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第27話:水泳部の超新星・波澄澪のスランプ

新キャラ登場です



「……限界だ。息が、詰まる」


 放課後の旧校舎。

 日高清春は、逃げるようにして自分の聖域であったはずの家庭科室から飛び出し、薄暗い廊下で大きく、深く息を吐き出した。


 肺の奥まで入り込んでいた、むせ返るような甘い香水の匂い。

 そして、自分の両腕に絡みついていた、対照的でありながらどちらも暴力的なまでに柔らかい「二つの体温」の感触が、まだ肌に生々しく残っている。


 図書委員の八束綾と、化け猫ギャルの猫宮珠希。

 極度の依存と発情という、異なるベクトルから清春の『匂い』を求める二人の激重ヒロインによって、事なかれ主義の男子高校生が愛した平穏な料理部は、完全に地獄の修羅場ハーレムと化していた。


 お菓子を作ろうとすれば、背中から珠希が飛び乗ってきて首筋の匂いを嗅ぎ回る。

 それを引き剥がそうとすれば、今度は綾が正面からしがみつき、虚ろな目で耳たぶを甘噛みしてくる。

 左右から迫る強烈なフェロモンと甘い喘ぎ声に、清春の男としての理性がゴリゴリと削られ、寿命がマッハで縮んでいく日々。


「……買い出しに行ってくるって言って逃げてきたけど、もうあそこには戻れない。どこか、あいつらの匂いが届かない、無機質な場所……」


 フラフラとゾンビのような足取りで学園内を彷徨っていた清春の足が、ふと、ある建物の前で止まった。


 屋内温水プール棟。

 重厚な防音扉の向こう側からは、微かに水が跳ねる音が聞こえてくる。

 扉の隙間から漏れ出すのは、あの甘ったるい雌たちの匂いを完全に打ち消してくれる、鼻をツンと突くような塩素カルキの鋭い匂いだった。


「ここだ。ここなら、あいつらも追ってこない……」


 清春は、砂漠でオアシスを見つけたような顔で、屋内プールへの扉を押し開けた。


 ムワッ、とした特有の湿気と、青白い光が視界に広がる。

 水泳部の全体練習はすでに終わっている時間帯のはずだった。

 巨大なプールサイドには人の気配はなく、静寂の中で、ろ過装置の低い稼働音だけが一定のリズムで響いている。


 観覧席の隅に腰を下ろし、清春は持ってきたペットボトルの水を煽った。


「……はぁ。やっと、一息つける」


 甘い匂いから解放され、緊張で強張っていた筋肉が少しずつ解れていくのを感じる。

 やはり、事なかれ主義にはこれくらいの孤独と静寂が一番合っているのだ。


 そう思って、誰もいないはずのプールの水面へと視線を落とした、その時だった。


 ザパァッ!!


 青く透き通った水面が大きく波打ち、一人の少女が水飛沫を上げてターンの壁を蹴った。


「……お」


 清春は、少しだけ驚いて目を見張った。

 一人だけ残って、居残り練習をしている部員がいたのだ。


 紺色の競泳水着に身を包み、流線型の無駄のない動きで水を切っていくその姿。

 波澄はすみ みお

 今年入学してきたばかりの一年生でありながら、すでにいくつもの大会で記録を塗り替えている、水泳部の「超新星スーパー・ルーキー」だった。


 清春も、彼女のことは知っていた。

 料理部として、運動部の差し入れ用のクッキーを作った際、お礼を言いに来てくれた礼儀正しい後輩。

 腰まで届きそうな美しい黒髪を水泳帽に押し込み、凛とした表情でストイックに練習に打ち込む彼女の姿は、学園の男子たちの間でも密かなアイドル的存在として語られていた。


「すごいな……。まさに、水を得た魚というか」


 清春は、観覧席から彼女の泳ぎに魅入っていた。

 しなやかな肢体が鞭のようにしなり、一切の無駄な水飛沫を上げずに、滑るように水底を這っていく。

 その美しさは、魚というより、まるでおとぎ話に出てくる『人魚』そのもののように見えた。


 しかし。

 プールの半分を過ぎたあたりで、波澄澪の泳ぎに、突如として明らかな「異変」が生じた。


「……ん?」


 流れるようだった彼女のフォームが、突然、何かに怯えたようにガクンと崩れたのだ。

 水を掻く腕の動きがバラバラになり、足のキックが不自然に止まる。


「ごぼっ……! げほっ、ごほっ!」


 澪は、コースの真ん中でたまらず顔を水面に出し、激しく咳き込んだ。

 コースロープに必死にしがみつき、肩で荒い息を繰り返している。


「……どうしたんだ? 足でもつったのか?」


 清春が心配になって腰を浮かせた、次の瞬間。


 澪は、まるで水の中に「何か恐ろしいもの」がいるかのように、弾かれたようにプールサイドへと這い上がった。

 彼女の顔色は、プールの水よりも青白く、唇はカタカタと震えている。


 そして彼女は、プールサイドに置かれていた大きなバスタオルを引っ掴むと。

 濡れた身体を拭くこともせず、真っ先に自分の「両足(ふくらはぎから太腿にかけて)」を、隠すようにぐるぐるときつく巻きつけたのだ。


「……っ、はぁ、はぁっ……。だめ、また……出ちゃう……っ。早く、乾かさないと……っ」


 澪は、誰かに見られていないかと怯えるような目で周囲をキョロキョロと見回しながら、タオル越しに自分の足を執拗に、痛いくらいの力で擦り始めた。

 その光景は、ただ「足がつった」というようなスポーツ的なアクシデントには到底見えなかった。

 彼女は明確に、自分自身の身体の『変化』を恐れている。


「波澄?」


 清春は、放っておくべきだという事なかれ主義の理性をわずかに抑え込み、観覧席から階段を降りて、プールサイドへと声をかけた。


「ひっ!?」


 清春の声に、澪はビクンッ! と肩を大きく跳ねさせ、タオルで覆った両足をさらに抱え込むようにして後ずさった。

 怯えきった小動物のような目。


「あ、ごめん。驚かすつもりはなかったんだ。料理部から逃げてきて……休んでたら、波澄が苦しそうにしてるのが見えて。大丈夫か?」


 清春が、努めて無害な先輩としての笑顔を作りながら近づく。


「……日高、先輩……」


 相手が清春であると認識すると、澪の強張っていた表情が、わずかに安堵に緩んだ。

 だが、それでも彼女は両足を隠すタオルを決して手放そうとせず、むしろ防護壁のようにぎゅっと握りしめている。


「……お見苦しいところを、お見せしてしまってすみません。……ちょっと、足が攣りそうになってしまって」


 澪は、無理に作った引き攣った笑顔でそう答えた。

 嘘だ。

 怪異という「日常の裏側」にどっぷりと足を突っ込んでしまった今の清春には、彼女が何かを必死に隠そうとしているのが痛いほどによく分かった。


「そっか。最近、タイムが伸び悩んでるって、クラスの男子が噂してたけど。……無理、しすぎないようにな」


「……っ」


 清春の言葉に、澪は痛いところを突かれたように、ギュッと下唇を噛んだ。


「……無理なんて、してません。……私には、これしかないから。泳ぐことしか、取り柄がないから……っ」


 彼女の言葉の端々に、ひどく焦燥感に駆られた、ギリギリの精神状態が透けて見える。

 水泳部の超新星。

 周囲からの期待を一身に背負いながら、彼女は今、原因不明のスランプに陥っている。

 そしてそのスランプの原因は、どうやら技術や体力の問題ではなく、あの「水の中で突然パニックを起こし、足を隠そうとする行為」に直結しているようだった。


「……ごめんなさい、先輩。私、着替えてきます」


 澪は、清春から顔を逸らすと、タオルで足をきつく覆ったまま、逃げるようにして女子更衣室へと駆け込んでいった。


 バタン、と重い扉が閉まる音が、人気のないプールに虚しく響く。


「……なんだろうな。あの、怯え方」


 清春は、彼女がいたプールサイドの水溜まりを見つめながら、小さく呟いた。

 何か、触れてはいけない深い悩みを抱えているのは間違いない。

 だが、俺はあくまで事なかれ主義だ。これ以上、他人のトラブルに首を突っ込むのは御免だった。八束さんと猫宮の二人だけでも、すでに俺のキャパシティは完全に崩壊しているのだから。


 そう自分に言い聞かせて、きびすを返そうとした、その時。


『マスター。一つ、興味深い分析結果が出ました』


 制服のポケットの中で、シキの無機質な合成音声が響いた。


「シキ? なんだよ、また変なバイタルサインでも出たのか?」


『ええ。先ほどの波澄澪のバイタルデータですが……彼女が水に浸かっていた時間と、彼女のストレス値の上昇が「完全に比例」していました』


「水に浸かってる時間と? 水泳部員なんだから、水に浸かるのは当たり前だろ」


『そこが異常なのです。彼女の心拍数と精神のパニック状態は、水中で息が続かなくなったからではなく、「水の中に一定時間以上、身体を浸していること自体」に対する根源的な恐怖から来ています』


「水泳部のエースが、水に浸かるのを怖がってるって言うのか?」


 清春は、信じられないというように眉をひそめた。


『はい。そして、もう一つ』


 シキの音声が、一段階低く、そして警告のトーンを帯びた。


『彼女が泳いでいたプールの水質データに、微量ですが……極めて不純で、生臭い「霊的物質マナ」の混入を検知しました。吸精鬼や怨霊とは違う、水に棲む特有の怪異の痕跡です』


「怪異……? このプールに、何かいるってことか?」


『現時点では断定できません。しかし、彼女のスランプと、この水の中に潜む「何か」の気配。……これは単なる部活動の悩みという枠を超え、学園の霊的バランスの崩壊に直結する事象である確率が高いと推測されます』


「……またかよ」


 清春は、波立つプールの水面を睨みつけ、重い、重すぎる溜息を吐き出した。


 塩素の匂いに紛れて、言われてみれば、微かに泥水のような生臭い匂いが漂っているような気がする。

 事なかれ主義の逃げ場所であったはずのこのプールでさえも、すでに新たな「裏側の事件」の舞台としてセットされてしまっていたのだ。


 水泳部の超新星が抱える、誰にも言えない秘密。

 そして、プールの底で静かに獲物を待ち構える、得体の知れない水妖の影。


 料理部での甘く狂ったハーレムの喧騒から逃れてきた清春を待ち受けていたのは。

 水底の暗闇へと引きずり込まれる、息の詰まるような絶望と、新たな「激重ヒロイン」誕生への冷たいプレリュードであった。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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