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第40話:シキの解析「彼女には既に『最恐のマーキング』が存在します」



 オレンジ色の夕闇が、学園の屋上を不吉なまでの濃淡で塗りつぶしていた。

 吹き抜ける風は冷たく、どこか鉄錆のような匂いを孕んでいる。


 屋上のフェンスに寄りかかり、遠くの街並みを見つめる水無月結衣の背中は、夕日に溶けそうなほどに細く、そして近づくことを拒絶するように硬く強張っていた。


「……何の用。……用がないなら、早く帰って。……そこは、私の場所じゃないけど。……あなたの居場所でもないはずよ」


 結衣は振り返ることもなく、氷のような声で清春を突き放した。

 一文字一文字が、鋭い氷の礫となって清春の胸を打つ。

 かつての彼女なら、清春が姿を見せるだけで太陽のような笑顔で駆け寄ってきたはずだ。そのギャップが、清春の胃を物理的な痛みで締め上げる。


「……結衣。昼間の、あの階段でのことだけど」


「……知らないわ。あんなの、いつものことよ。……私が、呪われてるだけ。……近づくから、あんなことになるの。……自業自得よ、みんな」


 結衣は自嘲するように小さく笑った。その笑い声には、生気も、自分を憐れむ心さえも残っていない。

 ただ、長い年月をかけて降り積もった絶望が、地層のように彼女の心を覆い隠している。


 清春は、そんな彼女の背中に一歩近づこうとした。

 だが、その瞬間。


 ドクンッ!!


 清春の心臓が、警告を鳴らすように激しく脈打った。

 それと同時に、結衣の周囲の空気が、まるで熱されたアスファルトのように不気味に陽炎を上げた。

 鼻を突くのは、清春がよく知る「白鐘の姫」の匂い。

 しかし、今の清春から漂っているものではない。

 結衣の魂そのものから、ヘドロのように染み出している、古く、呪われ、歪みきった「支配の残り香」だ。


『――マスター。これ以上の接近は危険です。現在のあなたにはまだ「白鐘の姫」としての完全な防護が展開されていません。迂闊に踏み込めば、彼女を起点とした「排除行動」の対象となります』


 制服のポケットから、シキの冷徹な合成音声が脳内に響く。

 清春は足を止め、スマートフォンを握りしめた。


(……シキ。結衣に何が起きてる。……あの匂いは、一体何なんだ)


『解析結果を報告します。……およそ十年前。マスターが幼少期の頃、あなたの中に封印されていた『白鐘の姫』の妖力が、何らかの強烈な感情――おそらくは「彼女を独占したい」「自分だけのものにしたい」という原始的な欲望に呼応し、微かに漏れ出した瞬間がありました』


 シキの言葉に、清春の脳裏に古い記憶の断片がフラッシュバックした。

 公園の砂場。結衣が他の男の子と仲良く話しているのを見て、子供心に感じた、焼け付くような嫉妬と焦燥感。

 あの時、自分の指先から黒い霧のようなものが結衣の背中に吸い込まれていったような、朧げな映像。


『その際、マスターは無自覚のうちに、水無月結衣に対して「所有権の主張」……すなわち、『大蛇の威嚇印だいじゃのいかくいん』と呼ばれる最恐のマーキングを施してしまったのです』


(……威嚇印……?)


『はい。これは八束綾や波澄澪に施した「救済のための上書き」とは根本的に性質が異なります。……主が「これは自分の獲物である」と世界に宣言し、獲物に近づこうとする他の生物、精霊、あるいは悪意ある存在を物理的に排除するための、攻撃的な防衛システムです』


 シキの解説が、残酷なまでに事細かに、結衣を縛り続けてきた地獄の正体を解き明かしていく。


『このマーキングは、主であるあなたが側にいない間、対象(結衣)を守るために発動し続けます。……具体的には、彼女に一定以上の親愛、あるいは劣情を抱いて物理的に接近した他者の足元を狂わせ、平衡感覚を奪い、空間を歪めて転倒や事故を誘発させます。……昼間の階段での出来事は、まさにその典型的な発動例です』


「……っ、そんな……。じゃあ、結衣の周りで起きてた事故は、全部、俺のせいだったのか?」


『はい。正確には、十年前のあなたの「独占欲」が生み出した、終わりのない呪いです。……そして、最も絶望的な点は、このマーキングが対象の「孤独」を糧に肥大化するという特性にあります』


 シキの声には、感情がない。それゆえに、事実としての重みが清春を押し潰そうとする。


『十年間。彼女は誰とも友情を育めず、誰からも愛されず、常に恐怖と蔑みの対象として扱われてきました。……彼女が誰かに心を開こうとするたび、あなたの刻んだ「呪い」がそれを叩き潰してきたのです。……その絶え間ない孤独の中で、結衣自身の魂は『白鐘の姫』の匂いにじっくりと、芯まで漬け込まれました。……もはや彼女自身、その呪縛なしでは生きられないほどに変質してしまっているのです』


 清春は、目の前が真っ暗になるのを感じた。

 事なかれ主義。自分だけは平穏でいたい。そんな自己満足の裏側で。

 自分のせいで、一人の少女の人生が、本来謳歌すべきはずだった青春のすべてが、十年という気が遠くなるような時間の間、冷たく暗い牢獄の中に閉じ込められていた。


 彼女が俺を避け始めた理由。

 それは俺を嫌いになったからではない。

 俺の近くにいると、この不気味な現象がさらに激化し、いつか俺自身をも傷つけてしまうのではないかと、彼女なりに察知していたからだ。

 彼女は自分一人が孤独になることで、自分を呪った主(清春)を守ろうとしたのだ。


「……結衣」


 清春の声が震える。

 後悔。慚愧。怒り。

 様々な感情が混ざり合い、清春の体内で妖力と結びついて激しく渦巻く。


「……何よ。……話すことなんて、何もないって言ったはずよ」


 結衣がようやくこちらを向いた。

 その瞳には、かつて太陽のように笑っていた面影は微塵もない。

 ただ、濁った夕日の光を跳ね返す、死んだ魚のような、空虚で冷え切った色だけが宿っていた。

 彼女の白い首筋には、普通の人間の目には見えない、どす黒い大蛇が巻き付いているような幻影が、清春にははっきりと見えた。


「……ごめん。……本当に、ごめん、結衣……っ」


「……謝られる筋合いなんて、ないわ。……私はただ、呪われてるだけ。……キヨくんには、関係ない。……あなたは、あの子たちと、仲良くしてればいいの。……私のことなんて、忘れて」


 結衣はそう言い捨てると、清春を避けるようにして屋上の出口へと歩き出した。

 その足取りは重く、まるで目に見えない鉄球を引きずっているかのようだった。


 すれ違いざま。

 むせ返るような、清姫(自分)の匂いが鼻を突く。

 それは八束綾たちが放つ「陶酔」の匂いではなく、長い年月をかけて腐敗し、怨念へと変質したような、醜悪なまでの執着の残り香だった。


『……マスター。不穏な霊的波動を検知しました。……やはり、予感は的中したようです』


 シキの声が、一段と低く沈んだ。


「何だ。……これ以上、何がある」


『結衣の中に熟成された「十年物の姫の残り香」。……それは今、学園外に潜む、ある「強大な捕食者」にとって、存在を隠しきれないほどの極上の芳香を放ち始めています。……先ほど結衣の感情が激しく揺れ動いたことで、その香りの封印が完全に決壊しました』


 シキがそう告げた、その刹那だった。


 学園の上空を覆っていた夕焼けが、まるで血を流すようにドス黒く変色し始めた。

 空気が急激に重くなり、鼓膜を圧迫するような低い重低音が、空間全体から響き渡る。


 屋上のフェンスがギシギシと悲鳴を上げ、校舎全体が身震いするように細かく揺れている。


「……、……っ!?」


 歩き去ろうとしていた結衣が、足を止め、恐怖に顔を歪ませて空を見上げた。


 空に、巨大な「穴」が開こうとしていた。

 暗雲を渦巻かせて開くその穴は、まるでこの世のものではない異界へと通じているかのようだった。

 そこから漏れ出してきたのは、清春がこれまでに戦ってきた怪異とは一線を画す、圧倒的なまでの『質量』を伴った殺意と食欲。


『……警告します。外部より、超特大級の大妖怪の侵入を確認。……狙いは、水無月結衣。……彼女の魂に蓄積された「姫の妖力」を喰らうため、次元の壁を食い破って現れました』


「……っ! あんなのが、結衣を狙ってるのか……!?」


 清春は、空に開いた地獄のような光景を見て、全身の毛が逆立つのを感じた。

 学園の霊的バランスが崩壊したことで、かつては学園内に手を出せなかった「外の世界のバケモノ」が、結衣という極上の獲物を嗅ぎつけて、ついに禁忌を侵して現れたのだ。


「……あ、……あぁ……」


 結衣は、あまりのプレッシャーに腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

 彼女の魂に刻まれた『威嚇印』が、自分よりも遥かに上位の捕食者を前にして、恐怖のあまり狂ったように暴走を始めている。

 彼女の背中から、黒い霧のような瘴気が溢れ出し、周囲のコンクリートをドロドロに溶かしていく。


「結衣!!」


 清春が叫び、駆け寄ろうとする。


 だが。

 上空の穴から、巨大な「何か」が、ゆっくりと、しかし確実にその悍ましい姿を現し始めていた。


 ――アマイ。……アマイ、アマイ、アマイ……ッ!!

 ――コノ匂イ……。最高ノ、ディナーダ……ッ!!


 天を裂くような、不快な鳴き声。

 それは、平穏という名の虚飾を完全に剥ぎ取り、学園を地獄の食卓へと変える、終焉のファンファーレだった。


 結衣は、震える手で顔を覆い、子供のように蹲った。

 救いようのない孤独な十年間。

 その最期に待っていたのが、愛する人の腕の中ではなく、化け物の胃袋だという非情な現実。


 清春は、激しく揺れる屋上で、空の怪異を睨みつけた。

 自分自身が犯した、十年分の過ち。

 それを精算するための時間は、もう、一秒も残されていなかった。


『マスター。決断を。……人間の姿のままでは、彼女を守るどころか、あなた自身が塵も残さず噛み砕かれます』


「……分かってるよ。……もう、迷わない」


 清春の右手に、かつてないほどの激しい『白銀の魔力』が収束していく。


 救済ではない。

 これは、奪還だ。

 俺が壊し、俺が呪い、俺が孤独に突き落とした一人の少女を。

 運命という名の理不尽から、強引に奪い返すための。

 日高清春の、そして『白鐘の姫』としての、本当の戦いがここから始まる。


 

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