第39話:結衣を避ける生徒たちと、彼女の孤立
ガラン、と。
無機質な音を立てて、水無月結衣の箸がプラスチックの弁当箱の底を叩いた。
昼休みの屋上へと続く、薄暗い階段の踊り場。
華やかな笑い声が響く教室とは対照的に、そこには結衣一人分の存在を許容するだけの、冷たく乾いた空気だけが漂っていた。
彼女の膝の上には、彩りの乏しい、自分で作ったであろう質素な弁当が置かれている。一口、また一口と、彼女は感情を殺したまま食事を胃に流し込んでいた。
ふと、結衣は自分の右手を見つめた。
白く、透き通るような指先。だが、その肌の奥底には、彼女にしか感じることのできない「不快な重み」が沈殿している。
(……今日も、誰も近づいてこない。それでいい。それが、いい)
結衣は自嘲するように目を伏せ、黒い髪の隙間から、遠くに広がる街並みを眺めた。
彼女は知っている。自分の周囲には、見えない「壁」が存在することを。
それは彼女自身の意思ではなく、彼女の魂の奥底に棲み着き、何年も前から彼女の人生を食い潰し続けている『化け物』が張った、絶対的な捕食者の縄張り。
彼女に近づこうとする者。彼女に好意を向けようとする者。
そのすべてを「外敵」と見なし、物理的な暴力をもって排除する、最悪の守護。
かつて、彼女はこの現象を自分の幸運だと信じようとしたこともあった。嫌な相手を近づけない、不思議な力なのだと。
だが、その力が自分にとって最も大切な存在――日高清春にまで牙を剥きかけたと知った日から、彼女の日常は地獄へと変わった。
――『水無月さん! あ、あのさ……っ』
不意に、階下から慌ただしい足音が聞こえ、一人の男子生徒が踊り場へと姿を現した。
結衣のクラスメイトである、名前もよく知らない活発そうな少年だ。彼は真っ赤な顔をして、両手に手紙のようなものを持っていた。
「……何」
結衣は食事の手を止め、氷のような冷たい視線を少年に向けた。
彼女の防衛本能が、警報を鳴らしている。来るな。私に構うな。死にたくなければ、今すぐその足を止めて立ち去れ。
結衣の心の中の叫びは、しかし言葉となって出ることはなかった。ここで彼を優しく突き放せば、かえって彼は期待を抱き、さらなる悲劇を招くことを、彼女は嫌というほど学んでいたからだ。
「これ、読んでほしいんだ! 俺、ずっと前から水無月さんのことが……!」
「……興味ない。捨てておいて」
結衣は無機質な声で切り捨て、再び弁当に視線を戻した。
だが、少年は諦めなかった。彼は結衣の冷たさを「照れ」か「ガードの固さ」だと誤認し、あろうことか、結衣との距離を詰めるために一歩、階段を駆け上がってきた。
「待ってくれ! 返事は今じゃなくていいから……っ!」
その瞬間だった。
ドクンッ!!
結衣の魂の奥底、何年も前から眠っていた『大蛇の威嚇印』が、猛烈な勢いで拍動した。
結衣の鼻腔に、むせ返るような、冷たくて甘い匂いが充満する。
(……やめて。お願い、やめて……っ!!)
結衣の悲痛な祈りも虚しく、現象は無慈悲に引き起こされた。
少年の足元で、不自然な「歪み」が生じた。
誰かが足をかけたわけでも、床が滑りやすかったわけでもない。
ただ、彼の足が、何かに無理やり後ろへ引かれたかのように、宙を空回りした。
「え……? うわ、うわあぁぁぁぁぁっ!!」
バランスを崩した少年が、踊り場の縁から、急な階段へと背中から転げ落ちていく。
ガツン、ゴト、ベキッ。
生々しい、骨とコンクリートがぶつかり合う音が静かな校舎に響き渡った。
階段の一番下まで転がり落ちた少年は、不自然な方向に曲がった右腕を押さえ、顔面蒼白になって絶叫した。
「い、痛え……! 痛えよおぉぉぉっ!! なんだよ今の、誰かに押された……っ!?」
彼の悲鳴を聞きつけ、廊下から他の生徒たちが次々と集まってくる。
階段の上で、弁当箱を持ったまま立ち尽くす結衣。
そして階段の下で、無惨に負傷し、恐怖に震える少年。
「……まただ。また水無月さんの近くで……」
「あいつに近づくと呪われるって、本当だったんだ……」
「こえーよ、今の……誰もいなかったのに、いきなり滑ったぞ」
生徒たちの囁き声が、結衣の耳を容赦なく刺す。
蔑みの視線。恐怖の視線。
それは彼女にとって、もう何年も前から浴び続けている「日常」の光景だった。
結衣は、一言の弁解もしなかった。
大丈夫か、と声をかけることもなかった。
ただ、冷たい仮面を被ったまま、立ち尽くす生徒たちの間をすり抜け、無言でその場を立ち去った。
彼女が背中を向けて歩き出すと、生徒たちはモーゼの十戒のように、彼女を避けて大きな道を作った。
誰も彼女を呼び止めない。誰も彼女の真意を疑わない。
水無月結衣は、呪われた、冷酷な女。
その評価が、学園の中でさらに強固な真実へと塗り替えられた瞬間だった。
◆
放課後。
清春は、旧校舎の裏庭にある古びたベンチに座り、シキの解析データを眺めていた。
『――マスター。先ほど三階の階段で起きた事故。……解析の結果、間違いなく『大蛇の威嚇印』による物理的干渉であることが確定しました』
シキの無機質な音声が、清春の心に重くのしかかる。
「……あぁ。俺も、遠くからあの不快な匂い(姫の気配)を感じたよ」
清春は、自らの髪を乱暴にかき上げた。
あの階段での騒ぎ。駆けつけた時には、怪我をした少年が運ばれた後だったが、そこには清春が変身した時に放つ匂いに酷く似た、それでいてもっと「どす黒く、冷酷な拒絶の意志」が色濃く残っていた。
『水無月結衣に刻まれたマーキングは、主であるあなたの現在の意志とは無関係に、「彼女の所有権」を主張し続けています。彼女が誰かと心を通わせようとすればするほど、あるいは他者が彼女に執着すればするほど、呪いはその対象を排除しようと牙を剥く』
「……最悪だ」
清春は、吐き捨てるように言った。
自分の救いたい、守りたいという意志の裏側で。自分自身の中に眠る怪異の力が、最も守るべき人を世界から切り離し、孤独という牢獄に閉じ込めている。
これでは、俺が彼女を救っているどころか、俺自身が彼女を一番苦しめている化け物そのものではないか。
『そしてマスター。彼女自身の行動履歴についても解析を深めました。……彼女は、自ら孤立の道を選んでいます。中等部の頃、あなたが不用意に彼女に近づいた際、不自然な突風であなたが転倒し、全治一ヶ月の怪我を負った事件がありましたね』
「……あぁ、あったな。あれが、結衣が俺を本格的に避け始めたきっかけだったのか?」
『可能性は極めて高い。彼女はその時、自分のそばにいることがあなたを傷つけることになると悟ったのでしょう。……彼女は、あなたを守るために、あなたを嫌い、遠ざけ、そして自分自身が「呪われた女」として学園中から蔑まれる道を選んだのです』
清春の心臓が、ギリりと締め付けられる。
あの冷たい瞳の裏に、どれほどの悲しみがあったのか。
自分に話しかけてくる清春を、突き放し、無視し、冷たい言葉で追い払うたびに。
彼女は、どれほど自分の心を殺して、一人で泣いていたのか。
「……結衣は、今、どこにいる?」
『屋上です。……そこは彼女にとって、誰にも邪魔されず、そして誰にも「迷惑をかけない」唯一の場所ですから』
清春は、シキの答えを聞くやいなや、ベンチを蹴って駆け出した。
◆
屋上のフェンスに寄りかかり、結衣は沈みゆく夕日を眺めていた。
オレンジ色の光が、彼女の白い肌を妖しく照らし出している。
昼間の事故。
あの少年は、きっともう二度と私に近づかないだろう。
それでいい。これ以上、私のせいで誰かが傷つくのは見たくない。
たとえ、私が世界中の誰からも愛されず、一人きりで朽ち果てていくことになったとしても。
「……キヨくん。……ごめんね」
誰もいない屋上に、結衣の微かな呟きが漏れる。
彼女の脳裏に浮かぶのは、いつも周囲の女の子たちに囲まれて、困ったように笑っている清春の姿だ。
本当なら、あそこにいたい。あの温かい匂いの中に、帰りたい。
でも、私があそこに近づけば、あの穏やかな日常を、私の呪いがすべて壊してしまう。
だから、私は一生、あそこには戻らない。
結衣が、ぎゅっと自分の胸元を掴んだ、その時。
バタンッ!!
屋上へと続く重い扉が、乱暴に開かれた。
「……っ!?」
結衣が弾かれたように振り返ると、そこには、肩で息をしながら立ち尽くす日高清春の姿があった。
「……何。ここは、立ち入り禁止のはずだけど」
結衣は、瞬時にいつもの「氷の仮面」を被った。
冷たい視線。突き放すような言葉。
心臓は早鐘を打っているが、彼女はそれを微塵も見せない。
早く行って。私に構わないで。そう祈りながら、彼女は清春を睨みつけた。
「……話があるんだ、結衣」




