第22話:特級の呪いvs最恐の蛇神
バンッ!!
重厚な扉が、日高清春の蹴りによって内側へと乱暴に弾け飛んだ。
特別教室。
かつて火災があったというその空間は、もはや現世の物理法則から完全に切り離された「異界の胃袋」そのものだった。
床、壁、天井のすべてが、赤黒く脈打つ泥濘の膜で覆い尽くされている。
その泥の中から、何百、何千という人間の顔が浮かび上がっては、声にならない怨嗟の絶叫を上げてドロドロに溶けていく。
鼓膜を突き破らんばかりの呪詛の嵐。
呼吸をするだけで肺が腐り落ちそうなほどの、強烈な瘴気と死の匂い。
そして。
その巨大な空間の中央、赤黒い怨念の海から突き出た巨大な「泥の柱」の頂点に。
「……猫宮……っ!!」
清春の喉から、悲痛な叫び声が絞り出された。
宙に浮くようにして、無数の黒い触手――呪いの蔦に全身を縛り付けられているのは、紛れもなく猫宮珠希だった。
ルーズに着崩していた制服は無惨に引き裂かれ、露出した彼女の健康的な肌は、今は死人のように土気色に染まっている。
そして、その白い肌の上を、まるで黒い血管のように毒々しい「呪いの紋様」が這い回り、彼女の生命力を一滴残らず吸い上げようとしていた。
「キ……、ヨ……」
珠希の口から、微かな声が漏れた。
焦点の合わない、光を失った瞳。
特級怨霊『餓鬼の揺り籠』は、今まさに、彼女の魂を完全に消化し、新たな器として飲み込もうとする最終段階に入っていた。
『マスター。対象のバイタルサイン、危険域を完全に突破しました。魂の融解率、九十五パーセント。……これ以上は、一秒の遅れが致命傷になります』
シキの冷徹なアラートが、脳内で赤く点滅する。
――あぁ、なんて無惨な姿。
清春の奥底から、鈴を転がすような女の声が響いた。
それは、同情ではない。
自分の所有物である愛らしい玩具が、薄汚い泥の化け物に弄られ、破壊されようとしていることに対する、底知れない「怒り」だった。
――私の許可なく。私が唾をつけた雌猫を、あんな汚らわしい触手で汚して。……万死に値するわ。
ドクン!!
清春の心臓が、人間の限界を超えた速度で跳ねた。
視界が真っ赤に染まり、続いて、絶対零度の白銀に裏返る。
男としての「助けたい」という正義感は、大妖怪としての「獲物を汚された怒りと支配欲」によって完全に塗り潰された。
「……シキ。全部、解除しろ。一瞬で終わらせる」
『了解しました、マスター。魂の封印、強制解除。大妖怪「白鐘の姫」への変身シーケンス、実行します。……推奨アクション。すべてを氷結し、女王の怒りを思い知らせてください』
直後。
特別教室の赤黒い闇を、目も眩むような白銀の閃光が切り裂いた。
骨が組み替わる凄まじい軋み音。
筋肉が溶け、男としての粗野な肉体が削ぎ落とされ、この世のすべての美を凝縮したような極上の「雌」へと再構築されていく。
抜けるように白い肌。
月明かりを編み込んだような、床まで届く白銀の長髪。
そして、胸元を扇情的に強調し、人間離れした肢体の曲線を際立たせる純白のドレス。
光が収束した時。
そこには、事なかれ主義の男子高校生の姿は消え失せ、代わりに、絶対的な神威と冷気を纏った絶世の美女が立っていた。
彼女の燃えるような金色の瞳が、縦に細く裂け、冷酷な蛇の光を放つ。
「……本当に、不快な匂い」
白鐘の姫の赤い唇から、妖艶で、そして背筋が凍るほど冷え切った声がこぼれ落ちた。
ピキィィィィィッ!!
姫が言葉を発した瞬間。
彼女の足元から、凄まじい冷気の波動が円状に広がり、怨念でドロドロに脈打っていた床を、一瞬にして白銀の氷河へと変えた。
「ギ、……ォォォォォォォォォォォッ!?」
空間を支配していた特級怨霊が、突如として現れた異物に気づき、地鳴りのような咆哮を上げた。
泥の壁から浮かび上がる無数の顔が一斉に姫を睨みつけ、彼女を新たな餌として認識する。
泥の海が波打ち、何十本という極太の触手が、槍のような鋭さで姫へと向かって殺到した。
一つ一つが、触れれば魂を腐らせる猛毒の呪いを帯びている。
「身の程を知りなさい。カスが」
姫は、迫り来る死の触手の群れを前にしても、一歩も退かなかった。
それどころか、退屈そうにため息をつきながら、右手を軽く前へと払った。
たったそれだけの動作。
しかし、その優雅な指先から放たれたのは、絶対零度の防壁を伴う「暴風」だった。
ガキィィィンッ!!
姫に迫っていた数十本の泥の触手が、彼女に触れる数メートル手前で、見えない氷の壁に激突したように硬直した。
そして、激突した先端から、凄まじい速度で白い霜が這い上がっていく。
「ギャァァァァァァァァッ!?」
怨霊がパニックに陥り、触手を引き戻そうとする。
だが、遅い。
姫の冷気は、物理的な温度低下ではなく、対象の存在そのものを「死の氷」で封じ込める概念的な凍結だ。
数十本の触手は、根元まで瞬く間に凍りつき、パシャンッ! という甲高い音と共に、無数の氷の破片となって粉々に砕け散った。
圧倒的。
特級怨霊と呼ばれる、この土地を何十年も脅かしてきた化け物でさえも、生態系の頂点に君臨する神の前では、ただの脆弱な泥の塊にすぎない。
「……私の獲物を勝手に食い散らかしておいて、その程度の力しかないの? 拍子抜けだわ」
姫は、氷の破片が舞い散る中を、カツン、カツンとヒールを鳴らして歩みを進めた。
彼女が一歩進むたびに、特別教室の異界が、彼女の領域である白銀の氷河へと塗り替えられていく。
赤黒い瘴気が、空中でダイヤモンドダストとなって凍り落ちる。
怨霊は、自らの領域が圧倒的な力によって上書きされていくことに、ついに本能的な「恐怖」を覚えた。
「オォォォォォォォォォォォッ!!」
怨霊の本体である巨大な泥の柱が、珠希を絡め取ったまま、激しく波打った。
それは、姫を倒すためではない。
これ以上の戦闘を放棄し、餌(珠希)だけを抱え込んで、空間の次元の狭間へと逃げ込もうとする防衛本能の発露だった。
「逃がすわけないでしょう? 私から奪ったものを、そのまま持ち去れると思っているのなら……本当に、頭が空っぽなのね」
姫の金色の瞳が、残酷な愉悦に細められた。
彼女は、純白のドレスの裾を揺らしながら、右手を高く天へと掲げた。
その指先に、部屋中の冷気が一点に集束していく。
それは、図書室で吸精鬼の群れを全滅させた時とは比べ物にならない、超高密度の妖力の結晶。
「……這いつくばりなさい。そして、永久の氷の底で砕け散るがいいわ」
姫が、掲げた右手を、指揮者がタクトを振り下ろすように、真っ直ぐに怨霊の本体へと向けて振り下ろした。
カッ!!
特別教室の空間が、文字通り「白く飛んだ」。
それは、光線でも吹雪でもない。
空間そのものの熱量を、ゼロコンマ一秒で絶対零度まで強制的に引き下げる、神の一撃。
「ギ、……ォ、……ァ……」
次元の狭間へ逃げ込もうとしていた巨大な泥の柱が、その瞬間に、ピタリと動きを止めた。
赤黒く波打っていた泥が、下から上へと、凄まじい速度で白濁していく。
表面に浮かんでいた無数の人間の顔が、苦痛に歪んだまま、氷の彫刻となって固定される。
怨霊が発していた瘴気も、呪いの波動も、すべてが分厚い氷の層の中に完全に封印された。
静寂。
数秒前までの地獄の喧騒が嘘のように、特別教室は、青白い月光とダイヤモンドダストが舞う、美しくも冷酷な結晶の世界へと変貌を遂げた。
『マスター。特級怨霊「餓鬼の揺り籠」、完全な活動停止を確認。……対象の霊的構造は崩壊し、ただの氷塊と化しました。見事なオーバーキルです』
シキの合成音声が、勝利を告げる。
――当然よ。こんな泥人形に、私を満足させられるわけがないわ。
姫は、自らが創り出した巨大な氷のオブジェ(怨霊の成れの果て)を見上げ、退屈そうにふっと息を吐いた。
そして。
パシィィィィィンッ!!!
姫が指をパチンと鳴らした瞬間。
天井まで届くほどの巨大な氷の柱が、内側から弾け飛んだ。
数万トンはあろうかという氷の塊が、ただの微細な光の粒子となって四散し、怨霊という存在自体が、この世から完全に消滅した。
その光の粉が舞い散る中。
氷の戒めから解放された一人の少女が、力なく宙から落ちてきた。
「……捕まえた」
姫は、軽やかな足取りで前へと進み出ると、落下してきた珠希の身体を、自らの純白の腕の中に優しく抱きとめた。
腕の中の珠希は、氷のように冷たく、ひどく軽かった。
呼吸は浅く、途切れ途切れで、生命の灯火が消えかかっているのが分かる。
怨霊の本体を滅ぼしたとはいえ、すでに彼女の魂には、致死量の「呪いの毒」が回りきっていた。
『マスター。分析が完了しました。彼女の魂が、特級の呪いを受けながらも今まで完全に融解せず持ち堪えていた理由が判明しました』
シキの音声が、少しだけ驚きを孕んだトーンで響く。
「理由?」
『はい。猫宮珠希のDNAには、人間ではない因子……妖怪『化け猫』の血が混ざっています。彼女は、自身でも気づいていない無自覚な「半妖」です』
その言葉を聞いた瞬間、姫の意識の奥底で、男としての清春の自我が「あっ」と腑に落ちた声を上げた。
(化け猫の半妖……。だからか。だからあいつは、あんなに距離感がバグっていて、いつも野性的な熱を持っていて、匂いにあんなに敏感だったのか)
パーソナルスペースを無視して背中に飛び乗ってくるのも、手作りのお菓子を誰よりも美味しそうに頬張るのも、すべては彼女の中に眠る「猫」としての本能だったのだ。
――ふふっ。なるほどね。ただの騒がしい小動物かと思っていたら、私と同じこちら側(妖怪)の血を引いていたのね。
姫は、腕の中で微弱な吐息を漏らす珠希の顔を見つめ、嗜虐的な、そして酷く妖艶な笑みを浮かべた。
「……あ、……」
珠希が、微かに目を開けた。
濁りきった瞳に、自分を抱きかかえる絶世の美女の顔が映る。
「……だれ……。すごく、……きれ、い……」
死の淵にありながら、珠希の口からこぼれたのは、恐怖ではなく、圧倒的な美に対する感嘆の吐息だった。
彼女の鼻腔を、姫から放たれる「あの匂い」がくすぐる。
昼間、清春の胸元から微かに漂っていた、甘くて、冷たくて、どうしようもなく身体の奥を疼かせる、あの極上の匂い。
彼女が化け猫の半妖だからこそ、その嗅覚は誰よりも鋭く、そして本能は誰よりも残酷に「真実」を理解してしまう。
目の前にいる存在から発せられる匂いは、猫にとっての極上のマタタビであり、同時に「絶対服従すべき上位者」の証なのだと。
「……本当に、無防備で可愛い子」
姫の冷たい指先が、珠希の首筋に浮かぶ黒い呪いの紋様を、ゆっくりとなぞった。
特級の怨霊は死んだ。
しかし、この半妖の少女を救うための「儀式」は、ここからが本番だ。
男の理性を捨て去った最恐の捕食者による、呪いごと魂を舐め取る、甘く、淫らで、一生消えない「消毒」という名のマーキングが、今まさに始まろうとしていた。




