第29話:プールに潜む『水妖』の影
ボコッ、ボコボコボコッ……!!
静寂に包まれていた屋内温水プールに、突如として、巨大な空気が水底から噴き出すような異音が鳴り響いた。
「え……?」
清春の胸で泣き崩れていた波澄澪が、その音に驚いて顔を上げた。
二人の視線の先。
さきほどまで、プールの底のタイルが透けて見えるほど透明だったはずの青い水が、まるで墨汁を流し込んだかのように、急速にどす黒く濁り始めていた。
ただ濁っているだけではない。
水そのものが、まるで意思を持った巨大なスライムのように、うねり、粘り気を帯びて波打っているのだ。
「なんだ、あれは……っ」
清春は、澪の肩を庇うように抱き寄せたまま、油断なく水面を睨みつけた。
鼻を突く悪臭。
消毒用の塩素の匂いは完全に掻き消され、代わりに充満してきたのは、ヘドロと腐った魚の内臓を混ぜ合わせたような、吐き気を催すほどの強烈な生臭さだった。
『マスター。緊急事態です。プール内の霊的汚染度が、規定値を大幅に突破しました』
清春の脳内に、シキの冷徹な合成音声が直接アラートを鳴らした。
(シキ! あの中に、何がいるんだ!)
清春は澪を抱きとめたまま、周囲に悟られないよう心の中で鋭く問い詰めた。
『水質データおよび霊波形を解析。……対象は、低級から中級に位置する泥と水の怪異、『水妖』の群集体です。本来は水辺の澱みに発生する無害に近い霊障ですが、この個体は異常なほどの質量と飢餓感を備えています』
(水妖……? なんでそんなものが、学校のプールなんかに)
『原因は明白です。マスターの腕の中にいる少女……波澄澪の流れる「人魚の血」です』
「……人魚の血、だと……?」
驚きのあまり。
清春の口から、思わずその単語が微かな呟きとして漏れ出てしまった。
その呟きを聞いた瞬間。
清春の腕の中にいた澪が、ビクッ!! と大きく身体を震わせた。
「せ、んぱい……今、なんて……?」
澪の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。
見られたのは足の鱗だけではなかったのか。この人は、私の正体が、おとぎ話に出てくるような綺麗なものではなく、水辺に棲む醜い半妖「人魚」であることを、完全に見透かしているのか。
『人魚は、水棲系の妖魔の中でも極めて純度が高く、強大な霊力を持つ上位種です』
澪の絶望を他所に、シキの無機質な解説が清春の脳内に響き続ける。
『水妖のような下等な怪異にとって、人魚の肉や血、そしてその感情の昂りから漏れ出す妖力は、喉から手が出るほど欲しい『極上の餌』。……この水妖は、長期間にわたってこのプールに息を潜め、彼女が水に入るたびに漏れ出す微量の妖力をすすって、ここまで巨大化してきたのでしょう』
(……っ)
清春は、ガチガチと歯の根が合わないほどに震え始めた澪の姿を見て、すべてを悟った。
彼女が陥っていたスランプ。
十五分以上水に浸かると鱗が出てしまうという体質への恐怖も当然あっただろう。
だが、それだけではなかったのだ。
化け猫の半妖である猫宮珠希がそうであったように、人魚の半妖である澪の「本能」もまた、鋭かった。
彼女の魂の奥底は、プールの底に自分を喰らおうとする『捕食者』が口を開けて待っていることを、無意識のうちに感じ取っていたのだ。
だから、身体が拒絶した。
タイムが落ち、息が続かなくなり、水の中を泳ぐことが怖くなった。
彼女を苦しめていたスランプの真の正体は、自分の正体がバレることへの恐怖であると同時に、見えない化け物に対する生存本能からの「強烈な警告」だったのだ。
「……私の、せい。……私が、呼び寄せた、んですか……」
自分の血のせいでこんな化け物を呼び寄せてしまったと悟った澪の目から、再びポロポロと涙がこぼれ落ちる。
彼女の流すその純度の高い「半妖の涙」がプールサイドに落ちるたび、水面のどす黒い波が、さらに激しく、狂喜乱舞するようにボコボコと沸き立った。
『マスター。警告します。先ほど彼女が流した大量の涙……感情の決壊に伴う妖力の放出が、決定的なトリガーとなりました。水底で息を潜めていた水妖は、今、完全に「捕食モード」へと移行しました』
「クソッ……! 波澄、立て! ここから出るぞ!」
清春は、事なかれ主義の理性を完全に捨て去り、澪の腕を引いて立ち上がらせようとした。
だが。
「……あ、あぁ……っ。あしが、……うごか、ない……」
澪は、プールサイドにへたり込んだまま、力なく首を振った。
彼女の両足……タオルで隠された鱗の生えたふくらはぎから、完全に力が抜け落ちている。
水妖の放つ、強烈な瘴気。
それは、ただの悪臭ではない。水生生物の神経を直接麻痺させる、一種の「毒」だった。
純粋な人間である清春には吐き気を催す悪臭でしかないが、人魚の血を引く澪にとっては、エラ呼吸を封じられるような致死性の劇毒として作用してしまっていたのだ。
「しっかりしろ波澄! 俺がおぶってやるから!」
清春は、背を向けてしゃがみ込み、澪の身体を強引に背負い上げた。
彼女の身体は、驚くほど冷たく、そして軽かった。競泳水着越しの濡れた肌が清春の背中に密着するが、今はそんなことを意識している余裕はない。
(シキ、出口はどこだ! 一番近い扉をナビしろ!)
『直進して十メートル。女子更衣室側の非常口が最短ルートです。……走ってください、マスター』
清春は、重い足取りでプールサイドを蹴り、非常口へと向かって全力で駆け出した。
背後で、ザバァァァァッ!! という巨大な水音が響く。
振り返らなくても分かる。
プールの水面が不自然に盛り上がり、巨大な「何か」が、水底からその醜悪な姿を現しつつあるのだ。
ズル、ズルルルルッ……。
濡れたタイルを這いずる、気味の悪い音。
視界の端に映ったそれは、黒い髪の毛とヘドロが絡み合ったような、巨大な泥の触手だった。
無数の触手が、鞭のようにプールサイドを打ち据え、清春たちの逃げ道を塞ごうと四方八方へと伸びてくる。
「……ひっ! せん、ぱい……うしろ、うしろに……っ!」
背中で、澪が恐怖に引き攣った声を上げる。
「見なくていい! 目を瞑ってろ!」
清春は、迫り来る触手を間一髪で躱しながら、非常口の重厚な鉄扉へと辿り着いた。
「よし、開け……っ!!」
清春は、澪を背負ったまま、空いている片手で鉄扉のバーハンドルを力強く押し込んだ。
ガチャンッ!
……ガンッ!
「……は?」
開かない。
もう一度、渾身の力でハンドルを押し下げる。
しかし、扉はまるで壁と一体化してしまったかのように、微動だにしなかった。
「どうなってるんだよこれ! 鍵なんかかかってないはずだろ!」
『マスター。物理的な施錠ではありません。扉の隙間をご覧ください』
脳内に響くシキの言葉に従い、清春は扉の蝶番のあたりに視線を落とした。
そこには、青黒い、不気味な「粘液」がびっしりとこびりついていた。
プールの水と同じ、腐った生臭さを放つヘドロ。
それが、扉の縁を完全にコーティングし、強力な接着剤のように空間を封鎖してしまっているのだ。
『水妖による「結界」です。対象を密室に閉じ込め、逃げ場をなくしてからゆっくりと捕食する。……水棲系の怪異が好む、典型的な狩猟戦術ですね』
(そんな冷静に解説してる場合か! ここが開かないなら、別の扉は!?)
『無駄です。メインエントランスのガラス戸も、更衣室への通路も、すでにすべて同じ粘液によって完全に封鎖されています。現在のこの屋内プールは、物理法則から切り離された完全な「密室(異界)」へと変貌しました』
絶望的な宣告。
清春の背筋を、冷たい汗が伝い落ちる。
逃げ場はない。
この閉鎖された空間の中で、あの巨大な化け物と対峙するしかない。
男の身体のまま、背中に後輩を背負って戦えるような相手ではないことは、一目見ただけで明らかだった。
――ズズンッ……!!
地響きのような音と共に、プールの中央から、巨大な水柱が立ち上がった。
天井の青白い照明に照らし出されたその姿は、悍ましいの一言に尽きた。
何十、何百という人間の死体が溶け合ってできたような、肥大化した青白い肉塊。
そこから、水草や黒髪が絡み合った極太の触手が、蛸の足のように何本も生え出ている。
顔にあたる部分には、目も鼻もなく、ただ巨大な「円形の口」だけがポッカリと開き、中にはサメのような鋭い牙が何重にも渦巻いていた。
「オォォォォォォォォォォォッ……!!」
耳を塞ぎたくなるような、水底からの咆哮。
それは、歓喜の雄叫びだった。
極上の餌である「人魚の半妖」を完全に密室に閉じ込め、今まさに貪り喰らおうとする、化け物の純粋な食欲の表現。
「……あぁ、あ、ああ……っ」
清春の背中で、澪の意識が恐怖で完全に真っ白になっていくのが分かった。
彼女の身体がガクガクと震え、呼吸が過呼吸のように浅く、速くなる。
人魚の血を引いているがゆえに、彼女には水妖の放つ圧倒的な「捕食者のプレッシャー」が、清春の何十倍もリアルに伝わってしまっているのだ。
「波澄! しっかりしろ! 俺がなんとかするから!」
清春は、どうにか彼女を安心させようと声をかけた。
なんとかする。
その方法は、ただ一つしかない。
自分の中に眠る、あの恐ろしくも美しい『化け物』の力を解放すること。
八束綾を救った時のように。猫宮珠希を呪いから引き剥がした時のように。
大妖怪『白鐘の姫』へと変身し、この汚らしい泥水を、絶対零度の氷河で一瞬にして浄化するしかない。
清春は、決意を固め、右手を自分の胸に当てようとした。
――その時だった。
チャプン、と。
足元で、小さな水音がした。
「……え?」
清春が視線を落とすと、いつの間にか、プールサイドの床一面が、足首が浸かるほどの「黒い水」で覆い尽くされていた。
水妖が、プールの中から大量の汚水を溢れさせ、空間全体を自分に有利な「水辺」へと作り変えようとしているのだ。
そして。
その黒い水の中から、音もなく、一本の青白い腕が伸びてきた。
それは、人間の女性の腕のように見えたが、指の間には水掻きがあり、肌は水死体のようにふやけている。
その腕が、背後から。
清春の背負っている、波澄澪の「鱗の生えた足首」を、ガシッと強く掴んだ。
「ひっ!!?」
澪の悲鳴。
次の瞬間、清春の身体に、想像を絶するほどの凄まじい「引きずり込む力」が加わった。
「うおっ!? クソッ、離せ……っ!!」
清春は必死に踏ん張ろうとしたが、足元の床はすでに黒い水とヘドロでヌルヌルに滑り、まったく力が入らない。
水妖の触手は一本ではない。
黒い水面から次々と青白い腕や泥の触手が這い出し、澪の身体に、そして彼女を庇う清春の身体にも絡みついていく。
「や、いやっ! 先輩、先輩ぃぃぃっ!!」
「波澄っ! 手ぇ離すな!!」
ズルズルと、無慈悲な力で二人の身体がプールの縁へと引きずり寄せられていく。
抵抗は完全に無意味だった。
人間の筋力で、何トンもの水圧を持った怪異の引力に勝てるはずがない。
清春の胸の奥底で、姫の意識が不快そうに舌打ちをする気配がした。
――本当に、虫唾が走る泥水ね。私のドレスが汚れるじゃない。
姫に変身すれば、一瞬でこの触手を凍りつかせることができる。
清春が変身のトリガーを引こうと、脳内でシキに解除命令を出そうとした、まさにその刹那。
バシャァァァァッ!!
水妖の最大の触手が、鞭のようにしなり、清春と澪の身体を、完全に空へと放り投げた。
二人の身体が宙に浮き、そして重力に従って、どす黒く渦巻くプールの中心――水妖の巨大な口が待ち構える水面へと落下していく。
『マスター!!』
清春の脳内で、シキの緊急アラートが虚しく鳴り響く。
落下する視界の中で、清春は、恐怖に顔を歪ませてこちらに手を伸ばす澪の顔を見た。
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい水柱と共に、二人の身体は、底なしの暗闇と、腐臭に満ちたプールの水底へと完全に飲み込まれた。
視界が真っ黒に染まり、肺から空気が強制的に押し出される。
逃げ場のない密室でのホラーは、一瞬にして「息の続かない水底での死闘」という、最悪のフェーズへと引きずり込まれていた。
意識が遠のきそうになる冷たい水の中で。
事なかれ主義の少年は、自分と後輩の命を繋ぐための、最後の決断を迫られることになる。




