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第28話:人魚の半妖と、鱗の秘密



「……十五分。やっぱり、これが今の私の限界」


 放課後の部活動が始まる前。

 誰もいない女子更衣室のベンチに座り、波澄澪は、自分のふくらはぎをじっと見つめながら、重く、絶望的な溜息を吐き出した。


 細く引き締まった、スイマー特有のしなやかな足。

 だが、その膝下から足首にかけての皮膚の表面には、まるで薄いガラス細工のような、青白く光る「うろこ」が、不気味に浮かび上がっていた。


 澪は、乾いたタオルでその鱗をゴシゴシと力強く、血が滲むほどに擦った。

 痛い。しかし、擦っても鱗は決して剥がれ落ちない。

 皮膚が完全に乾燥し、体内の水分量が一定値以下に下がるまで、この忌まわしい化け物の証は、彼女の足に張り付いたまま消えることはないのだ。


 ――私は、人間じゃない。水辺を這い回る、醜い半妖なんだ。


 澪は、幼い頃から自分の体質を自覚していた。

 父親は普通の人間だったが、母親はどこか浮世離れした、いつも海のような匂いのする美しい人だった。そして母親は、澪が幼い頃に「水に還る」と言い残して、ふらりと姿を消した。

 残された澪の身体には、母親から受け継いだ『人魚』の血が、呪いのように濃く流れていた。


 水の中に入れば、誰よりも速く、自由になれる。

 息継ぎも人間の何倍も長く持ち、水流を肌で読み取ることができる。

 その才能のおかげで、彼女は「水泳部の超新星」として周囲からもてはやされるようになった。


 だが、代償はあまりにも大きかった。

 人魚の血は、長く水に触れることで活性化してしまう。

 連続して十五分。それが、彼女が「人間の姿」を保っていられる限界の時間だった。

 それを超えて水に浸かっていると、足から徐々に鱗が浮かび上がり、やがては両足が癒着して、完全に「魚の尾鰭おびれ」へと変異してしまうのだ。


「……こんなの、誰にも言えない。もしバレたら……」


 澪の脳裏に、周囲の人間たちが自分を「化け物」と罵り、石を投げてくる光景が浮かぶ。

 期待のルーキーどころではない。気味の悪い半妖として、二度とプールに入ることは許されなくなるだろう。


 だから彼女は、十五分経つ前に必ずプールから上がり、慌てて足をタオルで隠し、鱗が消えるまで更衣室に引きこもるという生活を続けていた。

 しかし、高校の競泳レベルが上がれば上がるほど、その「十五分の壁」が彼女の致命的な枷となっていく。

 長距離の練習メニューがこなせない。居残り練習で追い込むこともできない。

 結果としてタイムは頭打ちになり、周囲からは「あいつ、才能にあぐらをかいて練習をサボっている」「期待外れだ」という陰口が叩かれ始めていた。


「泳ぎたいのに。誰よりも水の中が好きなのに……水が、怖い……っ」


 澪は、顔を覆って小さく啜り泣いた。

 自分の才能の源である「水」が、同時に自分の正体を暴き、すべてを奪い去る恐怖の対象でもあるという矛盾。

 その絶望的なジレンマこそが、水泳部の超新星・波澄澪を苦しめる『スランプ』の真の原因だったのだ。


 ◆


 同日、放課後。

 日高清春は、旧校舎の家庭科室で、完全に魂の抜けた顔をしてパイプ椅子に座っていた。


「……キヨッち、今日のお菓子まだー? あたし、もうお腹ペコペコで死にそうなんだけど」

「……清春くん。無理しなくていいよ。私がずっと、こうして抱っこしててあげるから……」


 右肩には猫宮珠希が顎を乗せ、左腕には八束綾がぴったりと張り付いている。

 二人の体温と、全く異なる強烈な香水の匂いが混ざり合い、家庭科室はむせ返るような淫蕩の空間と化していた。


(……だめだ。ここから逃げ出さないと、俺の理性が本当に死ぬ)


 清春は、白目を剥きそうになるのを必死に堪えながら、ガタッと乱暴に立ち上がった。


「わっ!?」

「きゃっ……清春くん?」


「ご、ごめん! ちょっと、職員室に呼ばれてるの忘れてた! すぐ戻るから、二人ともそこにあるクッキー食べてて!」


 清春は、二人が引き止める暇も与えず、脱兎のごとく家庭科室から飛び出した。

 廊下を走り抜けながら、大きく新鮮な空気を吸い込む。


「はぁっ、はぁっ……。危なかった。あのままあいつらの匂い嗅いでたら、発狂するところだった……」


 清春が逃げ込んだ先は、昨日と同じ「屋内温水プール棟」だった。

 塩素のツンとした匂いが、今は何よりもありがたい精神安定剤に思える。


 そっと防音扉を開け、観覧席の最上段にある暗がりに身を潜めた。

 時刻はすでに夕方遅く。水泳部の全体練習は終わり、部員たちは帰路についている時間だ。


「……あれ。また、あいつか」


 清春の視線の先、静まり返ったプールのコースには、昨日と同じように一人で居残り練習をしている波澄澪の姿があった。

 バシャッ、バシャッという水飛沫の音が、広く無機質な空間に響いている。


 しかし、今日の彼女の泳ぎは、昨日にも増して悲壮感が漂っていた。

 フォームは乱れ、がむしゃらに水を掻いているだけのように見える。


『マスター。彼女のバイタルサイン、異常な数値を計測しています。強いストレスと、パニックの兆候。……そして、彼女の体内から、微弱ですが「人間ではないもの」の妖力の波形が漏れ出しています』


 エプロンのポケットで、シキが静かに警告を発した。


「妖力の波形……? あいつが、怪異だって言うのか?」


『いいえ、違います。彼女は生まれながらの混血……猫宮珠希や八束綾と同じ、「半妖」です。血の系譜を解析。……水生特化型の妖魔、「人魚」の因子を強く受け継いでいます』


「人魚……」


 清春が息を呑んだ、その瞬間だった。


 プールの中央付近で、澪の動きがピタリと止まった。

 いや、止まったのではない。まるで足に重りをつけられたように、不自然に水中に沈みかけたのだ。


「ごぼっ……! や、だ……っ、まだ、二十分しか……っ!」


 澪が、水面から顔を出して激しく咳き込む。

 彼女は必死の形相でプールサイドへと泳ぎ着き、弾かれたように陸へと這い上がった。


 昨日と同じだ。

 彼女はすぐさま、傍らに置いてあったバスタオルへ手を伸ばそうとした。


 しかし、濡れたプールサイドに足を取られ、彼女は無様に転倒してしまった。

 タオルの山が崩れ、彼女の「両足」が、プールの青白い照明の下に無防備に晒される。


「あっ……!」


 清春は、観覧席からその光景をはっきりと目撃してしまった。


 彼女の膝下から足首にかけて。

 人間の肌であるはずの場所に、青白く、ぬらぬらと光を反射する「魚の鱗」がびっしりと覆い尽くしていたのだ。


 それは、美しいというよりは、あまりにも異質で、痛々しい光景だった。

 澪は、自分の足に浮かび上がった鱗を見て、声にならない悲鳴を上げ、パニックに陥ったように両手で自分の足を掻き毟り始めた。


「いやっ……! 消えて、消えてよ……っ! こんなの、見られたら……っ!」


 爪が鱗を擦り、皮膚が赤く腫れ上がっても、彼女は狂ったように自傷行為を止めない。

 その目からは、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちている。


「……おい、やめろ!」


 清春は、気づけば観覧席を飛び出し、階段を駆け下りてプールサイドへと向かっていた。


 事なかれ主義。他人の秘密には関わらない。

 その信条は、彼女のあまりにも悲痛な姿を前にして、あっさりと崩れ去っていた。


「ひっ……!?」


 駆け寄ってくる足音に気づき、澪は弾かれたように顔を上げた。

 視線の先には、エプロン姿の清春が立っている。


 見られた。

 自分の、この醜い化け物の足を。


「あ、あぁ……っ。見ないで……! 来ないで、お願い……っ!!」


 澪は、濡れた身体を丸め、必死に自分の両足を腕で隠そうとしながら、後ずさった。

 彼女の瞳には、かつてないほどの恐怖と絶望が色濃く浮かんでいる。

 自分の水泳人生が、学校生活が、今この瞬間、完全に終わってしまったのだと悟った顔だった。


「……落ち着け、波澄。俺は、誰にも言わない」


 清春は、彼女を刺激しないようにゆっくりと歩み寄り、崩れたタオルの山から一枚のバスタオルを拾い上げた。

 そして、震える彼女の肩から、そのタオルをふわりとかけてやった。


「……え」


「足のこと、だろ。……隠したいなら、今はこれで隠しておけ。風邪引くぞ」


 清春の言葉に、澪は目を丸くした。

 化け物と罵られると思った。悲鳴を上げて逃げられると思った。

 しかし、目の前の先輩は、自分の異形をはっきりと見たはずなのに、まるで「転んで擦りむいた膝」を心配するかのような、平坦で、どこか呆れたような優しい声でタオルをかけてくれたのだ。


「……先輩、見ましたよね……? 私の、この……足」


 澪は、タオルをぎゅっと握りしめながら、震える声で尋ねた。


「あぁ。鱗みたいなのが出てるな」


「……怖く、ないんですか? 気持ち悪くないんですか……!? 私、人間じゃないんですよ! 水に長く入ってると、こんな化け物みたいに……っ!」


 澪の感情が堰を切ったように溢れ出し、彼女はプールサイドに顔を伏せて声を上げて泣き崩れた。

 ずっと一人で抱え込んできた恐怖。

 誰にも理解されない孤独。

 それが、不意に他人に触れられたことで、完全に決壊してしまったのだ。


「……別に、怖くはないさ。世の中には、もっとタチの悪い化け物がいっぱいいるからな」


 清春は、自虐的に苦笑した。

 俺自身が、その最たるものだ。

 怒りで理性を失えば、空間ごとすべてを氷漬けにする最恐の蛇神。

 それに比べれば、水に長く浸かると鱗が出るくらい、可愛い悩みではないか。


『マスター。安易な共感は事なかれ主義に反しますよ。彼女の秘密を共有するということは、彼女の「共犯者」になるという明確なフラグの成立です』


 シキの警告が脳内に響くが、清春はそれを無視した。


「波澄。それが、お前がタイム伸び悩んでる原因なのか。……長く水に入ってられないから」


「……はい。十五分……それを超えると、鱗が出てきて……最悪、足がくっついて、魚の尾鰭みたいになっちゃうんです。だから、途中で上がるしかなくて……」


 澪は、涙を拭いながらぽつりぽつりと話し始めた。


「私、水泳しかないんです。泳いでる時だけが、自分が生きてるって感じられるのに……私の身体は、私からそれを奪おうとするんです。……ひどい、ですよね……」


 自らの血を呪う、悲痛な言葉。

 清春は、彼女のその痛みが、少しだけ分かるような気がした。

 自分の中にある「化け物(清姫)」の力によって、平穏な日常が削り取られていく感覚。

 彼女もまた、自分の意思とは無関係に与えられた『血』によって、人生を狂わされているのだ。


「……波澄。俺は口が堅い。お前の秘密は、絶対に誰にも言わないって約束する」


 清春は、しゃがみ込んで彼女と視線を合わせた。


「だから、あんまり一人で抱え込むな。……俺でよかったら、愚痴くらいなら聞いてやるから」


「……日高、先輩……」


 澪の瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは、絶望の涙ではない。

 自分の醜い秘密を知ってもなお、変わらない態度で接してくれた先輩への、強烈な安堵と救済の涙だった。


 彼女は、タオルを握りしめたまま、清春の胸に顔を押し付けて、子供のように声を上げて泣き続けた。

 清春は、彼女の濡れた髪を不器用に撫でながら、ただその静かなプールサイドで彼女の震えが治まるのを待っていた。


 だが。

 二人の間に生まれた、この「秘密の共有」という小さな絆が。

 プールの水底で蠢く『何か』の食欲を、決定的に刺激してしまったことに、清春はまだ気づいていなかった。


『……警告します、マスター』


 シキの音声が、不意にノイズ混じりになった。


『プールの水質データ……霊的汚染度が、急激に上昇しています。水底に潜んでいた「不純物」が、波澄澪の流した涙……純度の高い人魚の妖力に反応し、活性化を始めました』


「……なんだと?」


 清春がハッとしてプールの水面を振り返る。


 青く静かだったはずの水面が、今はドス黒く濁り、ブクブクと不気味な泡を立てていた。

 そして、塩素の匂いを完全に掻き消すほどの、強烈で腐った魚のような生臭い悪臭が、空間全体に充満し始めていた。


 秘密を打ち明け、安堵に包まれたはずの少女を待ち受けていたのは。

 彼女の極上の「人魚の肉」を貪り喰らおうとする、水底からの恐るべき強襲だった。

 

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