第31話:シキの宣告「マスター、息継ぎの限界まであと十秒」
――ゴボッ、……ッ!!
肺の奥底、最後の砦として残っていた一欠片の空気が、水圧に耐えかねて口から漏れ出した。
それは無数の銀色の気泡となり、どす黒く濁った水面へと力なく昇っていく。それを追いかける余裕など、日高清春にはもう残されていなかった。
視界が、急速に色を失っていく。
泥水に刺された眼球は激痛を訴えるのをやめ、代わりに、真っ白なノイズが脳裏を埋め尽くし始めた。
心臓は、まるで壊れた太鼓のように「ドクンドクン」と不規則に肋骨を叩いている。一回脈動するたびに、酸素を失った血液が脳から意識を削り取っていくのが分かった。
(……あ、……ぁ。……波澄……)
暗い水底。
水妖の醜悪な触手に絡め取られ、巨大な口へと引きずり込まれていく後輩の姿が、揺れる視界の隅に見える。
繋いでいた手は、もうとっくに離れてしまっていた。
伸ばそうとした腕は、鉛のように重く、指先一つ動かすことさえ叶わない。
これが、人間という生き物の限界。
理不尽な怪異の暴力に、ただ溺れ、喰らわれ、消えていくのを待つだけの、無力な存在。
『――マスター。脳内酸素濃度、臨界点を突破。自律神経系に深刻なダメージを検知しました』
泥水で塞がれた鼓膜の奥に、シキの無機質で冷徹な声が直接響く。
それはもはや日常のツールとしての言葉ではなく、死の淵へと誘う宣告のように聞こえた。
(……わかってる、……シキ。……やれ。……今すぐだ……)
清春は、魂の最下層からその言葉を捻り出した。
『了解。ロック解除、承認。大妖怪「白鐘の姫」の妖力コア、強制共鳴を開始します。……警告。マスターの現在の心肺機能では、変身に伴うエネルギー負荷に耐えられません。意識を保っていられる時間は――残り、十秒です』
十秒。
あまりにも短く、絶望的な猶予。
だが、その十秒が、清春にとっての「人間の命」の残り時間だった。
――ドクンッ!!
十。
腹部の奥底で、冷え切っていたはずの「熱」が爆発した。
それは、清春の体内に封印されていた白鐘の姫の妖力そのもの。
極寒の冷気でありながら、同時に肉体を内側から焼き焦がすような猛毒の熱だ。
九。
骨が、悲鳴を上げた。
男子高校生としての骨格が、内側から凄まじい圧力によって粉砕され、しなやかで強靭な「雌」の形へと組み替えられていく。
メキメキ、ミシミシと、水中にあってもはっきりと聞こえるほどの不気味な軋み音が、清春の全身を駆け巡る。
八。
筋肉が溶け、皮膚が剥がれ落ちるような感覚。
泥水にまみれていた不恰好な身体が、抜けるように白い、真珠のような輝きを放つ肌へと変質していく。
肩幅が狭まり、腰がくびれ、胸元に柔らかな重みが生まれる。
意識は混濁しているはずなのに、その「女性化」していく肉体の官能的な痛みが、清春の脳を激しく蹂躙した。
七。
肺が、限界を迎えた。
空っぽになった胸の内に、汚れた泥水が容赦なく流れ込んでくる。
溺死の苦しみが、清春の意識を真っ白に塗りつぶそうとする。
だが、その瞬間に。
体内の妖力コアから溢れ出した冷気が、気道に流れ込んだ水を瞬時に「純粋な魔力」へと置換した。
人間としての肺呼吸が死に、大妖怪としての「魔力循環」が産声を上げた。
六。
視界の半分が、白銀に染まる。
短かった黒髪が、突如として爆発するように伸び始めた。
銀色の長い髪が、水中でゆらゆらと広がり、まるで生き物のように澪の方へと伸びていく。
それは死者の髪ではなく、天から降り注ぐ白銀の糸のように、濁った水底で神々しい光を放ていた。
五。
……!?
水妖の動きが、一瞬だけ止まった。
自分よりも遥かに上位の、絶対的な「捕食者」の気配。
水底の支配者として傲慢に振る舞っていた泥の化け物が、本能的な恐怖を覚え、触手を震わせる。
四。
澪が、ゆっくりと目を開けた。
死を覚悟し、絶望に沈んでいた彼女の瞳に。
自分を助けようとして溺れていた、あの優しい先輩がいたはずの場所。
そこに現れた、この世のものとは思えないほど美しく、そして恐ろしい「何か」の姿が映った。
(……あ、……れ。……だれ、なの……?)
三。
清春の意識が、完全に「清姫」のそれと融合を開始する。
男としての「助けたい」という情動。
大妖怪としての「不快な泥を排除したい」という支配欲。
二つの感情がドロドロに混ざり合い、一つの冷酷な殺意へと昇華されていく。
(私の玩具に触れるな。汚らわしい塵共が)
二。
純白のドレスが、水中で扇情的に広がる。
薄い布地が、変容を完了した完璧な肢体に吸い付き、人間離れした美しさを強調する。
手足の指先には、氷のように鋭い爪が伸び、金色の蛇の瞳が、暗闇の中で爛々と輝き始めた。
一。
時間が、止まった。
シキのカウントダウンが終わり、清春という「人間」の命は、この泥水の底で一度完全に途絶えた。
代わりに。
数百年もの間、氷河の底で眠り続けていた最恐の捕食者が、ついにその重い瞼を持ち上げた。
『――変身シーケンス、完了。白鐘の姫、完全覚醒』
ゼロ。
カッ!!
その瞬間、暗黒の水底で、太陽が爆発したかのような白銀の閃光が放たれた。
「――うるさいわね。水底の羽虫が、私の庭でこれ以上蠢かないで頂戴」
本来、水中で声が出るはずがない。
だが、その鈴を転がすような、冷酷で美しい女の声は、プールの壁を、水の分子を、そして澪の魂を直接震わせて響き渡った。
姫が、水中で優雅に右腕を掲げた。
ただそれだけの動作で、周囲の泥水が、彼女を畏怖するように一気に押し広げられ、そこだけが「聖域」のような透明な空間へと浄化されていく。
「ギ、ギャアアアアアアッ!?」
水妖が、耐え難い恐怖に悲鳴を上げた。
触手が一瞬で凍りつき、自身の巨体が、逃れようのない絶対零度の冷気に囚われたことを悟ったのだ。
澪は、ただ呆然とその光景を見上げていた。
目の前に立つ、銀髪の女神。
自分を抱き寄せようと伸ばされたその白い腕からは、死の淵でさえも抗いがたい、むせ返るように甘く、冷たい匂いが立ち昇っていた。
(……ああ。……きれい。……りゅうじん、さま……?)
朦朧とした意識の中で、澪はそう確信した。
自分たち人魚の血を導く、絶対的な上位者。水と氷を司る、伝説の神。
それが、自分の命を救うために降臨したのだと。
清春の理性が消え、白鐘の姫としての意識が完全に表層を支配する。
彼女の冷酷な金色の瞳が、獲物を仕留める蛇のように、震える水妖を捉えた。
「十秒。……たったそれだけの時間すら、あなたたちに与える必要はなかったわね」
姫の唇が、サディスティックな愉悦に歪む。
プールの底。
命の終わりが、蹂躙の始まりへと変わる。
最恐の蛇神による、泥水の中での冷酷な「処刑劇」が、今まさに幕を開けようとしていた。
変身シーンって萌えますよね




