第30話:水底への引きずり込み
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい衝撃と水柱と共に、日高清春の身体は、どす黒く濁ったプールの水面へと叩きつけられた。
一瞬の浮遊感の後、全身を殴りつけられたような痛みが走り、すぐに氷のように冷たい泥水が身体全体を飲み込んでいく。
視界が、真っ黒に反転した。
(がっ……! ぶくっ、ごほっ……!)
不意を突かれた落水の衝撃で、肺の中にあった貴重な酸素の半分が、大きな気泡となって口から逃げていく。
鼻腔と口腔に、容赦なく「水」が侵入してきた。
それは、消毒されたプールの水などでは決してない。ドブ川の底に溜まったヘドロと、腐った魚の内臓をミキサーにかけて濃縮したような、吐き気を催すほどの猛毒の泥水だった。
(……クソッ、息が……。波澄! 波澄はどこだ!?)
清春は、激しい痛みに抗いながら、濁った水の中で必死に目を開けた。
網膜を刺すような泥水の刺激に耐えながら、周囲を見渡す。
水上から差し込んでいたはずの屋内プールの青白い照明は、水中の異常な濁りによって完全に遮断され、まるで深海の底に放り込まれたような絶望的な暗闇が広がっていた。
だが、その暗闇の中で。
ぼんやりと、一つだけ青白く発光しているものがあった。
波澄澪の「足」だ。
彼女の膝下から足首にかけてびっしりと生え揃った人魚の鱗が、微弱な妖力を放ち、燐光のように暗い水底で光っていたのだ。
清春の数メートル下。
澪は、黒い髪を水中に漂わせながら、底なしの暗闇へと急速に引きずり下ろされていた。
(波澄!!)
清春は、水を掻いて彼女の元へ向かおうとした。
しかし、身体が思うように動かない。
水妖の妖力によって変質したこのプールの水は、異常なほどの「粘り気」を持っていた。まるで液状の接着剤か、あるいは巨大なゼリーの中に閉じ込められたかのように、手足を動かすたびに凄まじい抵抗と水圧が全身にのしかかってくる。
『マスター。対象「波澄澪」の降下速度、異常です。水妖の触手が彼女の下半身に完全に絡みつき、自身の「胃袋(水底)」へと直接引きずり込んでいます』
泥水で鼓膜が塞がれた清春の脳内に、シキの無機質な合成音声が直接響き渡る。
(分かってる! なんとかして引き離さないと……っ!)
清春は、必死に手足を掻き、泥水の抵抗を気力だけで押し退けて潜行した。
水底に目を凝らすと、その悍ましい光景に全身の産毛が逆立った。
澪の身体を引きずり込んでいるのは、黒い髪の毛と水草が絡み合ったような、何本もの極太の触手だった。
それらが、澪の青白く光る鱗の足を、骨が砕けそうなほどの力で締め上げている。
そして、その触手の根元……プールの底には、ぽっかりと開いた「巨大な口」が待ち構えていた。
何重にも渦巻く、サメのような鋭い牙。
そこから漏れ出すどす黒い瘴気が、周囲の水をさらに汚染していく。
怪異にとって、ここは完全に自分に有利な絶対領域だ。陸上とは比べ物にならないほどの圧倒的な力が、水という媒質を通して直接伝わってくる。
「……んっ、……ぁ、……っ」
水中で、澪が苦痛に顔を歪めた。
人魚の血を引く彼女は、本来であれば水中の環境に適応し、人間よりもはるかに長く息を止めることができるはずだった。
だが、今の彼女は、水妖の放つ強烈な瘴気(毒)によって全身の神経を麻痺させられ、指一本まともに動かすことができない状態に陥っていた。
自分の才能の源であり、誰よりも愛し、そして誰よりも恐れていた「水」という環境が、今、完全に彼女の命を奪うための処刑場へと変貌してしまったのだ。
(くそっ……! 離せ、その汚い触手で、あいつに触るな……っ!)
清春は、肺が焼け焦げるような酸欠の苦しみに耐えながら、ようやく澪の手が届く距離まで接近した。
清春が、伸ばされた澪の細い手を、ガシッと強く掴む。
「……!?」
澪が、驚いたように目を見開いた。
暗い水の中で、二人の視線が交差する。
澪の濁った瞳からは、絶望と、そして強烈な「拒絶」の意志が伝わってきた。
彼女は、繋がれた清春の手を、自分の力で振り払おうとしたのだ。
――だめ。先輩は、逃げて。
――私は半妖だから、化け物に狙われるのは自業自得だけど。先輩は、巻き込まれちゃだめ。
声にならない彼女の叫びが、痛いほどに伝わってくる。
彼女の目からは、水の中にあってなおはっきりと分かる、大粒の涙が溢れ出していた。
自分が助かることよりも、自分を「気持ち悪くない」と言ってくれた優しい先輩を、こんな泥水の底に引きずり込みたくないという、彼女の悲痛な自己犠牲。
(ふざけるな……! お前を見捨てて逃げられるくらいなら、事なかれ主義なんてとっくにやめてるんだよ!)
清春は、振り払われそうになる彼女の手を、さらに強い力で握りしめた。
両手で彼女の腕を掴み、渾身の力で上へと引っ張り上げようとする。
しかし。
人間の男子高校生の筋力で、巨大な水妖の力に勝てるはずがなかった。
ズンッ!!
下から、凄まじい力で引っ張り返される。
清春の肩の関節が外れそうになるほどの激痛が走った。
(がっ……! あぁっ……!)
痛みに口が開きそうになり、清春は必死に奥歯を噛み締めた。
だが、その隙を水妖は見逃さなかった。
水底の闇の中から、新たな触手が猛スピードで射出された。
それは、獲物を奪い返そうとする清春の存在を「目障りな不純物」と認識し、容赦のない一撃を放ってきたのだ。
ドゴォォォッ!!
水中の抵抗を無視したかのような速度で放たれた触手が、清春の腹部を、丸太で殴りつけるような勢いで強打した。
(――ッッ!!!!)
声にならない絶叫。
内臓が破裂するかと思うほどの衝撃。
その瞬間、清春の肺の奥底にギリギリ残っていた最後の酸素が、ボコッ!! と巨大な気泡となって、口から無惨に吐き出されてしまった。
限界だった。
肺が、空っぽになった。
人間の身体は、酸素を失うと、脳が強制的に「呼吸しろ」という命令を出す。
反射的に口が開き、致命的な泥水が、清春の気道へと流れ込もうとする。
(だめだ……息を、吸ったら……死ぬ……っ)
清春は、自分の口を両手で塞ぐようにして、必死に泥水の侵入を拒んだ。
だが、限界を超えた肺は痙攣し、心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、脳細胞が次々と酸欠の悲鳴を上げ始めている。
視界の端が、チカチカと白く明滅し始めた。
意識が、遠のいていく。
『マスター。バイタルサイン、急速に低下。血中酸素濃度が生存の限界ラインを割り込みました』
脳内のシキの声が、ひどく遠くに聞こえる。
清春の握る力が弱まり、澪の手が、ズルリと滑り抜けようとする。
「……っ、……ぁ……」
澪が、絶望に満ちた目で清春を見つめている。
彼女の下半身は、すでに水妖の巨大な口のすぐ近くまで引きずり込まれ、鋭い牙が彼女の鱗を削り取ろうとしていた。
助けられない。
人間のままでは、絶対に。
この泥水の底で、怪異という理不尽な暴力に抗う術など、ただの事なかれ主義の少年が持っているはずがなかった。
巨大な質量。息のできない密室。圧倒的なまでの『死』の気配。
(……このままじゃ、二人とも死ぬ。波澄が、喰われる……っ)
清春の意識が薄れゆく中、下腹部の奥底で、ドロリとした「熱い塊」が蠢くのを感じた。
それは、清春がピンチに陥るのを、まるで極上のショーでも見るかのように楽しんでいる、残酷で美しい『化け物』の意識。
――ほら、言いなさい。私を解放すると。
――虫けらのような人間の身体で抗うから、そんな無様な姿を晒すのよ。すべてを私に明け渡しなさい。そうすれば、この不愉快な泥どもを、残らず氷漬けにして砕いてあげるから。
甘く、脳髄を直接撫で回すような、女王の囁き。
清春は、濁った水の中で、強く目を閉じた。
理性を保ちたかった。これ以上、あの「姫」の姿になって、自分の周りの人間を狂わせたくはなかった。
だが、そんな自己満足のプライドよりも、目の前で化け物に喰われようとしている後輩の命の方が、何万倍も重い。
(……シキ)
清春は、薄れゆく意識の最後の力を振り絞り、脳内の相棒へと命令を下した。
(ロックを、外せ。……全部だ。俺の中の『化け物』を、引きずり出せ……っ)
『……命令、受理しました。マスター』
シキの合成音声が、冷徹に、そしてどこか待ちわびていたかのような響きを帯びて、絶望の水底に響き渡る。
『警告。マスターの現在の肺活量および酸素残量から計算して、意識を保っていられる時間は……残り、十秒です』
十秒。
それは、人間の命が尽きるまでの無慈悲なカウントダウンであり。
同時に、最恐の蛇神がこの泥水を絶対零度の地獄へと変えるための、破滅のプレリュードだった。
『大妖怪「白鐘の姫」への変身シーケンス、最終フェーズへと移行します。……推奨アクション。すべてを凍てつかせ、その圧倒的な格の違いで、水妖を蹂躙してください』
ドクンッ!!
清春の心臓が、最後の激しい鼓動を打つ。
そして、暗黒の水底を切り裂くように、目も眩むような「白銀の閃光」が、清春の身体から爆発的に放たれた。




