第26話:俺の貞操と理性が、連日削られていく
あの一触即発の、家庭科室での「静かなる修羅場」から数日が経過した。
特級怨霊による学園の危機は完全に去り、生徒たちは再び、テストや部活、恋愛話に花を咲かせる平和な日常を取り戻していた。
……そう、学園の九十九パーセントの人間にとっては、平和な日常だった。
残りの一パーセント。すなわち、日高清春の周辺半径三メートル以内においてのみ、そこは依然として「むせ返るような発情と牽制の戦場」であり続けている。
「……はぁ」
朝のホームルーム前。
自分の席に座った清春は、今日ですでに百回目となる重い溜息を吐き出した。
目の下にはうっすらとクマができ、胃の辺りを手で押さえるその姿は、およそ健康な男子高校生のそれではない。
視界の右斜め前。
図書委員の八束綾が、自分の席から身体を半分こちらに向け、じっと、穴が開くほど清春を見つめている。
かつての彼女なら、男子と目が合うだけで震えて視線を逸らしていた。
だが今の彼女は、清春と目が合うと、分厚い眼鏡の奥の瞳を熱っぽく潤ませ、ふにゃりとだらしなく頬を緩めるのだ。
そして、自分の鼻先に両手を当てて、スーッ、と深呼吸をする。
席が離れていても、清春の身体から微かに漏れ出す『匂い』を必死に嗅ぎ取ろうとする、完全に依存しきった末期症状の顔。
(……見られてる。めちゃくちゃ見られてる……。しかも、なんか目がトロンとしてて怖い……っ)
清春が顔を引きつらせて視線を逸らそうとした、その時。
「おっはよー!! キヨッちぃぃぃっ!!」
背後から、鼓膜を突き破るような元気な声と共に、凄まじい質量の衝撃が清春の背中を強打した。
「ぐはっ……!?」
「んん〜っ! すぅぅぅぅぅぅ……っ! あぁっ、今日のキヨッちも、最高に甘くていい匂い……っ! 朝から脳みそ溶けそう……っ」
背中に飛び乗ってきたのは、化け猫ギャルの猫宮珠希だ。
彼女は清春の首に両腕を回してヘッドロックのような体勢をとると、そのまま清春のうなじに顔を埋め、ズズズッ! と音を立てて猛烈に匂いを吸い込み始めた。
「ちょ、おま、猫宮……っ! 朝から重い、苦しい、あと匂い嗅ぐな!!」
「えー? いいじゃん減るもんじゃないし! あたし、キヨッちの匂い嗅がないと、一日元気に過ごせない身体になっちゃったんだから、責任取ってよね!」
珠希は悪びれる様子もなく、むしろ「自分の特等席」とばかりに、ぐりぐりと清春の背中に豊かな双丘を押し付けてくる。
半妖としての彼女の体温は常人より高く、制服越しでもその熱気と、フルーティーな香水に混ざった『雌特有の甘い匂い』がムンムンと伝わってきた。
ギリッ……。
右斜め前から、鉛筆が折れるような音がした。
清春が恐る恐る視線を向けると、先ほどまで蕩けた顔をしていた綾が、瞳からハイライトを完全に消し去り、般若のような形相で珠希を睨みつけていた。
彼女の手の中で、哀れなシャーペンが真っ二つにへし折られている。
「……猫宮さん。朝から、はしたないです。……清春くんが、迷惑してます」
綾の声は、地を這うように低く、冷たかった。
「はぁ? 迷惑してないっしょ! ねぇ、キヨッち?」
珠希が清春の耳元で甘く囁きながら、わざとチロリと舌を出して、清春の耳たぶを舐め上げるような仕草を見せる。
「ひゃうっ……!? ば、馬鹿、やめろ……っ」
「……泥棒猫。清春くんの匂いは、私のだから。……離れなさい」
綾が席を立ち、フラフラとしたヤンデレ特有の足取りで、清春の席へと近づいてくる。
そして、珠希が抱きついているのとは反対側の、清春の左腕をガシッと両手でホールドした。
「……すぅぅぅ……っ。はぁ、……やっぱり、清春くんの匂い……。私、これがないと、生きていけない……っ」
綾は清春の袖に顔を埋め、珠希に対する威嚇の視線を向けながら、これ見よがしに恍惚とした吐息を漏らした。
右からは、耳元で甘い喘ぎ声を漏らす発情ギャル。
左からは、腕に胸を押し付けながら匂いを貪るヤンデレ図書委員。
教室の空気が、完全に凍りついた。
周囲の男子生徒たちからの、殺意すら混じった嫉妬の視線が、清春の全身に突き刺さる。
「おい、なんだよあれ……」
「日高のやつ、いつの間に八束さんと猫宮の二人を侍らせるようになったんだ……!?」
「許せねぇ……! あんな地味なモブのくせに、なんで学園の二大巨乳美少女が、あいつの匂い嗅いで発情してんだよ……っ!!」
男子たちの血の涙を流さんばかりの怨嗟の声。
女子たちからの「日高くんって、あんなだらしなかったっけ……」「なんかちょっと引くよね」という冷ややかなヒソヒソ話。
事なかれ主義。
誰の記憶にも残らず、ただ平穏に卒業までを過ごすはずだった、俺の完璧な擬態。
「……終わった。俺の社会的な立ち位置、完全に崩壊した……」
清春は、両腕を二人の美少女に拘束されたまま、白目を剥いて天を仰いだ。
昼休み。
清春は、どうにか二人のヒロインの隙を突き、逃げるようにして旧校舎の裏手、人気のない渡り廊下の陰へと避難していた。
ゼェ、ゼェと荒い息を吐きながら、壁に背中を預けて座り込む。
「……シキ。……シキ、起きてるか」
清春は震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
『はい、マスター。心拍数、百三十を維持。血圧高め。ストレス値と同時に、ドーパミンおよびテストステロンの分泌量が異常な数値を示しています。……おめでとうございます。完全なるハーレム状態の達成ですね』
画面の中で揺れる緑色の波形が、どこか嘲笑うようなトーンで音声を紡ぎ出す。
「おめでとう、じゃない! どうなってるんだよ! あいつら、昨日より明らかに密着度も、発情具合もエスカレートしてるぞ!」
『当然の帰結です。彼女たちの魂に刻まれたマスター(白鐘の姫)のフェロモンは、時間が経過するごとに彼女たちの細胞と深く結びつき、より強力な「渇望」を引き起こすよう設計されています』
「設計って……。じゃあ、あいつらは一生、俺の匂いがないと生きていけないってことか?」
『その通りです。特に猫宮珠希は化け猫の半妖であるため、あなたの匂いを「生存に不可欠なマタタビ」として認識しています。八束綾もまた、土蜘蛛の血の防衛本能が、あなたの匂いを「絶対的な庇護者の証」として誤認し、深刻な依存状態に陥っています』
シキの容赦のない分析結果に、清春は頭を抱えた。
『現在、彼女たちのマスターに対する依存度は、八束綾が九十八パーセント、猫宮珠希が九十五パーセントと推移しています。これはもはや、恋愛感情という生易しいものではありません。……生物学的な「支配と服従」の完成です』
「……そんなの、俺が望んだことじゃない。俺はただ、あいつらを怪異から助けたかっただけなのに……っ」
清春は、自らの行いが招いた残酷な結果に、激しい自己嫌悪を覚えた。
あんな風に、女の子の理性をドロドロに溶かして、自分なしでは生きられないように縛り付けてしまうなんて。
それは、怪異がやっている魂の搾取と、本質的に何が違うというのだろうか。
『自己嫌悪に陥る必要はありませんよ、マスター。彼女たちは、あなたに依存することで究極の快楽と安心を得ているのです。……推奨アクション。あなたがすべきことは、事なかれ主義という見栄を捨て、彼女たちの「王」として、その身も心も思う存分に蹂躙し、愛でてやることです』
「黙れポンコツAI! 俺は絶対に、そんな変態的な支配者にはならない! 俺は……俺はただの、菓子作りが好きな男子高校生だ!」
清春はスマートフォンをポケットにねじり込み、自らの頬を両手でパンッと強く叩いた。
そうだ、負けてたまるか。
あいつらがどれだけすり寄ってこようと、どれだけ甘い匂いで誘惑してこようと。
俺は絶対に理性を保つ。男としての尊厳を守り抜いてみせる。
固い決意を胸に、清春は午後の授業、そして放課後の「戦場」へと向かった。
放課後、家庭科室。
「……で、なんでこうなるんだよ……」
清春の決意は、家庭科室の扉を開けてからわずか五分で、無惨に打ち砕かれていた。
「んんっ……。キヨッち、今日のお菓子、これ? あーんして?」
調理台の前のパイプ椅子に座らされた清春の膝の上に、猫宮珠希が我が物顔で跨り、清春の首に腕を回して甘えていた。
彼女のスカートの裾がめくれ上がり、健康的な太腿が清春の下腹部に直接触れている。
「じぶんで食え! なんで俺の膝の上に乗るんだよ! 重いし、熱いし、近い!」
「えー? キヨッちの膝の上、すっごく落ち着くんだもん。それに、ここからだとキヨッちの首の匂い、一番嗅ぎやすいし。……すぅぅぅ……っ。はぁ、甘い……っ」
珠希は、ちゅっ、と清春の喉仏にキスを落とし、恍惚とした顔で身悶えした。
膝の上の柔らかな感触が小刻みに震え、清春の男としての理性が、ゴリゴリと音を立てて削り取られていく。
「……泥棒猫。清春くんの膝の上は、私の場所なのに……」
その後ろから、八束綾がヌルリと清春の背中に張り付いてきた。
彼女は清春の後ろから首に腕を回し、珠希を睨みつけながら、清春の耳元で甘く囁く。
「……清春くん。……猫宮さんばっかり、ずるい。……私にも、匂い、ちょうだい……っ。……んちゅっ……」
綾の湿った唇が、清春の耳たぶをすっぽりと咥え込んだ。
「ひゃああっ!!? や、八束さん、だめ、そこは……っ!」
「……はぁっ、んんっ。……清春くんの味、する……。甘くて、……脳みそ、痺れる……っ」
耳元で響く、綾の卑猥な水音と、ヤンデレ特有の重たい愛の囁き。
正面からは、珠希の豊満な胸と、熱を帯びた太腿の感触。
二人の美少女の体温と、全く異なる二つの香水の匂い、そして彼女たちから発せられる「発情した雌のフェロモン」が、清春の思考を完全に白く染め上げていく。
「ちょっと八束さん! 耳舐めるとか反則でしょ! あたしだって!!」
「……邪魔しないで。清春くんは、今、私が気持ちよくしてあげてるの……」
清春の身体の上で、二人のヒロインがバチバチと静かな火花を散らしながら、互いに「より深い密着」を求めて争い続ける。
「ああああああっ!! もう嫌だ! 誰か、誰か助けてくれぇぇぇぇっ!!」
清春は、快楽と絶望が入り混じった悲痛な叫び声を上げた。
だが。
その叫びの裏側で、清春の魂の最も深い場所。
下腹部に巣食う、あの『白鐘の姫』の意識だけは。
自分の匂いという猛毒に当てられ、理性を失って争う二匹の可愛い「雌猫」と「小動物」を見下ろしながら。
――ふふっ。いい気味。私なしでは生きられない身体にしてあげたのだから、這いつくばってでも私の匂いを求めなさい。……私の可愛い、奴隷たち。
どこまでも傲慢で、残酷で、サディスティックな歓喜の笑声を上げていた。
事なかれ主義の男子高校生が、その内なる『牝の捕食本能』に完全に飲み込まれ、彼女たちを本当の意味で「蹂躙」してしまう日は、そう遠くないのかもしれない。
俺の貞操と理性が、連日、限界まで削り取られていく。
胃はキリキリと痛み続けているのに、なぜか下半身には、抗いがたい熱が溜まり続けていた。
こうして、平穏だったはずの料理部は、二人の激重依存ヒロインによる「清春争奪戦」という名の、甘く淫らな地獄の園へと完全に変貌を遂げたのである。




