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第21話:退魔師・御子柴の介入と足止め



 赤黒い怨念の泥が蠢く、異界と化した旧校舎の廊下。

 その最深部へと続く一本道で、日高清春の足は完全に止められていた。


 目の前に立ち塞がっているのは、学園の絶対的な規律の象徴であり、裏の世界では名を馳せる御子柴家の若き退魔師――生徒会長の御子柴天音だった。


 紫色の不気味な月明かりが、彼女の鮮やかな金色の長い髪を照らし出している。

 穢れた泥濘の空間にあって、彼女が立つ半径数メートルだけは、清浄な空気が保たれた絶対不可侵の領域となっていた。

 足元に伏せる二頭の巨大な「犬神」は、青白い霊的な炎をたてがみのように揺らし、暗闇の中に立つ清春(不審者)に向かって、低く、威嚇するような唸り声を上げている。


「……答えなさい。そこにいるのは、何者だ」


 天音の凛とした声が、怨嗟の声を切り裂いて響いた。

 彼女の手に握られた白木の刀が、スッと清春の喉元へ向けられる。


「この先は、特級怨霊『餓鬼の揺り籠』の巣の中心。生きた人間が足を踏み入れていい場所ではない。それとも……お前も、あの怨霊に引き寄せられた別の怪異か?」


 彼女の眼光は鋭く、微塵の隙もない。

 その完璧なまでの強者としての立ち振る舞い。誰にも媚びず、自らの力と使命に絶対的な誇りを持っている、孤高の雌犬。


 それを見た瞬間だった。


 ドクンッ!!


 清春の心臓が、肋骨を突き破りそうなほどの勢いで跳ね上がった。


 下腹部の最も深い場所から、泥のように重く、そしてマグマのように熱い欲望の塊が、全身の血管を駆け巡る。

 それは、事なかれ主義の男子高校生としての感情ではない。

 清春の魂の奥底に巣食う、大妖怪『白鐘の姫』としての、純度百パーセントの支配欲と、サディスティックな発情だった。


 ――あぁ、なんて美しいのかしら。あの凛とした瞳、張り詰めた背筋。


 脳髄に、甘く残酷な女王の声が反響する。


 ――私の庭で、私以外の者が『王』のように振る舞っているなんて。……今すぐ、あの細い首に冷たい鎖を巻きつけて、冷たい床に這いつくばらせてあげたいわ。あの誇り高い顔が、恐怖と快楽に歪んで、私にすがりついて泣き叫ぶまで、徹底的に蹂躙して、私の匂いで染め抜いてあげたい。


「……っ、ふ、ぐぅ……!」


 清春は、暗闇の中で、必死に奥歯を噛み締めた。

 額から脂汗が滲み出す。

 理性のタガが外れそうになる。今すぐ変身のトリガーを引き、あの青白い炎ごと天音を氷漬けにして、彼女の唇から誇りを奪い去ってしまいたいという、狂おしいほどの衝動。


 目の前には、最高の獲物(退魔師)。

 だが、その奥には、命のタイムリミットが迫っている愛らしい玩具(猫宮珠希)が待っている。

 清春の精神は、二つの強烈な「牝の捕食本能」に挟まれ、引き裂かれそうになっていた。


『マスター。バイタルサインの異常を検知。警告します、今ここで御子柴天音と正面衝突すれば、特級怨霊の刺激と相まって、空間が完全に崩壊するリスクがあります。何より、猫宮珠希の魂が持ちません。……残り時間、限界に近づいています』


 シキの冷徹なアラートが、熱に浮かされそうになっていた清春の意識に、一筋の氷水を浴びせかけた。


(……分かってる。分かってるさ)


 清春は、激しい呼吸をどうにか抑え込みながら、心の中でシキに答えた。


 俺の目的は、あくまで猫宮珠希の救出だ。

 ここで生徒会長と派手な殺し合い(蹂躙劇)を演じている暇はない。それに、ここで正体を晒してしまえば、明日からの平穏な学園生活は二度と戻ってこない。


(シキ。どうする。あいつを退かせる方法は)


『推奨アクション:幻術によるステルスと、局所的な「絶対零度の冷気」による足止めです。マスターの体内に蓄積された妖力の一部を解放し、空間に蜃気楼を作り出して御子柴天音の視覚と嗅覚を欺きます。一瞬の隙を突き、最深部への扉をすり抜けてください』


(幻術と、冷気……。よし、やるしかない)


 清春は、暗闇のコートを深く被るように、自らの身体から薄い「冷気の靄」を発生させた。

 男としての姿を白くぼやけさせ、シルエットだけを闇の中に浮かび上がらせる。


「……答えないというのなら、容赦はしない。消え去りなさい、悪霊!」


 天音が鋭く叫び、白木の刀を振り下ろした。

 それを合図に、足元に伏せていた二頭の犬神が、咆哮と共に猛烈な勢いで清春へと飛びかかってくる。


 青白い浄化の炎が、清春の身体を焼き尽くそうと迫る。

 だが、清春は一歩も退かなかった。

 ただ、ゆっくりと、右手の人差し指を犬神たちへ向けた。


 ――退きなさい。薄汚い犬っころ。


 清春の口から漏れたのは、低い男の声と、鈴を転がすような美しい女の声が、不気味に重なり合ったものだった。


 ピキィィィィィッ!!


 指先から放たれた極低温の冷気が、廊下の空間そのものを瞬時に凍結させた。

 飛びかかってきた二頭の犬神は、清春の身体に触れる数メートル手前で、青白い炎を纏ったまま、完全に空中で氷像と化して静止した。


「なっ……!? 犬神が、一瞬で凍らされた……!?」


 天音の美貌が、驚愕に歪む。

 彼女の使役する犬神の炎は、霊的なものを焼き尽くす絶対の力を持つ。物理的な氷などで防げるものではない。

 それを、一瞬で、しかも妖力の残滓だけで完全に氷結させる存在。


 それは、彼女がこれまで対峙してきたどんな怪異とも次元が違う、生態系の頂点に君臨する神にも等しい力だった。


「……お前は、まさか……」


 天音が身構え直した、その瞬間だった。


 凍りついた犬神の間をすり抜けるようにして、白い靄に包まれた清春のシルエットが、音もなく天音の目の前へと滑り込んできた。

 縮地にも似た、人間離れした歩法。


「くっ……!」


 天音が白木の刀で迎撃しようとする。

 だが、彼女の動きは、清春が発した「あるもの」によって、強引に縫い止められてしまった。


 それは、匂いだった。


 極寒の冷気と共に放たれた、むせ返るほどに濃密で、酷く甘い、香水のような匂い。

 退魔師としての清浄な気で満たされていたはずの天音の肺に、その『猛毒』が容赦なく侵入した。


「あ……っ!?」


 天音の呼吸が、ヒュッと止まった。

 刀を握る手に力が入らない。

 脳髄を直接撫で回されるような、強烈な痺れと快楽。

 恐怖よりも先に、雌としての本能が、その絶対的な美しさと匂いを持つ存在の前に「服従」の姿勢を取ろうと、身体の自由を奪ってしまったのだ。


 ――あぁ、本当に良い顔。そのまま、私の匂いを肺の奥まで吸い込みなさい。


 すれ違いざま。

 天音の耳元で、白銀の冷気を纏ったシルエットが、極上に甘く、残酷な声で囁いた。


 それは、幻術によって天音の脳に直接送り込まれた、大妖怪『白鐘の姫』の声だった。


「……っ、ぁ……、誰……」


 天音は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、刀を杖にしてなんとか立ち留まった。

 顔は紅潮し、凛としていた瞳は、匂いに当てられて熱っぽく潤んでいる。


 ――今日は、お預けよ。可愛い番犬さん。私の玩具を片付けたら、次はあなたが泣く顔を、じっくりと味わってあげる。


 チュッ、と。

 幻覚の冷たい唇が、天音の耳たぶを甘く噛んだような感触がした。


「ひゃああっ!?」


 天音の口から、彼女の人生で一度も出したことのないような、甘く淫らな悲鳴が漏れた。

 全身の力が抜け、ついに彼女はその場にへたり込んでしまう。

 退魔師としての誇りも、生徒会長としての威厳も、たった一瞬のすれ違いと匂いの散布だけで、無残に泥に塗れてしまった。


 天音が荒い息を吐きながら顔を上げた時、すでにそこに不審者の姿はなかった。

 ただ、空間に漂うあの恐ろしくも甘美な匂いと、空中に残された白銀の霜だけが、確かに「それ」が存在したことを証明していた。


「……あぁ……っ、はぁっ……。あの、匂い……。私、は……」


 御子柴天音は、自らの胸を強く押さえながら、未知の恐怖と、それを上回る抗いがたい「魅了」の熱に震え続けていた。


 ◆


 一方、天音を足止めし、幻術の靄に紛れてすり抜けることに成功した清春は、廊下のさらに奥へと駆け込んでいた。


「はぁっ、はぁっ……! シキ、抜けたぞ! 猫宮はどこだ!」


『マスター、よく理性を保ちました。見事なステルスです。……対象の魂の反応は、この廊下の突き当たり。特別教室の内部に完全に幽閉されています』


 清春の目の前に、黒い泥濘に覆われた、重厚な扉が現れた。

 封印の注連縄は引きちぎられ、扉の隙間からは、絶え間なくどす黒い呪いの煙が噴き出している。


 この奥に、あのギャルが囚われている。

 特級怨霊に全身を弄られ、呪いの毒で魂を溶かされている。


「……待ってろ、猫宮。今、助けてやるからな」


 清春は、冷気を纏った右手を、黒い泥に覆われた取っ手へと伸ばした。


 ここから先は、隠密行動など意味を成さない。

 純粋な力のぶつかり合い。理不尽な暴力を、さらに理不尽な暴力で叩き潰すだけの、血みどろの蹂躙劇だ。


『マスター。猫宮珠希のバイタル低下、最終フェーズに移行しました。……推奨アクション。すべてを解放し、女王の御前を汚す塵共を、一匹残らず消去してください』


「あぁ。……言われなくても、やってやるさ」


 清春は、瞳に冷酷な蛇の光を宿しながら、特級怨霊の巣窟へと続く扉を、力任せに蹴り開けた。

 地獄の釜の底で、最恐の『姫』が、ついに完全なる目覚めの時を迎えようとしていた。

 

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