表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/65

第37話:不穏な気配。学園の霊的バランスの崩壊



「……あぁ、神よ。清春様が淹れてくださったこの紅茶は、もはや聖水です。一口含むだけで、昨夜水底で授かったあの『甘い毒』の記憶が蘇り、魂が浄化されていくようです……っ」


 放課後の家庭科室。

 西日が差し込む穏やかな空間で、水泳部のエースである波澄澪は、ティーカップを両手で恭しく持ち上げながら、恍惚とした表情で涙を流していた。


「……大袈裟すぎっしょ。ただの市販のティーバッグじゃん。それよりキヨっち、あたしのクッキーにはキヨっちの匂い、ちゃんと練り込んでくれた?」


 調理台の上に寝そべるようにしてクッキーを頬張る猫宮珠希が、不満げに口を尖らせる。

 彼女の尻尾代わりのルーズなカーディガンが、清春の背中をパタパタと叩いている。


「……猫宮さん、波澄さん。うるさい。……清春くんは今、私に一番美味しいマドレーヌを選んでくれてるんだから……邪魔しないで」


 清春の左腕にしっかりと抱きつき、離れる気配を見せない八束綾が、分厚い眼鏡の奥から二人をジロリと睨みつける。


 極度の男性恐怖症をねじ伏せる『依存』。

 化け猫の本能を剥き出しにする『発情』。

 命の恩人を神と崇める『狂信』。


 これが、現在の料理部の偽らざる日常風景だった。

 三つの異なるベクトルから放たれる重すぎる愛情(執着)が、狭い家庭科室の中でバチバチと火花を散らしながら、唯一の獲物である日高清春の『匂い』を求めて渦巻いている。


「お前らなぁ……。ここは料理部であって、俺の匂いを嗅ぐためのテイスティング会場じゃないんだぞ。もっと普通に、放課後のお茶会を楽しめないのか……?」


 清春は、胃の辺りを押さえながら、心底疲れ切った声で呟いた。

 毎日のように繰り広げられるこの三つ巴の牽制合戦。右を見ても左を見ても、そして足元を見ても、自分なしでは生きられない身体にされた少女たちが、隙あらば粘膜接触を図ろうと狙っている。

 男としての理性を保つだけで、すでに清春の体力と精神力は限界を迎えていた。


「「「清春くん(キヨっち/清春様)の匂いが一番のメインディッシュだから(です)!!」」」


 もはや様式美となった三人の見事なユニゾンによる反論を浴び、清春は完全に反論の気力を失って項垂れた。


 事なかれ主義。

 誰の記憶にも残らず、ただ平穏に高校生活を終えるはずだった、俺の完璧な擬態。

 それが、どうしてこんなことになってしまったのか。

 怪異から彼女たちを救った代償が、まさか彼女たち自身を「俺に依存する可愛いモンスター」へと変貌させてしまうことだとは、夢にも思わなかった。


 ――ふふっ。いい気味。

 ――私の毒に当てられた哀れな牝豚どもが、今日も這いつくばって私の残り香を求めているわ。たっぷり可愛がって、もっと深く調教してあげなさい。


 下腹部の奥底で、白鐘の姫のサディスティックな意識が、この修羅場を極上のエンターテインメントとして楽しんでいる。

 彼女たちをこんな風にしてしまった元凶は、お前だろうが。

 清春は心の中で姫に悪態をつきながら、ひたすらに時間が過ぎるのを待つしかなかった。



 ◆



 一時間後。

 「また明日、絶対に一番に匂い嗅ぎに来るからね!」という三者三様の重たい捨て台詞と共に、ようやくヒロインたちが帰路についた。


 誰もいなくなった家庭科室。

 清春は、窓を開けてむせ返るような香水とフェロモンの匂いを換気しながら、パイプ椅子に深く腰掛けた。


「……はぁ。やっと、一人になれた」


 静寂が、荒れ狂っていた清春の神経を少しずつ鎮めていく。

 だが、その静寂を破るように、エプロンのポケットからシキの無機質な音声が響いた。


『お疲れ様です、マスター。本日も無事に「生贄」としての役目を果たされましたね。……しかし、安堵している暇はありません。一つ、極めて深刻な報告があります』


「深刻な報告? なんだよ、また新しい怪異が出たって言うのか?」


 清春は、うんざりした顔でスマートフォンをテーブルに置いた。

 図書室の吸精鬼、旧校舎の特級怨霊、そしてプールの水妖。

 これだけ立て続けに厄介な化け物を処理したのだ。いくらなんでも、この学園の怪異のストックは底を突いたはずだ。


『ええ。ですが、問題は「学園内にいた怪異」ではありません。……「学園の外部」からの脅威です』


「外部……?」


『現在、この学園全体を覆う「霊的バランス」が、完全に崩壊しつつあります。原因は、マスターご自身の圧倒的な暴力……大妖怪『白鐘の姫』の妖力行使によるものです』


 シキの言葉に、清春は眉をひそめた。


「俺のせいだって言うのか? 俺は、あいつらを助けるために怪異を倒しただけだぞ」


『そこが問題なのです。マスターが消し飛ばした吸精鬼や特級怨霊、水妖といった怪異は、本来、この学園という土地の「陰の気」を吸収し、ある種の霊的な生態系を形成していました。……言わば、学園の霊脈に巣食う「常在菌」のようなものです』


「常在菌……」


『はい。それらの強力な怪異が、マスターの絶対零度によって短期間に「塵一つ残さず完全消滅」させられたことで、学園の霊脈に巨大な「空白地帯」が生まれました。……自然界は真空を嫌います。空いたテリトリーには、新たな捕食者が流れ込んでくるのが理です』


 シキの合成音声が、冷たく、そしてどこか警告のトーンを強めた。


『さらに致命的なのが、マスターが変身のたびに空間に撒き散らした『白鐘の姫』の妖力と匂いの残滓です。……生態系の頂点に君臨する神の残り香は、低級な怪異を怯えさせる一方で、遠く離れた土地に潜む「より巨大で凶悪な大妖怪」にとっては、極上の獲物がいることを知らせる強烈な『誘蛾灯』となってしまっているのです』


「……っ」


 清春の背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。

 自分が彼女たちを救うために振るった力。それが、結果としてこの学園という箱庭のバランスを破壊し、外の世界からより恐ろしい化け物たちを引き寄せる「狼煙」になってしまっていたというのか。


『すでに、学園の周囲の霊力波形に、不穏な乱れを複数検知しています。……退魔師の家系である生徒会長・御子柴天音も、この異常事態に気づき、裏で動き始めている気配があります』


「生徒会長が……」


 あの夜、旧校舎の怨霊結界の前で対峙した、金髪の誇り高き退魔師。

 彼女は、学園の風紀を守るだけでなく、裏の霊的な治安を維持する役割も担っている。彼女が本格的に動き出せば、清春の正体(不審な介入者)に辿り着くのも時間の問題かもしれない。


『マスター。事なかれ主義という見栄は、もう通用しません。あなたの匂いに引き寄せられた「本物の災厄」が、間もなくこの学園に押し寄せてきます。……その時、あなたが守るべきものは、三人の少女だけでは済まなくなるでしょう』


「……分かってるよ。俺が始めたことだ、最後までケツを拭くしかないんだろ……」


 清春は、夕焼けに染まる窓の外を見つめながら、重い溜息を吐き出した。

 平穏な日常は、もう完全に終わったのだ。

 これからは、自分が生み出した「呪い」と「匂い」の責任を、身をもって負い続けなければならない。



 ◆



 翌日の昼休み。

 清春は、購買部へのパンの買い出しの帰り道、二階の渡り廊下を歩いていた。


「あ……」


 前方から歩いてくる一人の少女の姿に、清春の足がピタリと止まる。


 腰まで届く、手入れの行き届いたストレートの黒髪。

 透き通るような白い肌と、整った、しかしひどく無表情で冷たい顔立ち。

 彼女の周囲だけ、まるで別次元のように静まり返っており、すれ違う生徒たちは皆、彼女を避けるようにして距離を取って歩いている。


 水無月みなづき 結衣ゆい


 清春の、幼馴染だった少女だ。

 小学生の頃は、あんなに無邪気に笑い、いつも清春の後ろを金魚のフンのようについて回っていたはずの彼女。

 だが、中学生になったある時期を境に、彼女は突然、清春に対して氷のように冷たい態度をとるようになり、周囲からも孤立するようになってしまった。


(……結衣)


 清春は、すれ違いざまに小さく声をかけようとした。


 だが、結衣は清春を一瞥することもなく、まるでそこに透明人間がいるかのように、完全に無視して通り過ぎようとした。

 その横顔は、冷酷なまでに整っており、感情の欠片も読み取れない。


 ――その時だった。


 ドクンッ!!


 すれ違った瞬間。

 清春の下腹部に眠る『白鐘の姫』の意識が、弾かれたように鋭く反応した。


 ――なによ、今の。


 姫の声が、かつてないほどの驚愕と、そして「嫌悪」に満ちて脳内に響いた。


(姫……? どうしたんだ、急に)


 ――あの娘。あの黒髪の小娘から……『私自身の匂い』がしたわ。


「……は?」


 清春は、思わず声に出して立ち止まり、結衣の後ろ姿を振り返った。


(お前の匂い……? そんなはずないだろ。俺が変身して結衣に接触したことなんて、一度もないぞ!)


 八束綾、猫宮珠希、波澄澪。

 その三人には、命を救うという名目で、姫の妖力を直接流し込むディープキス(マーキング)を行った。だから彼女たちから姫の甘い匂いがするのは当然だ。

 だが、結衣には何もしていない。

 そもそも、彼女とは中学以降、まともに会話すらしていないのだから。


 ――いいえ、間違いないわ。微弱だけれど、あの娘の魂の奥底には、間違いなく私の「所有印マーキング」が刻まれている。……しかも、昨日今日つけられたような新しいものじゃない。何年も、何年も前から、あの娘の魂を縛り付けて、じわじわと蝕んでいるような……とても古くて、呪いのように深く根を張ったマーキングよ。


「……何年も前から、だと……?」


 清春の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打った。


 何年も前。

 俺がまだ、自分の中に『白鐘の姫』が眠っていることすら知らなかった、幼い頃。

 あの頃の結衣との間に、何があったというのか。


『マスター。推測ですが……水無月結衣の周囲で不自然な事故が多発し、彼女が周囲から孤立している理由。そして、彼女があなたを避けるようになった理由。そのすべてが、その「古いマーキング」に起因している可能性があります』


 シキの冷徹な分析が、清春の脳裏に最悪のシナリオを突きつける。


(俺が……無自覚に、結衣を呪っていたって言うのか?)


 怪異からヒロインたちを救ってきたつもりが。

 一番身近にいた幼馴染を、自分自身の中に眠る化け物の力で、何年もの間、苦しめ続けていたとしたら。


 渡り廊下の先へと消えていく結衣の後ろ姿は、どこまでも孤独で、そして冷たかった。

 彼女の細い首筋の奥に、見えない『大蛇の牙跡』が刻み込まれていることを、清春の魂は確かに感じ取っていた。


 学園の霊的バランスの崩壊。

 外から引き寄せられる、巨大な災厄の気配。

 そして、幼馴染の凍りついた過去と、無自覚に刻まれた呪縛の真実。


 事なかれ主義の少年の平穏は、ついに音を立てて完全な崩壊を迎え。

 過去の罪を精算するための、最も残酷で、最も悲痛な『上書きの口づけ』の幕が、静かに、そして確実に開こうとしていた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ