第14話:【絶頂】悪い虫が寄らないように
本日2話目です
すべてが凍りつき、純白の結晶に覆われた図書室は、まるで神の造りたもうた巨大な宝石箱のようだった。
空気中を舞うダイヤモンドダストが、紫色の月光を乱反射してキラキラと瞬いている。
数秒前までこの空間を支配していた泥濘の怪異たちは、今や塵一つ残さず氷砕され、彼らが撒き散らしていた悪臭も、醜悪な水音も、完全に消し去られていた。
圧倒的な、そして暴力的なまでの『浄化』。
その奇跡の中心で、白鐘の姫は、まるで退屈な散歩を終えた貴婦人のような優雅さで佇んでいた。
カツン。
純白のヒールが、氷結した床を叩く。
その小さな足音が、静まり返った密室に、死の秒針のように響き渡った。
姫の足元から、そして彼女の抜けるように白い肌から、目に見えない強烈な「気」が立ち昇っている。
それは、周囲の空気を凍らせる絶対零度の冷気でありながら。
同時に、嗅ぐ者の理性を根こそぎ奪い去る、酷く甘く、濃密で、むせ返るほどに扇情的な香水の匂いだった。
「…………」
壁際にへたり込んだままの八束綾は、声を発することすらできず、ただ小刻みに震え続けていた。
彼女の視界は、分厚い眼鏡を失ったことでひどくぼやけている。
だが、それでもはっきりと分かる。
自分に向かってゆっくりと歩み寄ってくるあの白銀の美女が、先ほどの吸精鬼など比較にならないほど、恐ろしく、巨大で、そして抗いがたい引力を持った『捕食者』であるという事実が。
カツン、カツン。
近づいてくる。
姫が一歩距離を詰めるたびに、あの危険な甘い匂いが、津波のように綾の全身を飲み込んでいく。
逃げなければ。
本能が、激しい警鐘を鳴らしている。
土蜘蛛という妖怪の血を引く綾の魂が、目の前にいる存在――『蛇』という絶対的な天敵を前にして、悲鳴を上げているのだ。
捕まれば、喰われる。身体のすべてを、魂の奥底まで、残さず彼女の色に塗り替えられてしまう。
しかし、綾の身体は一ミリも動かなかった。
恐怖で硬直しているのではない。
姫から放たれる圧倒的な美しさと、脳髄を麻痺させる甘い毒の匂いに、身体中の神経が「快楽」を覚えて、自ら服従の姿勢を取り始めてしまっていたのだ。
男の人が怖い。化け物が怖い。
そんな綾の心にこびりついていたトラウマすらも、姫の放つ強烈なフェロモンが、真っ白な雪で覆い隠すように消し去っていく。
――あぁ。なんて、綺麗なんだろう。
綾の思考が、ドロドロに溶け出していく。
呼吸が荒くなり、恐怖で冷え切っていたはずの身体が、内側からカッと熱を帯び始めた。
息を吸い込むたびに、姫の匂いが肺を満たし、血液に混ざり、全身の細胞を甘く痺れさせていく。
やがて、カツンという足音が、綾の目の前でピタリと止まった。
見上げると、そこには、この世のすべての美を凝縮したような完璧な顔立ちがあった。
燃えるような金色の瞳。縦に細く裂けた、残酷で美しい蛇の瞳孔。
それが、至近距離で、逃げ場のないほど真っ直ぐに綾を射抜いていた。
「……ひっ……」
綾の口から、引き攣ったような、けれどどこか熱っぽい吐息が漏れた。
視線が交わった瞬間、熱い杭を脳天に打ち込まれたような、強烈な衝撃が走る。
姫は、優雅に膝を折ると、白く透き通るような冷たい指先を伸ばし、綾の顎をそっと掬い上げた。
抵抗することなど、許されない。
強引に、しかし壊れ物を扱うような奇妙な優しさで、綾の顔が上を向かせられる。
姫の冷たい指先が肌に触れた瞬間。
綾は、そこから火が点いたように、全身の血が沸騰するのを感じた。
「怯えているの? 可哀想に。震えて、すっかり怯えきって……本当に可愛いわね」
姫の赤い唇から、妖艶で、どこまでも甘い声がこぼれ落ちる。
その声を聞いただけで、綾の下腹部の奥底が、キュンと痛みを伴って熱く疼いた。
自分が「狩られる側」の小動物であり、目の前の美しい怪物が、自分をどう料理してやろうかと品定めしている。
その絶対的な力関係が、綾の理性を完全に破壊し、雌としての根源的な服従本能をむき出しにさせていく。
姫の金色の瞳が、スッと細められた。
その視線が、綾の頬から、無防備に晒された白い首筋へと這うように降りていく。
「せっかく私が助けてあげたのに、あなたの体からは、まだあの不快な泥の匂いがするわ」
姫の声に、嗜虐的な愉悦と、逆らうことを許さない絶対的な支配欲が混じる。
男であった清春の「彼女を守りたい」という小さな庇護欲は、姫という大妖怪の器を通したことで、残酷なまでの「独占欲」へと変換されていた。
自分が助けた獲物。自分が気に入った玩具。
それに、下等な虫けらどもの匂いが微かにでも残っていることが、姫の傲慢なプライドをひどく刺激していた。
「……癪ね。私の瞳に映るものが、私以外の色に染まっているなんて、許せない」
姫の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
吐息が触れ合うほどの至近距離。
姫の唇は、熟れきった毒林檎のように赤く、艶やかで、妖しい色気を放っていた。
「私が、印を刻んであげる。……光栄に思いなさい」
「え……? ん、……あっ、んんっ!?」
言葉の意味を理解するよりも早く。
姫の端正な顔が傾き、次の瞬間には、綾の唇は、熱く濡れた感触によって完全に塞がれていた。
――深い。
それは、弱者を癒すような、優しい口づけでは決してなかった。
触れ合った瞬間に、唇の表面を冷酷な氷で焼き切られるような衝撃。
そして、無理やりこじ開けられた唇の隙間から、容赦なく、貪欲に侵入してくる、熱く湿った舌。
「んんっ、ふぁ、あ……っ、んぐっ……」
綾の身体が、弓なりに反り返った。
息ができない。
肺が酸素を求めて痙攣しているのに、姫は一ミリたりとも唇を離してくれない。
それどころか、綾の口蓋を撫で回し、舌の裏側まで执拗に舐め上げ、口腔内のすべてを隅々まで蹂躙し、支配していく。
ちゅぷ、くちゃり、と。
氷に閉ざされた静かな図書室に、二人の唇が交わる、卑猥で生々しい水音が響き渡る。
逃げようと首を振っても、顎を掴む姫の指の力が、万力のようにそれを許さない。
そして。
交わる舌と舌を通して、ドロリとした蜜のような、強烈な『妖力』が、綾の体内へと直接流し込まれてきた。
「あ、が……っ、ぁ、んんんっ!!」
綾の頭の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
体内に注ぎ込まれる甘い毒が、血流に乗って全身を駆け巡る。
それは、土蜘蛛の薄い血を、大妖怪である清姫の圧倒的な血(妖力)で強制的に上書きし、書き換えていく、凄絶なマーキングの儀式だった。
姫の冷たかったはずの指先が、綾の首筋や頬を撫でるたび、触れられた皮膚の表面から、火が点いたように熱を持ち始める。
注がれる妖力の波が、綾の全身の神経を焼き切っていく。
脳が沸騰しそうに熱い。息が詰まって苦しい。
なのに。怖いばずなのに。
頭の芯がトロトロに溶け出し、目の前が真っ白になるほどに――「気持ちいい」。
「あぁ……んっ、は、ぁん……っ、んちゅっ……」
綾の目から、恐怖とは全く違う、甘い快楽に溺れた生理的な涙がポロポロとこぼれ落ちた。
全身の力が抜け、床に崩れ落ちそうになる身体を、姫の腕がしっかりと抱きとめる。
逃げ出さないようにではない。
もっと深く、もっと奥まで、自分の毒を最後まで味わわせるために。
綾の細い指が、震えながら宙を泳ぎ、やがて無意識のうちに、姫の純白のドレスの肩口を強く握りしめた。
それは拒絶ではなく。
もっと欲しい、この甘い地獄から自分を離さないでほしいという、完全にメスとして屈服した、哀れなほどの懇願だった。
姫は、その反応に極上の愉悦を覚えながら、さらに深く舌を絡め、綾の唾液ごと、彼女の存在を飲み込むように吸い上げた。
匂いが、体温が、魂の形が、混ざり合う。
図書委員としての平穏な自我が、最恐の怪物の色に完全に染め抜かれていく。
永遠にも、一瞬にも似た時間が過ぎた。
やがて。
銀色の唾液の糸を艶かしく引きながら、ようやく姫の唇が、ゆっくりと離れた。
「はぁっ、はぁっ、あ……ぁ……んっ……」
床にへたり込んだまま、綾は肩で激しく荒い息を繰り返した。
彼女の身体は、極上の快楽を教え込まれた直後のように、小刻みに痙攣し続けている。
瞳の焦点は完全にぼやけ、白く濁り、熱に浮かされたように頬は赤く染まり切っている。
半開きの唇からは、だらしない銀糸がこぼれ、その表情には、もはや以前のような「地味で怯えた少女」の面影は一切なかった。
彼女の身体中を巡る血液には今、この最恐の美女の「匂い」と「妖力」が、一生消えない呪いのように、深く、深く刻み込まれていた。
もう二度と、他の怪異が彼女を狙うことはない。
この匂いを嗅いだ瞬間、すべての下等な存在は、持ち主の恐ろしさを本能で理解し、逃げ出すだろう。
だが、それは同時に。
彼女自身が、一生この匂い(清春)に依存し、発情し、これを求めずには生きていけない身体に作り変えられてしまったことを意味していた。
「……いい子」
姫は、とろけた顔で虚空を彷徨う綾を見て、心底満足そうに、妖艶な微笑みを浮かべた。
自分の毒が、隅々まで行き渡った完璧な芸術品を愛でるような、甘い視線。
「これで、あなたは私のものよ。悪い虫が寄ってこないように、私が与えた匂い……身体の奥底まで、しっかり覚え込んでおくことね」
その宣告は、呪いという名の、絶対的な愛の鎖だった。
姫は、獲物を完全に仕留め、自分のテリトリーへのマーキングを終えた捕食者の余裕を見せながら、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の身体が、再び白銀の光の粒子となって、少しずつ暗闇の空気に溶け込み始める。
役目を終えた大妖怪の意識が、深い眠りへと還っていく。
光が収束し、凄まじい吹雪が嘘のように凪いだ後。
後に残されたのは、かつてない快楽と恐怖に打ち震えながら、自分を蹂躙した美神の甘い匂いだけを求めて、虚空に手を伸ばす一人の少女だけだった。
「……あ、……ぁ。……いかないで。……もっと……」
綾は、氷結した床の上に倒れ込み、自分自身の身体を抱きしめた。
自分の内側から立ち昇る、彼から与えられたその匂いを、狂ったように深く吸い込みながら。
彼女の心は、すでに完全なる「依存」という名の甘い地獄へと、音を立てて堕ちていた。
◆
……そして。
悪夢と快楽に彩られた、長い長い夜が明ける。
チュン、チュンという呑気なスズメの鳴き声と、窓の隙間から差し込む眩しい朝の光。
自室のベッドの上で、ガバッと跳ね起きた日高清春(♂)は。
自分の両手を見つめ、昨夜の唇の感触と、舌にこびりついた甘い唾液の味を思い出し。
顔面から一気に血の気を引き、次の瞬間には、カァァァァッと全身から火が出るほど赤面して、この世の終わりのような絶叫を上げていた。
「……う、わあああああああああああああっ!? や、やってしまった! 俺、やらかしたああああっ!!」
ベッドの脇で、シキの無機質なアラート音が、嫌味なほど滑らかに鳴り響いた。
『おはようございます、マスター。昨夜の活動ログを確認。対象「八束綾」へのマーキング行動、完遂しました。現在、対象は完全なる依存状態へ移行。推奨される次アクション:責任を取って、一生彼女の面倒を見ること、です』
かくして。
事なかれ主義の男子高校生の平穏な日常は、自らが撒いた「甘い毒」によって完全に粉砕され。
匂いに依存し、激重の愛を抱えたヒロインたちとの、狂おしくも胃が痛くなるラブコメディの幕が、ここから本格的に上がり始めるのであった。




