第34話:翌日。竜神の眷属(と勘違いした)後輩が、部室に突撃してくる件
翌朝。
日高清春は、全身を襲う鉛のような倦怠感と共に、重い瞼を持ち上げた。
「……う、あ……」
視界に映るのは、見慣れた自分の部屋の天井。
だが、昨夜の出来事は、決して夢などではなかった。
深夜のプール、巨大な水妖の強襲、そして――息絶えようとする波澄澪を救うために引き金を引いた、あの白銀の変身。
『おはようございます、マスター。バイタルサインの回復を確認。昨夜の変身に伴う魔力枯渇状態からは、概ね脱したようですね』
脳内に響くシキの無機質な声。それが、昨夜の惨劇と蹂躙が現実であったことを冷酷に告げている。
「シキ……。波澄は、大丈夫だったんだよな」
『はい。波澄澪の体内における「人魚の血」は、マスター……いえ、白鐘の姫が注ぎ込んだ高純度の妖力によって、完全に服従・安定しています。彼女を苦しめていた変異の拒絶反応も、今後は大幅に軽減されるでしょう。……もっとも、引き換えに彼女の魂には一生消えない「刻印」が打ち込まれましたが』
「……最後の余計な一言が、不穏すぎるんだよ」
清春は頭を抱えながら、のろのろとベッドから這い出した。
八束綾の時も、猫宮珠希の時も、助けた翌日には決まって「日常の崩壊」が待っていた。
だが、波澄澪は一味違うはずだ。彼女は生真面目な後輩だし、昨夜の清姫の姿と、今の「しがない料理部員」である俺を結びつけるはずがない。
(……いや、大丈夫だ。俺はあいつに正体を明かしてない。水底で意識を失っていたはずだし、記憶も混濁しているはず。今日からはまた、静かな放課後が戻ってくる……はずなんだ)
そんな淡い希望に縋りながら、清春は重い足取りで学園へと向かった。
しかし。その希望は、昼休みが始まった瞬間に、文字通り音を立てて砕け散ることとなった。
――ガララッ!!
三階の教室で、清春が昼食の準備を始めようとしたその時。
教室の入り口の引き戸が、雷でも落ちたかのような勢いで蹴破られた。
「……日高先輩っ!! 日高清春先輩はいらっしゃいますか!?」
教室中の視線が入り口に集中する。
そこに立っていたのは、水泳部のジャージに身を包んだ波澄澪だった。
昨夜の死に体とは打って変わり、その瞳には溢れんばかりの生命力と、どこか常軌を逸した「光」が宿っている。
「……は、波澄? どうしたんだ、そんなに血相を変えて」
清春が戸惑いながら声をかけると、澪は迷いのない足取りで清春の元へと駆け寄ってきた。
そして、周囲のクラスメイトたちが固唾を呑んで見守る中、彼女は清春の目の前で、跪くようにして深々と頭を下げたのだ。
「日高先輩……! 昨夜は、本当に、ありがとうございました! 先輩が私をあそこから救い出してくださったこと、そして、私に『救済』を与えてくださったこと……一生、忘れません!」
「ちょ、ちょっと待て! 声が大きいし、みんな見てるから……!」
教室中が「救済……?」「昨夜、何があったんだよ……」「日高、あの一年生のエースまで食ったのか?」という不穏なヒソヒソ話で充満する。
「波澄、とりあえず落ち着け。保健室にでも行くか?」
「いいえ、先輩! 私は今、かつてないほどに絶好調です! それもこれも、すべては先輩……いえ、先輩の背後にいらっしゃる『御方』のおかげです!」
澪が顔を上げ、清春を見つめる。
その瞳は、狂信的なまでの敬愛に満ちていた。
「昨夜、私は見ました。死の底で、私を抱きしめてくださった、あの尊くも美しい水と氷の竜神様を……! そして、その御方が私に口づけ、命の息吹を注いでくださった瞬間の、あの甘美な匂いを……!」
「……っ!?」
清春の背筋に冷たい汗が走る。
やはり、記憶は残っていた。それどころか、彼女はあの白鐘の姫を「竜神」と呼び、崇める対象として固定してしまったらしい。
「私、今朝起きてすぐに気付いたんです。私の足を呪っていた醜い鱗が、今は銀色の輝きに変わり、身体の中から溢れるような力が湧いてくることに。……そして、学校に来て、先輩とすれ違った瞬間、魂が震えました」
澪は、清春の制服の裾を震える手で掴み取った。
そのまま、鼻を清春の腕に押し当て、深々と、むせ返るほどに匂いを嗅ぎ始める。
「くんくん……すぅぅぅぅぅぅ……っ。はぁ、ぁあ……っ。間違いない、この匂い……。先輩からは、あの竜神様と同じ、冷たくて甘い『神の香り』がします……っ!」
「わわわっ、やめろ! くんくんするな!」
「先輩は、竜神様の眷属……あるいは、地上における御使いなのですね!? 私を救うために遣わされた、私の主……っ! あぁ、なんて清らかな匂い……。脳の奥まで、お姉様の残り香に侵食されていくようです……っ」
澪の頬は紅潮し、その瞳からは悦楽の涙が零れている。
人魚の血を引く彼女にとって、白鐘の姫の妖力は「上位種による絶対的なマーキング」として機能している。
今の彼女にとって、清春の身体から漂う微かな残り香は、敬虔な信者が神の奇跡に触れるのと同じ、あるいはそれ以上の精神的・生理的な快楽のトリガーとなっていた。
「波澄、落ち着け。俺はただの料理部員で……」
「いいえ! 先輩は私の命の恩人であり、魂の所有者です! ……日高先輩、いえ、清春様。私を、あなたの末席に加えてください! 竜神様の残り香を宿すあなたに、この身のすべてを捧げたいんです……っ!」
澪は、もはや周囲の目など一ミリも気にしていない。
清春の手を両手で包み込み、自分の頬に擦り付けながら、恍惚とした喘ぎ声を上げている。
八束綾の「依存」が内向的で、猫宮珠希の「発情」が動物的だとするならば。
波澄澪のそれは、宗教的なまでの「狂信」と「奉仕欲」だった。
『マスター。分析完了。波澄澪は現在、マスターから発せられる微弱な妖力パルスを、竜神の加護と誤認しています。彼女にとって、あなたのそばにいることは「聖域」に身を置くことと同義であり、その匂いを嗅ぐことは「洗礼」を受けることに等しい状態です。……要するに、彼女もまた完全に手遅れ(メス堕ち)ですね(笑 』
(シキ、笑い事じゃない! このままじゃ俺、宗教の教祖か何かにされちゃうぞ!)
『推奨アクション:ありません。神の残り香を求める迷える小羊(人魚)を、優しく、そして冷酷に飼い慣らしてください。……おや、放課後の戦場がさらに加熱しそうですよ。料理部に「先客」たちが集まり始めています』
シキの言葉に、清春は絶望的な予感を抱きながら、昼休みの残りを逃げるように過ごした。
そして、放課後。
清春が戦々恐々としながら家庭科室の扉を開けると、そこには案の定、地獄の風景が広がっていた。
「……遅いよ、キヨっち。あたし、もうキヨっちが足りなくて死にそうなんだけど」
調理台に腰掛け、ルーズな制服姿で足を組みながら、猫宮珠希がとろけた目で清春を睨んだ。
その隣では、八束綾が清春のエプロンを抱きしめ、恍惚とした表情で鼻を埋めている。
「……清春くん。今日の匂い、いつもより少し冷たい気がする。……私を、早く上書きして……?」
そこへ。
清春の背後から、風を切るような勢いで波澄澪が飛び込んできた。
「お二人とも、日高先輩を独占するのは不敬です! 先輩は竜神様の尊き御使いなのですよ!」
澪は清春の前に立ちはだかり、綾と珠希を鋭い眼光で牽制した。
「竜神様……? 何それ、新しいキャラ設定?」
珠希が不愉快そうに眉をひそめる。
「波澄さん。……清春くんは、私の救い主。……神様なんて、関係ない。……私の、抱き枕なんだから……」
綾の声が、低く、暗く響く。
「不敬な! 先輩の体内に宿るあの高貴な匂いが分からないのですか!? あなたたちのような低俗な誘惑は、先輩の清浄さを汚すだけです! あぁ、清春様……どうか、私に命じてください。不浄な彼女たちを遠ざけ、私が一番近くであなたにお仕えします……っ!」
澪は清春の足元に跪き、靴の上からでも匂いを嗅ごうとする勢いで縋り付いた。
「ちょっ……波澄! いいから立てって! 二人とも、そんな目でこっちを見るな!」
右からは、縄張りを侵された野良猫のように牙を剥く珠希。
左からは、執着という名の糸で清春を絡め取ろうとする綾。
そして足元からは、狂信的な瞳で自分を崇める澪。
家庭科室は、三者三様の「愛(呪い)」が混ざり合い、もはや酸欠になりそうなほどに濃密な、むせ返るような少女たちの体香とフェロモンで満たされていた。
「……すぅぅぅぅぅぅ……っ! はぁっ……んん、やっぱり、今日、他の女の匂いついてるっしょ!? キヨっち、あたしで消毒しなきゃだめじゃん!」
珠希が清春の首筋に噛み付くようにして匂いを吸い上げる。
「……だめ。清春くんの耳元は、私だけ。……波澄さん、どいて。……そこは、私の場所なの……」
綾が清春の腕を強引に引き寄せ、自らの豊かな胸の間に埋め込む。
「あぁ……っ、お二人ともなんて羨ましいことを! 不敬ですが、私も……私も、竜神様の加護に触れたい……! 清春様、どうか私にもその洗礼(匂い)を授けてください……っ!!」
澪までもが、清春の腰にしがみつき、制服の隙間から鼻を差し込んで直接肌の匂いを貪り始めた。
「ああああああっ!! もう嫌だ! 誰か、誰か助けてくれぇぇぇぇっ!!」
清春の悲痛な叫びは、三人のヒロインたちの甘い喘ぎ声と、喉を鳴らす音、そして「神」を讃える狂信的な呟きにかき消されていく。
『マスター。心拍数、百九十を突破。もはや測定不能の領域です。……おめでとうございます。蜘蛛と猫、そして人魚。三つの血族が、あなたの匂いという唯一の真理を巡って争う「聖戦」の幕開けですね』
(シキ……っ! 俺、死ぬ! このままじゃ、物理的に吸い尽くされて死んじゃうよ!)
『それもまた、一興かと。……推奨アクション:ありません。事なかれ主義の代償として、三つの激重な魂を背負い、永遠に彼女たちのマタタビ(神)として君臨し続けてください』
「……クソがあああああああっ!!」
清春の理性が、そして貞操が、今日もまた音を立てて崩壊していく。
かつては平和の象徴だった料理部は、今や、一人の少年を「神」と崇め、その残り香を奪い合う三人の激重ヒロインたちの、甘美で恐ろしい祭壇へと変貌を遂げたのである。




