第15話:翌日。匂いに当てられた図書委員が、俺の袖を掴んで離さない件
本日3話目です
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朝。
教室の自分の席に座った日高清春は、まるで三日三晩徹夜で砂漠を歩き続けたかのような、死人のような顔をしていた。
胃が痛い。
昨夜からずっと、キリキリと内臓を雑巾絞りにされているような鈍痛が続いている。
周囲では、クラスメイトたちが「なんか昨日から急に体調良くなったよね」「旧校舎の変な空気も消えた気がする」と、呑気な会話を交わしている。
原因不明の貧血事件は、あの夜を境に嘘のように終息し、学園には元の平和な空気が戻ってきていた。
……そう、学園の平和は戻ったのだ。
俺が、自分の中の『化け物』を解放し、あの吸精鬼どもを空間ごと氷の塵に変えて、一掃してやったおかげで。
(……いや、問題はそこじゃない。怪異を倒したこと自体はいいんだ。問題は、そのあとだ……っ)
清春は、机に突っ伏して両手で頭を抱えた。
昨夜の記憶。
絶対的な力で怪異を蹂躙し、恐怖に震える八束綾を壁際に追い詰め、そして。
――私が、印を刻んであげる。……光栄に思いなさい。
そんな、思い出すだけで舌を噛み切りたくなるような恥ずかしい台詞と共に、彼女の唇を奪い去った感触。
交わった舌の生々しい熱。
自分の妖力を流し込むたびに、彼女の身体がビクンビクンと跳ね、涙目で俺の肩にしがみついてきた、あの甘く淫らな吐息の音。
「……あぁぁぁ……っ、死にたい……俺はなんてことを……っ」
男の体に戻った今、それはただの「極悪非道なセクハラ犯罪」でしかなかった。
相手は、極度の男性恐怖症で、いつも怯えるように本を読んでいた大人しい図書委員なのだ。
いくら怪異を遠ざけるための匂い付け(マーキング)という大義名分があったとはいえ、やりすぎだ。完全に理性が『牝の捕食者』の欲求に負けていた。
『マスター。心拍数の乱れと、極度の自己嫌悪を検知。しかし、ご安心ください』
制服のポケットの中で、シキが直接脳内に語りかけてくる。
『あの一連のマーキング行為は、対象の網膜と記憶には「絶世の美女(白鐘の姫)」として認識されています。日高清春という平凡な男子高校生が、あの変態的で情熱的なディープキスの主であるとバレる確率は、限りなくゼロに近いでしょう』
「……それは、分かってるけど」
清春は、机に顔を押し付けたまま小さく呟いた。
そうだ。バレるはずがない。
あんな神がかった美貌の妖怪と、事なかれ主義の地味な自分が同一人物だなんて、誰が想像できるだろうか。
八束綾にとっても、あれは「謎の美しいお姉様に助けられ、強引にキスをされた」という、少し百合がかった不思議な体験として記憶されるだけだ。
だから、俺の日常は守られる。
今日からも今まで通り、彼女とはクラスメイトとして、適度な距離を保った「ただの顔見知り」として接すればいいだけのこと。
そう、何も問題はないはずなのだ。
しかし。
そんな清春の淡い期待は、放課後、あっさりと音を立てて崩れ去ることになる。
六時間目の授業が終わり、清春は重い足取りで旧校舎へと向かっていた。
家庭科室に行く前に、どうしても確認しておかなければならない場所があったのだ。
図書室である。
昨夜、あれほどの吹雪を巻き起こし、本棚ごと空間を氷漬けにしてしまった。
いくら異界化していたとはいえ、物理的な破壊痕が残っていれば大問題になる。
ギィィ……と、恐る恐る図書室の扉を開ける。
「……あれ?」
清春は、拍子抜けして声を漏らした。
西日に照らされた図書室は、埃一つなく、本棚も綺麗に整頓され、昨夜の地獄のような惨状も、白銀の氷の城となった形跡も、欠片ほども残っていなかった。
『報告します、マスター。大妖怪の妖力によって生成された氷は、現世の物理法則に定着することなく、役目を終えると空気中のマナ(霊子)へと昇華して消滅します。破壊された備品も、異界化の解除に伴い、元の状態へと修復された模様です』
(……なるほど。便利な能力だな)
清春はホッと胸を撫で下ろした。
これで完全に証拠は隠滅された。
あとは、誰もいないこの空間を後にして、家庭科室で平穏にお菓子を焼くだけだ。
そう思って、踵を返そうとした、その時だった。
「……あ」
書架の奥から、一人の少女が姿を現した。
八束綾だ。
手には返却用の本を数冊抱えている。
いつもの分厚い眼鏡をかけ、地味なミドルボブの髪を少しだけ乱した、見慣れた図書委員の姿。
だが、昨日のような死人のような青白さはなく、肌には健康的な赤みが差し、むしろ異様なほどの熱を帯びているように見えた。
「や、八束さん……。昨日は、その、体調悪そうだったけど……もう大丈夫なの?」
清春は、努めて「何も知らない、ただのクラスメイト」としての距離感を保ちながら、ぎこちなく声をかけた。
いつもなら、ここで彼女はビクッと肩を震わせ、目を泳がせながら「大丈夫です」と蚊の鳴くような声で答え、逃げるように距離を取るはずだ。
しかし。
「…………」
綾は、清春の姿を認めた瞬間、抱えていた本をバサッと床に取り落とした。
そして、信じられないものを見るような目で、彼を真っ直ぐに見つめたのだ。
極度の男性恐怖症であるはずの彼女が、自分から逃げようとしない。
それどころか、彼女の鼻先がピクピクと小さく動き、犬が匂いを嗅ぐように、空気を何度も吸い込んでいる。
「……えっと、八束さん?」
清春が後ずさろうとした、次の瞬間。
タタタッ、と。
綾が、小走りで清春の目の前までやってきた。
その距離、わずか数十センチ。
男子生徒が半径三メートル以内に近づくだけで息が詰まっていたはずの彼女が、自分から、清春のパーソナルスペースの内側へと飛び込んできたのだ。
「ちょ、え……近っ!?」
清春が驚いて声を上げる。
だが、綾の瞳には、清春の「男子としての顔」は映っていないようだった。
分厚い眼鏡の奥の瞳は、まるで強烈な麻薬の匂いを嗅ぎつけた薬物中毒者のように、熱く、ねっとりと濁って揺らめいている。
「……あぁ。……やっぱり。……この、匂い」
綾の口から、甘く、溶けそうな吐息が漏れた。
彼女は、清春の首元へと顔を近づけ、スーッと、深く、深く息を吸い込んだ。
「ひゃうっ……! お、おい、何してるんだよ!」
清春は、首筋に彼女の吐息がかかるのを感じて、顔から火が出るほど赤面した。
男の体である今の清春から、清姫の匂いなどするはずがない。
そう思っていた。
だが、土蜘蛛の血を引く彼女の敏感な嗅覚は、清春の魂の奥底にこびりついている『あの匂い』の残滓を、絶対に見逃さなかったのだ。
「……いい匂い。……冷たくて、……でも、すっごく、甘くて……。あぁ、頭が、ふわふわする……」
綾は、完全に理性が飛んだような恍惚とした表情で、清春の制服の袖を、両手でギュッと強く握りしめた。
「ちょ、待て、離せって! 八束さん、男の人、苦手だろ!?」
「……う、ん。……男の人は、怖い。……気持ち悪い。……でも、日高くんは、違うの。……日高くんの匂い、嗅いでると……あの時の、すっごく綺麗なお姉様に……抱きしめられてるみたいで……安心、するの……」
彼女の身体が、清春の腕にすり寄ってくる。
大人しそうな見た目に反して、意外なほどふくよかな胸の感触が、清春の腕にむにゅりと押し付けられた。
体温が異常に高い。
まるで、発熱しているかのように熱い彼女の肌の熱が、制服越しにジンジンと伝わってくる。
「あ……、はぁっ……。日高くん、もっと……。もっと、匂い、嗅がせて……」
「馬鹿っ! ここは学校だぞ! 誰かに見られたら……!」
清春はパニックになりながら、彼女を引き剥がそうとする。
しかし、綾の腕の力は、普段の彼女からは想像もつかないほど強かった。
いや、強いというより、それは「絶対に命綱を手放さない」という、執念にも似た凄まじい依存の力だった。
昨夜、清姫によって身体の隅々まで刻み込まれた強烈なフェロモン。
それは、彼女から怪異を遠ざける絶対的な盾であると同時に、彼女の理性をドロドロに溶かし、その匂いの主(清春)なしでは生きられない身体に作り変えてしまう、最悪の『甘い毒』だったのだ。
彼女にとって、清春から漂う残り香は、精神安定剤であり、同時に強烈な催淫剤でもあった。
「んんっ……。日高くん……きよはる、くん……」
ついに、彼女は名字ではなく、甘ったるい声で清春の下の名前を呼んだ。
袖を掴むだけでは飽き足らず、彼女は清春の胸元に顔を埋め、子猫が親猫に甘えるように、ぐりぐりと頭を擦り付け始めた。
「……っ! ぁ、こら、そこは……っ!」
清春は、天井を仰ぎ見て、絶望の溜息を吐いた。
男の体である清春を「清姫の正体」だと気づいているわけではない。
彼女の認識では、あくまで「日高くんから、命を救ってくれたあの美しいお姉様と同じ、安心する匂いがする」という、都合の良い錯覚を起こしているだけなのだ。
だが、その結果がこれだ。
極度の男性恐怖症だったはずの少女が、今や俺の残り香に完全に発情し、ところ構わず密着してくる、激重依存ヒロインへと変貌してしまった。
『マスター。心拍数、急上昇。対象の体温および発汗量の増加を検知。彼女の脳内は現在、あなたへの快楽物質で満たされています。……推奨アクション:人気の少ない閉架書庫へ連れ込み、男として最後まで責任を取ること、です』
「黙れシキ! 俺は事なかれ主義だ! こんなの、俺の求めてた日常じゃない!」
清春は、胸元で「はぁ、はぁっ」と荒い息を吐きながらすり寄ってくる綾を必死に支えながら、心の中で絶叫した。
「八束さん、お願いだから離れて! 俺、これから家庭科室でマカロン作らなきゃいけないから!」
「……マカロン……。甘い……。清春くんの匂い、甘い……。私も、いく……。清春くんの傍に、ずっと、いる……」
綾は、トロンと濁った瞳で清春を見上げながら、腕の拘束をさらに強めた。
絶対に離さない。
一生、この匂いと一緒に生きていく。
そんな、重すぎて胃が千切れそうになるほどの執着が、彼女の表情から痛いほどに伝わってくる。
「……終わった。俺の平和な高校生活、完全に終わった……」
清春の口から、魂の抜けたような声がこぼれ落ちた。
夕日に照らされた図書室で。
逃げようとする平凡な男子高校生と、その匂いに当てられて理性を失った図書委員の少女。
助けたヒロインに「毒(口づけ)」を残してしまったがゆえに引き起こされた、この理不尽な代償。
しかし、清春はまだ知らなかった。
この「激重ヒロイン化現象」が、八束綾ただ一人で終わるはずがないということを。
学園に潜む数々の怪異。
そして、それらを蹂躙するたびに増えていく、清姫のフェロモンに脳を焼かれた被害者たち。
事なかれ主義を愛する日高清春の、狂おしくも騒がしい「餌付け(ラブコメ)」の日々は、今、絶望の産声と共に本格的な幕を開けたのであった。
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次回お楽しみに。




