第35話:料理部、ついに三つ巴の戦場へ
放課後を告げるチャイムの音は、かつての日高清春にとって、平穏な『事なかれ主義の日常』の始まりを意味する最も愛すべき音だった。
だが、今の彼にとって、その音は死刑執行の合図に等しい。
「……行きたくない。マジで行きたくない」
旧校舎、一階。
『家庭科室』と書かれた引き戸の前に立ち、清春は胃の辺りを強く押さえながら、深々と絶望の溜息を吐き出していた。
中からは、すでに三つの気配がひしめき合っているのが分かる。
扉越しにすら、バチバチと火花を散らすような女たちの静かな殺気と、むせ返るような甘い香水の匂いが漏れ出していた。
『マスター。心拍数がすでに百二十を超えています。逃亡は推奨しません。彼女たちの「匂い」への渇望は限界に達しており、ここであなたが姿を現さなければ、彼女たちは暴走して学園中を嗅ぎ回り、最終的にあなたの自宅へ突撃することになるでしょう』
ポケットの中で、シキの無機質な音声が逃げ道を完全に塞ぐ。
「分かってるよ……っ。俺が蒔いた種だ、腹を括るしかない……!」
清春は、死地に赴く兵士のような悲壮な決意を顔に張り付け、ガララッ、と家庭科室の扉を開けた。
瞬間。
三つの強烈な視線が、一斉に清春を射抜いた。
「……あ、清春くん。……遅いよ。私、もう干からびそうだった……」
窓際でパイプ椅子に座っていた図書委員・八束綾が、虚ろな、しかしドロドロの執着に満ちた目で立ち上がった。
「キヨっち! ちょっと、今日ホームルーム長すぎっしょ! あたしのマタタビ成分が完全に切れかけてたんだからね!」
調理台の上に無作法に腰掛けていた化け猫ギャル・猫宮珠希が、尻尾を振るように足をバタつかせて抗議する。
「お静かに!! 清春様がお見えになったのですよ! あなたたちのような不純な輩は、少し下がって神聖な空気を汚さないようにしなさい!」
そして、部屋の中央でなぜか正座をして待機していた水泳部の超新星・波澄澪が、狂信的な眼光で二人を睨みつけた。
極度の男性恐怖症をねじ伏せる『依存』の綾。
化け猫の本能を剥き出しにして迫る『発情』の珠希。
命の恩人を神と崇め、自己犠牲すら厭わない『狂信』の澪。
これが、清春が自らの手(と口づけ)で生み出してしまった、学園を代表する三人の激重ヒロインたちの集結した姿だった。
「……お前ら、ここは料理部だぞ。お菓子作りもしないのに、毎日毎日入り浸って……」
「「「清春くん(キヨっち/清春様)の匂いがないと、生きていけないから(です)!!」」」
三人の声が、見事なユニゾンで重なった。
清春の抗議など、暴風雨の前の木の葉のようにあっさりと吹き飛ばされる。
「はぁ……。分かった、分かったから。とりあえず、紅茶淹れるから座ってろ。今日はクッキーも焼いてあるから」
清春は諦めてエプロンを身につけ、調理台へと向かった。
何か作業をしていれば、少しは気が紛れる。あわよくば、甘いお菓子で彼女たちの気を逸らすことができるかもしれない。
だが、そんな甘い考えは、開始十秒で打ち砕かれた。
「……すぅぅぅぅぅぅ……っ。はぁぁ……っ、キヨっちのエプロン姿、最高……っ。首筋の汗の匂い、甘くて……脳みそとろける……っ」
背後から、凄まじい勢いで珠希が飛び乗ってきた。
彼女は清春の背中に豊かな双丘をぐりぐりと押し付け、両腕で首をホールドすると、うなじから耳の後ろにかけて、犬が骨にしゃぶりつくような勢いで鼻を擦り付けてきた。
「ちょっ、猫宮! 重い! 熱い! お湯沸かしてるんだから危ないだろ!」
「……泥棒猫。そこをどきなさい。清春くんの背中は、私の定位置なの……」
清春が珠希を引き剥がそうとした矢先、今度は右側から、綾がヌルリと絡みついてきた。
彼女は清春の右腕を自らの胸の谷間に深く抱き込み、そのまま清春の肩口に顔を埋める。
「……んんっ……。清春くんの袖の匂い……私を安心させてくれる、唯一のお薬……。……ちゅっ」
綾の湿った唇が、無意識のうちに清春の二の腕を、制服越しに甘噛みした。
「ひゃうっ!? や、八束さん、噛むな!」
「あなたたち! なんという破廉恥な真似を! 清春様は神の御使いなのですよ!? 気安く触れていい存在ではありません!」
澪が顔を真っ赤にして立ち上がり、二人を指差して激怒した。
……助かった。波澄だけは、この狂った状況を止めてくれる理性を保っている。
清春がそう安堵したのも束の間。
「清春様! あのような不浄な者たちに触れられては、せっかくの神聖な御身が穢れてしまいます! ……さぁ、私が清めて差し上げますので、どうぞこの澪の膝の上に足を投げ出してください!」
澪は、なんと清春の足元にスライディング土下座のような勢いで滑り込み、清春の足首を両手で恭しく持ち上げたのだ。
「は!? 波澄、何やって……っ!?」
「あぁっ、靴越しでも分かる、この高貴な匂い……っ! 清春様が歩かれた後の床の埃すら、私にとっては聖なる粉です! どうぞ、私の顔を踏みつけてください! そして、その神聖な香りで私の魂を浄化してください……っ!」
澪は、完全にイってしまった恍惚の表情で、清春の靴に頬ずりを始めた。
「あああああっ!! 波澄が一番ヤバい! 足元で変態みたいなことするな!!」
清春はパニックになり、足を引っ込めようとするが、水泳部のエースである澪の握力は凄まじく、ビクともしない。
それどころか、彼女の行為を見た綾と珠希の「独占欲」に、完全に火がついてしまった。
「……後輩のくせに、生意気。清春くんの匂いを一番知っているのは、私なんだから……っ。清春くん、耳、貸して……?」
綾が、清春の右耳の裏に、生温かい舌を這わせた。
「ひやぁぁぁっ!?」
「ずるいずるいずるい! あたしだって、昨日の夜キヨっち成分足りなくて一睡もできなかったんだからね! キヨっち、こっち向いて! 口の中の匂い嗅がせて!」
珠希が清春の顎を強引に掴み、自分の顔を真正面から近づけてくる。
彼女の熱い吐息が、清春の唇を直撃する。
「ストップ! 三人ともストップゥゥゥッ!!」
清春の悲鳴が家庭科室に虚しく響き渡る。
右からは、極度の依存で耳を舐め回してくるヤンデレ図書委員。
背中からは、発情期真っ盛りで首筋に噛み付いてくる化け猫ギャル。
足元からは、靴に頬ずりしながら「踏んでください」と懇願してくる狂信人魚。
これはもう、ラブコメなどという生易しいものではない。
人間の尊厳を懸けた、理不尽すぎる『匂い搾取』の拷問だった。
「キヨっちの匂い、すっごく甘くて……胸の奥がきゅんきゅんする……っ」
「清春くん……私だけを見て。他の女の匂い、私が全部上書きしてあげるから……っ」
「あぁ、清春様……! もっと、もっとあなたの聖なる香気をこの澪にお与えください……っ!」
三人の少女たちの体温が、容赦なく清春を蒸し焼きにする。
甘い香水の匂いと、発情した雌特有のフェロモンが混ざり合い、家庭科室の空気は酸素濃度が薄くなっているのではないかと錯覚するほどに濃密だった。
『マスター。現在の状況を報告します』
エプロンのポケットから、シキの呆れを含んだ、しかしどこか楽しげな音声が響く。
『八束綾の依存度、99%。猫宮珠希の発情度、98%。波澄澪の狂信度、120%(測定限界突破)。……マスターから分泌される「白鐘の姫」の微弱な妖力が、彼女たちの脳内麻薬を致死量レベルで分泌させています』
(解説はいいから助けろシキ!! 俺の身体が引き千切られる!!)
『不可能です。彼女たちは現在、互いの存在を「自分のテリトリー(マスター)を侵す外敵」と認識しており、牽制し合うことでさらに密着度を高めるという地獄のループに陥っています。……推奨アクション。すべてを諦め、三つの異なるベクトルから注がれる重すぎる愛の海で、静かに溺死してください』
「ポンコツAIがあああああっ!!」
清春の魂の叫びをよそに、三つ巴の戦場はさらに白熱していく。
「ちょっと八束さん! そこあたしが嗅ごうと思ってた場所なんだけど!」
「……早い者勝ち。猫宮さんは、そこで大人しく見ていればいいの……」
「あなたたち、言葉を慎みなさい! 清春様の御前ですよ!? 清春様、私がこの不敬な輩を水底に沈めてまいりましょうか!?」
バチバチ、という物理的な火花が見えそうなほどの睨み合い。
しかし、その間も彼女たちの手や唇は、決して清春の身体から離れようとはしない。
むしろ、「自分の方が深く繋がっている」とアピールするかのように、肌の擦れ合いは過激さを増していく。
清春の魂の奥底。
下腹部に封じられた大妖怪『白鐘の姫』の意識だけは、この惨状を見下ろしながら、極上のワインでも転がすように愉悦の笑みを浮かべていた。
――ふふっ、あはははっ! なんて滑稽で、愛らしい雌豚どもなのかしら。
――私のほんの少しの残り香(毒)に当てられただけで、人間の理性もプライドも投げ捨てて、私の器(この少年)に群がって。もっとよ、もっと必死に私の匂いを求めなさい。あなたたちの魂の首輪の持ち主が誰なのか、その身体に一生消えない傷として刻み込んであげるから。
内なる姫のサディスティックな歓喜に呼応するように、清春の身体から、さらに濃密な、脳髄を溶かすような甘い匂いがフワリと立ち昇る。
「「「……っ!!」」」
その瞬間、三人の少女たちの動きがピタリと止まり、直後、限界を突破した獣のような目で、一斉に清春に群がってきた。
「あぁぁぁっ! キヨっち、だめ、今の匂いヤバい、理性が飛ぶぅぅぅっ!!」
「清春くん、清春くん清春くん清春くん……っ!!」
「清春様ぁぁぁっ!! あああ、神よ……っ!!」
「ぎゃあああああああああっ!!!」
夕日に染まる旧校舎。
誰も近づかない家庭科室から響き渡る、事なかれ主義の少年の絶命の悲鳴。
胃薬で抑えきれる限界をとうに超えた清春の胃痛は、ついにピークに達し。
三人の激重ヒロインによる『匂い争奪戦』は、終わりの見えない淫蕩とカオスの底へと、彼を完全に引きずり込んでいったのであった。
1番やばかったようです




