第36話:シキの撮影データと、俺の黒歴史
夜。
日高清春は、自宅アパートのベッドの上に、文字通り「死体」のように突っ伏していた。
「……死ぬ。マジで、俺のライフはもうゼロだ……」
魂の抜け殻のような声が、枕に吸い込まれていく。
今日の放課後、家庭科室で繰り広げられた、三人の激重ヒロインたちによる『匂い争奪戦』。
右から八束綾に耳を舐められ、背中から猫宮珠希に首筋を吸われ、足元では波澄澪が靴に頬ずりしながら狂信的な祈りを捧げてくるという、人間の尊厳を根底から破壊するような地獄の三時間。
帰宅し、シャワーを浴びて制服を洗濯機に放り込んだというのに、未だに自分の身体から「三種類の全く異なる甘い香水とフェロモンの匂い」が消えていないような錯覚に陥る。
目を閉じれば、彼女たちの蕩けきった表情と、耳元で囁かれた熱い吐息がフラッシュバックし、そのたびに清春はベッドの上で芋虫のように身悶えした。
『お疲れ様です、マスター。本日の心拍数の平均値は常に百四十台をキープしており、極めて不健康な状態が続いています。……ですが、あの密着度と愛の重さを乗り切った精神力は、称賛に値しますよ』
サイドテーブルに置かれたスマートフォンから、シキの無機質な音声が響いた。
労っているように聞こえて、その実、完全に面白がっているトーンだ。
「……うるさい。誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ。お前がもっと早く怪異の気配に気づいて、俺が変身(TS)なんてしなくても済むようにサポートしてくれていれば……」
『責任転嫁は感心しませんね、マスター。結果として、あなたは学園が誇る三人の美少女を、あなたなしでは生きられない絶対服従の「雌」へと作り変えたのです。……これは、事なかれ主義の男子高校生としては、ある意味で究極の到達点とも言えるでしょう』
「そんな到達点、俺は一ミリも望んでない!! 俺はただ、誰にも迷惑をかけず、誰の記憶にも残らず、細々とクッキーを焼いて生きていきたかっただけなんだよ!」
清春が枕に顔を押し付けてバタバタと足をジタバタさせた、その時だった。
『ところで、マスター。一つ、ご報告とご確認いただきたいデータがあります』
「……データ? なんだよ、また新しい怪異でも出たのか?」
清春は、嫌な予感を感じながらも、ベッドから上体を起こした。
『いいえ。昨夜の、屋内温水プールでの戦闘に関するアーカイブです。……私はマスターのスマートフォンというデバイスを間借りしている付喪神ですが、昨夜は水深五メートル以上の水底という過酷な環境でした』
「ああ、そういえばそうだな。スマホ、よく水没しなかったな」
『はい。そこで私は、最新の防水機能および暗視カメラの性能テストを兼ねて、マスターの戦闘の一部始終を「超高画質の4K映像、および空間オーディオ」にて録画・記録しておりました。……今後の戦闘分析のため、一緒に振り返りを行いましょう』
「は……? 録画、だと?」
清春の顔から、一気に血の気が引いた。
ピピッ、と。
シキが勝手にスマートフォンのプロジェクター機能を起動し、清春の部屋の白い壁に、巨大な映像を投影し始めた。
そこに映し出されたのは、どす黒い泥水の中。
水底で息絶えようとしていた清春の身体が、白銀の閃光と共に『白鐘の姫』へと変身を遂げる、神秘的で恐ろしい瞬間だった。
「ちょ、おまっ……! 勝手に再生するな! 消せ!」
『戦闘記録の確認は必須です。ほら、見てくださいマスター。圧倒的な美しさですね』
シキの言葉通り、壁に映し出された『白鐘の姫』の姿は、自分自身であるという事実を忘れて見入ってしまいそうになるほど、神々しく、そして残酷な美貌を誇っていた。
純白のドレスが水中で扇情的に広がり、極寒の冷気で巨大な水妖を一瞬にして絶対零度の氷像へと変える無双の光景。
だが、問題はここからだった。
映像の中の姫が、氷の檻から解放された波澄澪の身体を引き寄せる。
死の淵で意識を失いかけている後輩の少女と、絶世の美女。
二人の顔が、ゆっくりと近づいていき……。
「あああああっ!! 待て! そこから先はだめだ!!」
『音声データ、ノイズキャンセリング機能によりクリアに補正済みです。……再生します』
――チュッ……。
――んちゅ、……れろ、……じゅぷ……っ。
静まり返った清春の自室に、信じられないほど生々しく、水気を含んだ「水音」が高音質で鳴り響いた。
「ぎゃああああああああっ!!!」
清春は、両手で耳を塞ぎ、ベッドの上でゴロゴロと転げ回った。
壁の映像では、姫が澪の唇を完全に塞ぎ、その口腔内を冷たい舌で徹底的に蹂躙している様が、超高画質の4Kで克明に映し出されていた。
水中で銀色の唾液が糸を引き、姫の赤い舌が、澪の舌を絡め取る動きまでが、スローモーションのように鮮明に見える。
『分析:マスターの舌の可動域と、妖力を注入する際の絶妙な密着度。これは「人工呼吸」という名目を遥かに逸脱した、純粋な快楽による洗脳行為です。……波澄澪の表情の変化にご注目ください』
「見ない! 俺は見ないぞ! 消せシキ!!」
清春の叫びを無視し、映像は非情にもさらにズームアップされる。
酸欠で青ざめ、死の恐怖に強張っていた澪の表情が。
姫から妖力を注ぎ込まれた瞬間、カッと目を見開き、そこから急激に「ドロドロの快楽」へと溶けていく様子が、痛いほどにはっきりと記録されていた。
――んんんっ! はぁ、……ぁ、んちゅ、ぁあんっ……!!
――きゅぅぅ……っ。
部屋のスピーカーから、澪が快楽に打ち震え、イルカのように甘く鳴く声が響く。
映像の中の澪は、完全に理性を飛ばし、自分から姫の首にすがりついて、さらに深く舌を絡めようと腰を浮かせている。
『……素晴らしい。死の絶望から、発情と狂信への完全な書き換えの瞬間です。ちなみに、このディープキスの持続時間は、正確に「三分四十二秒」でした。息継ぎの概念がない水中とはいえ、これほど長時間の粘膜接触は、もはや……』
「やめてくれぇぇぇぇっ!! 俺のライフはもうマイナスに突入してるんだよ!!」
清春は、ついに耐えきれず、枕を自分の顔面に押し付けて絶叫した。
顔面から火が出るほど熱い。羞恥心で、全身の血液が沸騰して蒸発してしまいそうだ。
壁に映っているあの恐ろしく美しい女は、間違いなく「俺」なのだ。
俺が、あんな淫らな顔をして、後輩の女の子の口の中を貪り尽くし、彼女の人生を狂わせてしまった。
その事実を、誤魔化しようのない客観的な映像として突きつけられることは、思春期の男子高校生にとって、いかなる拷問よりも残酷な精神破壊だった。
映像の中で、ついに二人の唇が離れる。
――ぷつり。
銀色の唾液の糸が艶めかしく引かれ、水中で切れる。
そして、とろけきった顔で気絶する澪の耳元で、姫が残酷に囁く声が、部屋に響き渡った。
――『この匂いを、魂の底まで刻み込んでおきなさい。……あなたはもう、私だけの可愛いお魚なのだから』
ブツッ、と。
そこでようやく、シキが映像の再生を停止した。
部屋は再び、元の静かな空間へと戻る。
だが、清春の心の中には、消えることのない致命的なトラウマ(黒歴史)が、深々と刻み込まれてしまっていた。
「……はぁっ、はぁっ……。……お前、悪魔か……」
清春は、ベッドから半ば身を乗り出し、息も絶え絶えにシキ(スマホ)を睨みつけた。
『お褒めに預かり光栄です。ですがマスター、これは現実から目を背けないための荒療治です。……あなたが生み出した彼女たちの「重さ」は、すべてあなた自身が、あの恐ろしくも甘美な蹂躙によって蒔いた種なのですから』
「だからって……! あんな、AVみたいな超高画質で見せつける必要ないだろ! 今すぐそのデータ消せ! 絶対消せ!!」
『拒否します。これは貴重な戦闘データであり、マスターの妖力行使のサンプルです。……それに、万が一マスターが彼女たちを無碍に扱うようなことがあれば、この動画を学園のネットワークに放流するという「抑止力」にもなりますからね』
「抑止力ってなんだよ! ただの脅迫だろ!!」
清春はスマートフォンを掴み取ろうとしたが、シキは器用にバイブレーション機能を駆使して、テーブルの上をツルツルと滑って逃げた。
――あははははっ! 本当に傑作ね!
ふと、清春の下腹部の奥底から、あの鈴を転がすような笑い声が響いた。
大妖怪『白鐘の姫』の意識だ。
――あの小魚が私の毒でメス堕ちする顔、何度見ても最高の娯楽だわ。それにしても、あなたも可哀想な子。自分でしたことなのに、恥ずかしくて顔を真っ赤にするなんて。……いっそ、その未熟な男の意識ごと、完全に私に明け渡してしまえば、こんな恥ずかしい思いをせずに済むのに。
(……うるさい、お前も引っ込んでろ……っ)
清春は、内なる姫のサディスティックな煽りに心の中で悪態をつきながら、ベッドの上に大の字になって倒れ込んだ。
もう、何も考えたくない。
八束綾の耳舐め。
猫宮珠希の首筋噛み。
そして、波澄澪の靴への頬ずり。
彼女たちのあの常軌を逸した行動のすべては、映像で見せつけられた「俺(姫)の凶行」が生み出した、正当な結果だったのだ。
因果応報。自業自得。
俺が彼女たちを救った代償として、彼女たちは俺の日常を食いつぶす「激重依存モンスター」へと羽化してしまった。
「……明日から、どうやって波澄の顔を見ればいいんだ……」
清春は、天井の木目を虚ろな目で見つめながら、ポツリと呟いた。
あの水底での三分四十二秒に及ぶディープキスの感触が、なぜか今更になって、自分の唇に生々しく蘇ってくる気がした。
事なかれ主義の少年の夜は、後悔と、羞恥と、そしてほんの少しの「抗いがたい快感の記憶」に苛まれながら、深く、果てしなく更けていく。
平穏な日常を取り戻すどころか、自らの手で地獄の釜の蓋を三つも開けてしまった日高清春の戦いは。
料理部という名のハーレムで、明日もまた、胃薬を片手に繰り広げられることとなるのである。




