第38話:冷たい幼馴染だけが、遠くにいる
騒がしい昼休みの教室。
日高清春は、自分の席に座り、ただ無表情に窓の外を流れる雲を見つめていた。
「キヨっち! 購買で新作のメロンパン買ってきたよ! はい、あーんして!」
「……だめ。清春くんの隣は、私。……猫宮さんは、そこから動かないで」
「お二人とも! 清春様の御前で騒ぎ立てるとは不敬極まりない! さぁ清春様、私が今朝手作りした神聖なるお弁当をどうぞ……っ!」
清春の机の周囲は、今日も今日とて学園を代表する三人の美少女たちによって完全に包囲されていた。
甘い香水の匂いと、三者三様の重すぎる愛情が渦巻く極小の修羅場。
周囲の男子生徒たちからは、羨望と嫉妬がドロドロに混ざった血走った視線が突き刺さっている。
事なかれ主義。
目立たず、波風を立てず、ただ息を潜めて卒業までの日々をやり過ごすはずだった、俺の完璧な高校生活。
それがどうして、こんなことになってしまったのか。
清春は、三人のヒロインたちが自分の袖やエプロンを引っ張り合うのを諦めたように放置しながら、心の中で深く、重い溜息を吐き出した。
(……俺が、あいつらをこんな風にしてしまったんだ)
吸精鬼の群れから八束綾を。特級怨霊から猫宮珠希を。プールの水妖から波澄澪を。
彼女たちの命を救うため、俺は自分の中に眠る大妖怪『白鐘の姫』の力を解放した。そして、怪異の呪いや毒から彼女たちを引き剥がすための強引な解呪——ディープキスによる「マーキング」を行った。
その結果、彼女たちの魂には、最恐の捕食者である姫の圧倒的なフェロモンが一生消えない傷(呪縛)として刻み込まれてしまった。
極上のマタタビを直接脳に打ち込まれたも同然の彼女たちは、もはや清春の匂いなしでは正気を保てないほどの依存状態に陥っている。
(俺は、良かれと思ってやった。……でも、本当にそうだったのか?)
清春は、窓から視線を外し、自らの手のひらを見つめた。
昨日。二階の渡り廊下で、一人の少女とすれ違った。
水無月結衣。清春の、幼馴染だった少女。
すれ違った瞬間、俺の中の『白鐘の姫』が鋭く反応し、結衣から「姫自身の古い匂い」がすると告げた。そしてシキは、結衣の魂の奥底に、何年も前から『大蛇の威嚇印』という最恐のマーキングが刻み込まれている可能性を指摘した。
その事実が、昨日から清春の心臓に、氷の杭のように冷たく突き刺さったまま抜けないのだ。
「……ちょっと、手洗いに行ってくる」
「あ、清春くん? 待って、一緒に行く……」
「ずるい八束さん! あたしも行く!」
「お供いたします、清春様!」
「お前らは教室で待ってろ!!」
清春は、立ち上がろうとする三人を手で制し、半ば逃げるようにして教室を飛び出した。
◆
賑わう廊下を避け、清春は人気のない旧校舎側の階段の踊り場へと足を向けた。
ここは日当たりが悪く、生徒があまり寄り付かない。今の清春にとって、誰の視線も、むせ返るような香水の匂いもない場所は、貴重な避難所だった。
冷たいコンクリートの壁に背中を預け、ずるずるとしゃがみ込む。
「……結衣」
誰もいない空間に、ぽつりとその名前を落とす。
水無月結衣。
今でこそ、彼女は「氷の美少女」などと呼ばれ、誰に対しても感情を見せず、周囲から孤立して冷たく咲く高嶺の花のように扱われている。
だが、俺の記憶の中にある彼女は、あんな冷たい少女ではなかった。
——『キヨくん! はやくはやく! あっちに面白い虫がいるよ!』
小学生の頃の結衣は、いつも太陽のように笑っていた。
ショートカットの髪を揺らしながら、泥だらけの靴で公園を駆け回り、大人しくて引っ込み思案だった清春の手を強引に引いて、いろんな場所へと連れ出してくれた。
活発で、少しおせっかいで、でも誰よりも優しかった。
清春が転んで膝を擦りむいた時は、自分の服の裾で血を拭ってくれ、一緒に泣いてくれた。
清春が初めてお菓子作りに挑戦し、焦げてカチカチになったクッキーを作ってしまった時も、彼女だけは『おいしい! キヨくんは天才だね!』と、満面の笑みで全部食べてくれた。
ずっと、一緒にいるのが当たり前だった。
このまま中学生になっても、高校生になっても、彼女の隣には自分がいて、他愛のないことで笑い合えるのだと、無邪気に信じていた。
だが、その当たり前の日常は、中学生に上がったある時期を境に、音を立てて崩れ去った。
——『……話しかけないで。私に、近づかないで』
ある日突然、結衣の態度は氷のように冷たくなった。
朝、迎えに行っても無視された。学校で話しかけても、怯えたような、あるいは激しく拒絶するような目で睨みつけられ、足早に立ち去られた。
最初は、何か怒らせるようなことをしてしまったのかと思い、何度も理由を聞こうとした。謝ろうとした。
しかし、結衣は決して理由を話そうとはせず、ただ清春との距離を徹底的に遠ざけるようになったのだ。
時を同じくして、彼女の髪は伸ばしっぱなしの黒髪になり、その顔からあの太陽のような笑顔は完全に失われた。
そして、彼女の周囲で「奇妙な噂」が囁かれるようになったのも、その頃からだった。
——『水無月さんに告白しようとしたら、階段から突き落とされたみたいに転げ落ちて骨折したらしいぜ』
——『あの子に近づくと、不自然な事故に遭うんだって。呪われてるんじゃない?』
——『気味が悪いよな。関わらない方がいいぜ』
実際、彼女に好意を持って近づこうとした男子生徒や、親しくしようとした女子生徒たちが、次々と原因不明の事故に見舞われた。
誰もいない場所で突然転倒したり、頭上から物が落ちてきたり。
それはまるで、見えない「何か」が、結衣の周囲に強力な防護壁を張り巡らし、近づく者を物理的に排除しているかのような、異様な現象だった。
結果として、結衣は「呪われた少女」として学園中から忌み嫌われ、完全に孤立した。
それでも彼女は、誰に助けを求めることもなく、一人でその孤独を受け入れているように見えた。
清春は、そんな彼女を遠くから見つめることしかできなかった。
話しかければ拒絶される。
当時の清春は、ただの無力な少年だった。自分の幼馴染が孤独に沈んでいくのを、事なかれ主義という見栄のいい言葉で正当化し、見て見ぬふりをしてしまったのだ。
「……俺は、最低の幼馴染だ。嫌われて当然なんだよな」
清春は、両手で顔を覆い、自嘲するように呟いた。
だが。
もし、その彼女の「拒絶」と「孤独」の根本的な原因が、他でもない『俺自身』にあったとしたら?
『マスター。過去の記憶の照合と、現在の霊力波形の分析結果を統合しました』
制服のポケットから、シキの無機質な声が静かに響いた。
清春は、心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えながら、スマートフォンを取り出した。
「……なんだ、シキ。何が分かったんだ」
『水無月結衣の魂に刻まれたマーキング……『大蛇の威嚇印』の性質についてです。このマーキングは、対象者に快楽や依存を植え付けるものではありません。対象の魂に「これは私の所有物である」という強烈な警告の匂いを染み込ませる、非常に原始的で凶悪な呪縛です』
シキの言葉が、淡々と、しかし残酷に真実を紡ぎ出していく。
『このマーキングが刻まれた対象の周囲には、大妖怪の無意識のテリトリーが形成されます。そして、その対象に好意や悪意を持って近づこうとする他者……つまり「外敵」を感知すると、マーキングの呪いが自動的に発動し、物理的な排斥行動を起こします。……それが、彼女の周囲で起きていた「不自然な事故」の正体です』
「……っ!」
清春の呼吸が、ヒュッと止まった。
『恐らく、マスターが中学生の頃。あなたの中に眠る『白鐘の姫』の力が、何らかの理由で一瞬だけ覚醒し、最も身近にいた水無月結衣に対して、無自覚に「所有の刻印」を打ち込んでしまったのでしょう。……ええ、文字通りの『呪い』です』
「俺が……俺のせいで、結衣の周りの奴らが怪我をしてたって言うのか……?」
『はい。そして、ここからが最も重要なポイントです』
シキの音声が、ほんの少しだけ、人間的な同情を含んだように低くなった。
『彼女は、あなたにマーキングされたその瞬間から、自分の周囲で起きる不幸の原因が「自分に憑いた呪い」であると自覚していたはずです。……そして彼女は、その呪いが「あなた(清春)」にまで牙を剥くことを恐れた』
「……え?」
『もし自分が清春に近づけば、清春まで事故に巻き込まれて怪我をしてしまう。……だから彼女は、あなたを守るために、自ら「あなたを拒絶し、遠ざける」という道を選んだのです。氷のように冷たい態度をとって、あなたが二度と自分に近づかないように』
ガツン、と。
ハンマーで頭を殴られたような衝撃が、清春の全身を貫いた。
結衣が、俺を避けていた理由。
それは、俺を嫌いになったからじゃなかった。俺のことが鬱陶しくなったからでもなかった。
彼女は、俺が刻んだ「化け物の呪い」から、俺自身を守るために。
自ら悪者になり、周囲からの孤立という地獄を、たった一人で引き受けていたのだ。
「あ、あぁ……」
清春の喉から、掠れた、情けない声が漏れた。
なんてことだ。
俺は、事なかれ主義だなんだと理由をつけて、一番大切な幼馴染から逃げ回っていた。
彼女がどんな思いで、俺に対して冷たい視線を向けていたのか。
遠くから、綾や珠希たちに囲まれて笑っている俺を見る彼女の瞳が、どれほど深く傷つき、孤独に凍えきっていたのか。
想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。
胃の痛みなどとは比べ物にならない、魂そのものを削り取られるような激しい後悔と自己嫌悪。
——『ねぇ、キヨくん。ずっと、一緒にいようね』
泥だらけの笑顔でそう言ってくれた少女を、俺の中の化け物が、何年も前から徹底的に蹂躙し、絶望の底に突き落としていたのだ。
「……シキ。その呪いは、解けるのか」
清春は、震える両手を強く握り締め、床を睨みつけたまま問いかけた。
『理論上は可能です。大蛇の威嚇印を解除するには、それと同等、あるいはそれ以上の強烈な妖力によって、「これは私の所有物ではない」と上書きするか、あるいは……「正しい形での隷属印」へと完全に塗り替えるしかありません』
「……上書き」
『はい。ですが、現在のマスターの状況で彼女に接触するのは極めて危険です。なぜなら、学園の霊的バランスが崩壊した今、彼女に刻まれた『姫の古い匂い』は、外部からより凶悪な怪異を引き寄せる極上の誘蛾灯となっているからです。……彼女は今、学園内で最も危険な「生贄の的」になっています』
シキの冷酷な警告が響く。
俺が彼女を呪い、俺の力が彼女に災厄を呼び寄せようとしている。
もう、事なかれ主義なんて言っている場合じゃなかった。
これまでのヒロインたちを助けたのとは、わけが違う。これは、俺自身が犯した「罪」の精算なのだ。
「……絶対に、助ける。結衣を縛っている呪いも、群がってくる化け物も、俺が全部ぶっ壊してやる……っ」
清春の瞳に、これまでにない暗く、そして鋭い決意の光が宿る。
幼馴染の凍りついた時間を溶かし、その孤独な魂を救い出すため。
日高清春は、自らの中に眠る最恐の力(呪い)と、本当の意味で向き合う覚悟を決めたのであった。




