第13話:虫けらへの蹂躙
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1話目
ゴォォォォォォォォォォッ……!!
それは、閉鎖された図書室という空間には、絶対に存在してはならないはずの轟音だった。
猛烈な吹雪。
視界を真っ白に染め上げる絶対零度の暴風が、白鐘の姫の振り下ろした右腕を起点として、凄まじい勢いで爆発したのだ。
空気中の水分はおろか、怪異たちが撒き散らしていた生臭い瘴気、そして空間そのものの霊的な淀みまでが、悲鳴を上げて凍りついていく。
ピキ、パキピキピキッ、と。
ガラスが砕け散るような甲高い音が、猛吹雪の轟音に混じって連続して響き渡る。
「ギ、ギャアアアアッ!?」
「ア、痛イ、イタイ、痛ィィィッ!!」
吸精鬼たちが、泥のような肉体をよじらせて断末魔の絶叫を上げた。
彼らの放っていた無数の触手が、暴風雪に触れた端から白銀の霜に覆われ、カチカチに硬直していく。
逃げようと床を這う者、本棚の陰に隠れようとする者、あるいは狂乱して姫へと飛びかかろうとする者。
そのすべての行動は、全くの無意味だった。
姫が放つ極寒の冷気は、物理的な風ではない。
大妖怪としての圧倒的な「妖力」そのものが、質量を持った吹雪として顕現しているのだ。
触れたものをただ凍らせるだけではない。その存在の根源、細胞の一個一個、魂の欠片に至るまでを、絶対零度の檻に閉じ込めて破壊する、神の裁きにも似た理不尽な暴力。
「……うるさいわね。虫けらの分際で、私の御前で無様な声を上げないで頂戴」
姫は、吹き荒れる暴風雪の中心で、微風に髪を撫でられるような優雅さで立ち尽くしていた。
彼女の純白のドレスは、猛烈な吹雪の中でも一切乱れることなく、むしろその冷気を吸い込んで、より一層の神々しい輝きを放っている。
彼女が、退屈そうに、白く細い指先でパチンと指を鳴らした。
その瞬間。
完全に氷像と化していた最前列の吸精鬼数匹が、内側から弾けるようにして、粉々に砕け散った。
パァンッ! という乾いた破裂音。
肉片も、血の一滴も残らない。ただ、キラキラと輝くダイヤモンドダストのような氷の微粒子となって、空中へと霧散していく。
文字通りの「一瞬」。
抵抗も、反撃の隙すらも与えない、次元の違う圧倒的な蹂躙劇。
「ヒ、ギィィィッ……!」
仲間が一瞬にして塵と化したのを見て、残された吸精鬼たちの間に、知性のない彼らでさえ理解できる「根源的な絶望」が伝播した。
彼らは、自分たちが狩る側の捕食者だと信じて疑わなかった。
この閉鎖された異界の図書室で、極上の土蜘蛛の血を引く少女を、心ゆくまで貪り食うはずだったのだ。
だが、今や彼らは、自分たちよりも遥かに巨大で、美しく、そして残酷な『真の捕食者』の胃袋の中に落とされてしまったのだと、細胞レベルで悟らされていた。
『マスター。対象の怪異群、生存本能の崩壊を確認。霊的エネルギーが急速に萎縮しています。……見事な蹂躙です』
シキの無機質な合成音声が、姫の脳内に響く。
人間の男子高校生であった清春の意識は、今や海の底深くへと沈められ、代わりに大妖怪としてのサディスティックな意識が完全に表層を支配している。
――当然よ。私の庭を汚した泥どもには、相応の罰を与えなければ。
姫の金色の瞳が、愉悦に歪んで細められた。
彼女は、まるで舞踏会のフロアを歩くような軽やかな足取りで、逃げ惑う怪異たちの群れの中へと足を踏み入れた。
「さあ、踊りなさい。醜い虫けらども。あなたがたの命が散る様を、私のための美しい雪景色に変えてあげるわ」
カツン、とヒールが鳴る。
その一歩ごとに、空間の温度がさらに下がる。
一匹の巨大な吸精鬼が、恐怖のあまり自棄を起こし、天井から姫の頭上へと巨体を落下させてきた。
無数の充血した眼球をひん剥き、鋭い牙の生えた大口を開けて、姫の細い首筋に食らいつこうとする。
「……鈍いわね」
姫は、見上げることも避けることもしなかった。
ただ、スッと右手を頭上にかざしただけ。
ガキィィィンッ!!
落下してきた巨大な泥の肉塊が、姫の手のひらに触れる数センチ手前で、見えない氷の防壁に激突し、空中で完全に静止した。
いや、静止したのではない。
激突した接触面から、凄まじい速度で極寒の冷気が逆流し、怪異の巨体をわずか一秒で分厚い氷塊へと変えてしまったのだ。
「ギ、……ア……」
眼球を動かすことすらできなくなった怪異を見上げ、姫は冷たく微笑んだ。
「塵一つ残さず、消えなさい」
彼女が指先を軽く握り込む。
パシャンッ!! という音と共に、空中に浮かんでいた巨大な氷塊が、数万の氷の破片となって四散した。
美しい。
あまりにも残酷で、暴力的でありながら、その光景は息を呑むほどに美しかった。
壁際で崩れ落ちたまま、その一部始終を目撃していた八束綾は、恐怖で震えることすら忘れて、呆然と目の前の光景に見入っていた。
彼女の視界に映るのは、猛吹雪の中で次々と氷砕されていく怪異たち。
そして、その中心で、まるでワルツを踊るように優雅に腕を振るい、死をばら撒き続ける白銀の美女の姿。
怖い。
あの美しすぎる怪物は、吸精鬼なんかよりもずっと、ずっと恐ろしい。
一歩間違えれば、自分もあの化け物たちと同じように、塵となって消し飛ばされてしまうかもしれない。
人間の理性が、全力で逃げろと警鐘を鳴らしている。
だが。
それと同時に、綾の心の奥底……土蜘蛛としての妖怪の血が、その圧倒的な「力」と「美」に対して、強烈な憧憬と服従の念を抱き始めていた。
彼女の身体は、氷点下の空間にいるにもかかわらず、なぜか内側から熱く火照っていた。
息を吸い込むたびに、吹雪に乗って漂ってくる『姫の匂い』が、肺を満たしていくのだ。
氷のように冷たくて、けれど脳髄を直接痺れさせるような、酷く濃密で甘い香水の匂い。
嗅ぐだけで、思考がトロトロに溶かされる。
自分の魂の形が、あの美しい女王の形に合わせて、ドロドロに作り変えられていくような、恐ろしくも甘美な感覚。
「あ……、はぁっ、ん……っ」
綾の口から、熱っぽい吐息が漏れる。
恐怖と快楽が入り混じった涙が頬を伝い、彼女は無意識のうちに、自分の両胸をかき抱くようにして身体をよじらせた。
自分を脅かしていた醜い怪異たちが、一匹、また一匹と粉砕されていく光景が、なぜか途方もない「安心感」と「庇護されているという恍惚」にすり替わっていく。
『マスター。対象「八束綾」のホルモンバランスに劇的な変化を確認。恐怖心がドーパミンによって上書きされ、あなたへの「完全なる依存と服従」のフェーズへと移行しつつあります』
シキの報告を聞き、姫の赤い唇がさらに深く弧を描いた。
――良い子。そのまま、私の力と匂いを、身体の奥底まで刻み込みなさい。
姫は、残る数匹の吸精鬼たちへと視線を向けた。
追い詰められた怪異たちは、生存への最後のあがきとして、互いの泥の肉体を融合させ始めた。
ズルズルと音が重なり合い、部屋の隅で、数匹分の質量を持った、天井に届くほどの巨大な肉塊が形成されていく。
無数の腕、無数の眼球、そして無数の口から、強烈な瘴気が黒い霧となって噴き出す。
「オォォォォォォォォッ!!」
融合した巨大怪異が、地鳴りのような咆哮を上げた。
それが、虫けらどもの最後の意地だったのだろう。
彼らは全生命力を瘴気に変え、図書室全体を飲み込もうとする勢いで、姫へと向かって突進してきた。
「……無駄な努力ね。大きくなれば、私の前で少しでも長く生き長らえられるとでも思ったの?」
姫の金色の瞳が、ひどく冷たく、そして酷薄な光を放った。
彼女は、迫り来る巨大な肉塊を前にしても、一歩も退かない。
ただ、静かに右手を胸の前に掲げ、手のひらを相手に向けた。
「身の程を知りなさい。不快な泥は、永遠の氷河の底で眠るべきよ」
カッ!!
姫の手のひらから、先ほどまでの吹雪とは次元の違う、極太の白銀の光線が放たれた。
それは、空間そのものを一瞬で絶対零度へと叩き落とす、超高密度の冷気の奔流だった。
「ギャ、ガァァァァァァァァッ!?」
光線に呑み込まれた巨大怪異の咆哮が、途中でピタリと止んだ。
突進の勢いを保ったまま、その巨大な泥の身体が、足元から急速に白濁していく。
黒い瘴気も、無数の眼球も、すべてが氷の結晶に置換され、彼らは空中で硬直した巨大な氷像へと姿を変えた。
図書室は、完全な静寂に包まれた。
猛吹雪が止み、空中に舞い上がっていた氷の微粒子が、月光を反射してキラキラと雪のように降り注いでいる。
姫は、氷像と化した巨大怪異の前に歩み寄ると、その表面にコツンと、優しく人差し指を触れた。
ピシッ。
その小さな衝撃が引き金となり。
巨大な氷像は、足元からメシミシと亀裂を走らせ、次の瞬間、凄まじい轟音と共に崩落した。
ガラガラガラッ! という音を立てて、怪異だったものは数万個の無害な氷のブロックとなり、図書室の床に散らばった。
もはや、悪臭も血の匂いもない。
そこにあるのは、完全に浄化された、白銀の結晶の世界だけだった。
『対象の完全殲滅を確認。霊的空間の浄化、完了。……マスター、見事な蹂躙、オーバーキルでした』
シキの無機質な賞賛の声。
――ええ。これでやっと、掃除が終わったわ。
姫は、ドレスの裾を軽く払い、氷の散らばる床を静かに振り返った。
戦闘という名の「作業」は、すでに終わった。
今や、この異界化した図書室には、絶対的な力を持つ最恐の捕食者と、その力に魅了されて腰を抜かしている極上の獲物、ただ二人だけが取り残されている。
姫の金色の瞳が、壁際で震えている綾を真っ直ぐに捉えた。
綾は、姫と目が合った瞬間、ビクンと身体を大きく跳ねさせた。
逃げなければ。
そう思うのに、身体は一ミリも動かない。
むしろ、もっと自分を見てほしい、もっとあの甘い匂いを嗅がせてほしいという倒錯した欲求が、彼女の理性を完全に麻痺させていた。
カツン、カツン。
姫が、ゆっくりと、獲物を追い詰める蛇のように、綾へと歩み寄っていく。
「さて……」
姫の赤い唇から、妖艶で、どこまでも甘い声がこぼれた。
それは、死の恐怖よりも恐ろしく、抗いがたい魅了を孕んだ、破滅へのプレリュードだった。
「悪い虫は、いなくなったわね。……ようやく、あなたと二人きりになれたわ」
姫が、綾の目の前で立ち止まる。
彼女の圧倒的な美貌と、冷たい体温。そして、脳を焼くような猛毒の匂いが、綾を完全に包み込んだ。
もはや、逃げ場はない。
ただ一人の少女を、一生消えない「匂い」の鎖で縛り付けるための、狂おしくも淫らな儀式が、静かに幕を開けようとしていた。




