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第25話:図書委員vs化け猫ギャル。静かなる牽制



 家庭科室の空気は、完全に沸騰していた。


 西日が差し込む密室で、日高清春はパイプ椅子に座らされ、まるで石像のように全身を硬直させていた。

 無理もない。彼の胸元には、完全に理性を失った猫宮珠希が顔を深く埋め、両腕で彼の背中をガシッとホールドしているのだから。


「……んぅ……。キヨッち、いい匂い……。もっと、ここ……」


 珠希の口から、恍惚とした喘ぎ声が漏れる。

 彼女の全身から放たれる熱気と、甘ったるい香水に混ざる「発情した猫」特有のむせ返るようなフェロモンが、清春の鼻腔を容赦なく犯し続けている。

 半妖としてのリミッターが外れた彼女の腕力は凄まじく、清春がどれだけ抵抗しても、彼女の豊かな胸の感触が腹部に押し付けられる状況から逃れることはできなかった。


(やめてくれ。俺の心臓はもう限界だ。誰か、誰でもいいから助けてくれ……!)


 そんな清春の悲痛な心の叫びが、ついに天に届いたのか。


 ――ガララッ!


 不意に、家庭科室の引き戸が開く音がした。


 助かった。誰か来てくれた!

 清春が藁にもすがる思いで入り口へ視線を向けると。

 そこに立っていたのは、数冊の分厚い本を胸に抱えた、図書委員の八束綾だった。


「……あ」


 綾の足が、入り口でピタリと止まる。


 分厚い眼鏡の奥の瞳が、清春と、そして彼にべったりと抱きついている珠希の姿を真っ直ぐに捉えた。

 その瞬間。

 家庭科室の温度が、一気に氷点下まで下がったような錯覚に陥った。


「……八束、さん」


 清春の喉から、引き攣った声が漏れる。


 綾は極度の男性恐怖症だ。本来なら、こんな密着状態を見たら怯えて逃げ出すか、あるいは悲鳴を上げて顔を覆うはずだ。

 しかし、今の彼女は違う。

 彼女の魂には、清春(白鐘の姫)の『匂い』という呪いが深く刻み込まれており、清春を「自分だけの精神安定剤(抱き枕)」として完全に認識しているのだ。


「…………」


 綾は無言のまま、ゆっくりと、しかし確かな足取りで家庭科室の中へと入ってきた。

 その表情からは、普段の怯えきった様子が完全に抜け落ちている。

 代わりに浮かんでいるのは、静かで、冷たくて、それでいてひどくどす黒い「絶対的な独占欲」の色だった。


「……猫宮さん」


 綾の声は、細く、しかしよく通る冷ややかな声だった。


「なんで、あなたが……清春くんに、そんなにくっついているの?」


 その言葉に反応して、清春の胸に顔を埋めていた珠希が、ゆっくりと顔を上げた。

 熱で潤んだ瞳。とろけた表情。

 だが、綾の存在を認識した瞬間、珠希の瞳孔がスッと縦に細く裂け、獣特有の「縄張りを侵された警戒色」が露わになった。


「……なに? 八束さんには、関係ないっしょ。……あたし、今、キヨッちの匂い嗅いでて、すっごく気持ちいいんだから……邪魔しないでよ」


 珠希は清春の腕をさらに強く引き寄せ、自分の胸に押し付けるようにして、綾を威嚇した。

 ゴロゴロ、という低い喉鳴りが、彼女の喉仏を震わせている。


 バチッ!!


 二人の視線が交差した空間で、目に見えない火花が激しく散った。


 清春は、真冬の湖に突き落とされたような悪寒を感じた。

 なんだ、この空気は。

 いつも図書室の隅で大人しく本を読んでいる地味な少女と、クラスの中心で笑っている陽キャのギャル。

 交わるはずのなかった二人が今、俺という「極上のマタタビ(餌)」を巡って、命懸けの静かな牽制を繰り広げている。


「……関係ない、ことない」


 綾は抱えていた本を机の上にドンッと置くと、清春のもう片方の空いている腕――右腕へと近寄り、そのままガシッと両手で掴み取った。


「ちょっ、八束さん!?」


「……清春くんは、私のなの。私が先に見つけたの。……昨日だって、私に一番美味しいお菓子を作ってくれて……私の前でだけ、あの甘い匂いを出してくれたんだから……」


 綾は清春の右腕を自分の胸に抱き込みながら、珠希に対抗するように、清春の肩口に顔を埋めた。


 くんくん、すぅぅぅ……っ。


 彼女もまた、清春の服に染み付いた残り香を、肺の奥底まで深く、深く吸い込み始める。


「……はぁぁっ……。あぁ、やっぱり……清春くんの匂い、一番落ち着く……。私の、私だけの……」


 綾の口から、うっとりとした蕩けるような甘い吐息が漏れる。

 彼女の体温が急激に上昇し、清春の右腕に、彼女の柔らかい双丘の感触がむにゅりと押し付けられた。


「はぁ!? ちょっと、なんなのそれ!」


 珠希が不満げに声を荒げた。


「キヨッちはあたしの幼馴染みたいなもんだし! それに、あたしだって昨日の夜……すっごく甘くて、とろけそうなこと、してもらったんだからね! 八束さんなんかより、絶対あたしの方がキヨッちのこと……キヨッちの匂いのこと、深く知ってるし!」


 珠希が言っているのは「昨夜の姫によるディープキス(解呪)」のことだ。

 彼女の脳内では、その快楽の提供者が、目の前にいる清春の「匂い」と完全にリンクしてしまっている。


「……昨日の、夜……?」


 綾の肩が、ピクッと震えた。

 彼女の分厚い眼鏡の奥の瞳が、スッと細められ、どす黒いヤンデレ特有の光を放つ。


「清春くん。……昨日の夜、猫宮さんに……何をしたの? 私には、あんなに優しくしてくれたのに……私以外の女の子に、あの甘い匂いを嗅がせたの……?」


「ち、違う! 誤解だ! 俺は昨日の夜、ずっと家にいて……っ!」


 清春は必死に言い訳をしようとしたが、二人のヒロインはもはや彼の言葉など一文字も聞いていなかった。


「キヨッちはあたしのマタタビなの! 八束さん、早く手離してよ!」


「……嫌。絶対に嫌。清春くんの匂いは、私のだから。泥棒猫には渡さない……っ」


 珠希が左腕を、綾が右腕を、それぞれ思い切り自分の胸へと引き寄せる。


「ああっ! 痛い痛い! 腕が引き千切れる!!」


 左右から押し付けられる、対照的でありながらどちらも暴力的なまでに柔らかい感触。

 そして、二人の少女の体温が、衣服越しに清春の身体をじわじわと温め、焼き尽くさんばかりの熱へと変わっていく。


「……すぅぅぅ……っ。はぁ、んんっ……。キヨッちの首のところ、一番匂いする……。あぁ、だめ、頭真っ白になりそう……」


 珠希が、清春の首筋に直接鼻を擦りつけながら、甘い喘ぎ声を上げる。

 彼女の熱い吐息が、清春の喉仏を容赦なく撫で回す。


 それを見た綾が、ギリッと奥歯を噛む音を立てた。


「……そんなの、私が一番知ってるもん。清春くんの、耳の裏側……ここの匂い、一番甘くて……脳みそがとろけるんだから……っ」


 綾は背伸びをするようにして、清春の耳元に唇を寄せ、そこから立ち昇る匂いを深く吸い込んだ。


 チロッ。

 彼女の湿った舌先が、無意識のうちに清春の耳たぶを舐め上げた。


「ひゃうっ!!? や、八束さん!?」


「……んちゅ。……あぁ、甘い……清春くん……っ」


 綾の瞳は完全に快楽に濁りきり、男に対する恐怖心など微塵も残っていない。

 ただ、自分を満たしてくれる麻薬の壺に貪りついているような、純粋で淫らな依存の姿。


「ちょっと! 抜け駆けずるい! あたしだって!!」


 負けじと、珠希が清春の反対側の首筋に唇を押し当てる。


 ハムッ、ちゅぅぅ……っ。

 獣のように少し乱暴に、清春の皮膚を吸い上げる生々しい音。


「ああああああっ!! ストップ! 二人ともストップゥゥゥッ!!」


 清春はついに耐えきれず、大声で叫んだ。


 右からは、静かに執着を燃やし、耳を舐め回してくるヤンデレ予備軍の図書委員。

 左からは、本能の赴くままに発情し、首筋に噛みついてくる化け猫ギャル。

 家庭科室は、むせ返るような二人の少女の香水や体臭、そして甘い喘ぎ声に満たされ、完全な淫蕩の空間へと堕ちていた。


『マスター。心拍数、百八十を突破。血圧およびアドレナリンの分泌が致死量に近づいています』


 エプロンのポケットで、シキが楽しげに実況を続ける。


『分析:これは生態系における「優れた雄(あるいは雌)」を巡る、メス同士の高度な縄張り争いです。彼女たちは現在、あなたの匂いというマタタビによって完全に理性を失い、どちらがより深くあなたを独占できるかというマウント合戦を繰り広げています』


(……解説はいらない! 助けてくれシキ! 俺、このままじゃ絞りカスにされちゃう!)


『推奨アクション:ありません。事なかれ主義の男子高校生が、ご自身の圧倒的な魅力(妖力)を制御できなかった結果です。大人しく、両手に花……いえ、両手に狂暴な雌獣を抱えたまま、ゆっくりと理性を溶かされてください』


「……クソがあああああああっ!!」


 清春の魂からの叫びも虚しく。

 綾と珠希の匂い争奪戦は、夕日が完全に沈み、家庭科室が暗闇に包まれるまで延々と続いた。


 服は引っ張られてシワだらけになり、首筋には無数の赤いキスマーク(本人は匂いを嗅いで吸い付いただけと主張するだろうが)が刻まれ。

 清春の体力と気力は、完全にゼロとなっていた。


「……はぁ、はぁっ……。キヨッち、今日はこれくらいにしといてあげる。……でも、また明日、絶対匂い嗅がせてね……」


 珠希は満足げに唇を拭いながら、名残惜しそうに清春の胸から離れ、フラフラとした足取りで帰っていった。


「……清春くん。……猫宮さんの匂い、私が全部上書きしてあげるから。……明日も、一番に来るね……」


 綾もまた、とろけた顔で清春の胸に頬ずりをした後、後ろ髪を引かれるように去っていった。


 誰もいなくなった家庭科室。

 床に崩れ落ちた清春は、虚ろな目で暗い天井を見上げていた。


 平和な日常。お菓子作り。誰にも邪魔されない聖域。

 そんなものはもう、この学園のどこにも存在しない。

 俺の身体から漏れ出す「匂い」が、彼女たちを狂わせ続ける限り、この静かで恐ろしい牽制と搾取の修羅場は、永遠に終わらないのだ。


「……胃薬、買おう……」


 事なかれ主義の少年の絶望は、どこまでも深く、そして限りなく甘く、彼を締め付け続けていた。

 

いやあ


よく我慢できますね!

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