の空間は物理法則が通用しない、大妖怪の胃袋そのものと化します。……急いでください、完全に閉ざされる前に、マスターも彼女の元へ!』
ドロドロと溶け落ちる赤い空間の壁が、結衣の周囲を囲い込むように降り注いでくる。
それは結衣を外界から切り離し、永遠の絶望へと閉じ込めるための、血に塗れた檻だった。
「……結衣ッ! こっちに来い! 俺の手を……っ!」
清春は、折れた肋骨の痛みに耐え、地面を這いずるようにして結衣に向かって手を伸ばした。
だが。
結衣は、清春の方へと手を伸ばすことはなかった。
彼女は、血を流してこちらに這ってくる清春の痛々しい姿を、深く、哀しげな目で見つめていた。
(……キヨくんは、私の呪いのせいでこんなに傷ついてる。……これ以上、キヨくんを巻き込んじゃいけない)
結衣の心の中で、一つの悲壮な決意が固まった。
自分がこのまま清春に縋れば、あのバケモノの異界に、清春ごと引きずり込むことになってしまう。
ならば。
私が囮になって、私一人でこの檻の中に取り残されればいい。
私の中に染み付いた「極上の匂い」ごと、あのバケモノの胃袋に消化されれば、清春は助かるのだから。
「……ごめんね、キヨくん」
結衣は、ゆっくりと立ち上がり。
清春から遠ざかるように、自ら降り注ぐ赤い異界の壁の中心へと歩みを進めた。
「待て! 何やってるんだ結衣! 戻れェッ!!」
清春の悲痛な叫び声が、屋上に木霊する。
しかし、結衣はもう振り返らなかった。
彼女の細い背中が、どす黒い異界の闇の中に溶けていく。
自らを犠牲にして愛する幼馴染を守るという、あまりにも悲しく、そして残酷な決断。
極上のディナーを巡る大妖怪の宴は、結衣という一人の少女を絶望の密室に閉じ込めるという、最悪のフェーズへと移行しようとしていた。




