第12話:白鐘の姫、降臨
本日3話目です
続きは明日投稿します
世界が、呼吸を止めた。
そう錯覚するほどの、絶対的な静寂と、致死性の冷気だった。
数秒前まで、この閉鎖された図書室の空間は、むせ返るような生温かい腐臭と、下劣な怪異たちの立てる水音、そして血の匂いに支配された泥濘の地獄だった。
だが今、それらの不快な熱と音は、文字通り「完全に」凍りついていた。
カツン。
極寒の空気を切り裂いて、高いヒールの音が、静まり返った密室に澄み渡る。
白鐘の姫が一歩、前へと優雅に足を踏み出した。
ただそれだけの動作。
しかし、その純白のヒールが床に触れた瞬間、凄まじい冷気の波動が波紋となって爆発的に広がり、物理的な現実を塗り替えていった。
ピキ、ピキピキピキッ……!!
床の板張りが、一瞬にして白銀の霜に覆われる。
冷気の波紋は床を伝い、壁を這い上がり、天井を覆い尽くしていく。
重厚な木製の書架が、陳列された何千冊という古書ごと、すべて分厚い氷の層に閉じ込められていく。
空気中の水分が悲鳴を上げて凍りつき、ダイヤモンドダストとなって、月光の射し込まない暗闇の中でキラキラと自発的な光を放ちながら舞い散った。
「……あ、……ぁ……」
壁際で崩れ落ちていた八束綾は、肺の奥が凍りつくような冷気に咳き込みそうになりながら、目の前の光景をただ呆然と見上げていた。
つい先ほどまで、そこには自分を庇って血を流し、倒れたクラスメイトの男子、日高清春がいたはずだった。
だが、あの一瞬の眩い光の後に立ち現れたのは、彼ではない。
この世のすべての美を集め、冷酷な氷の結晶として鍛え上げたような、絶世の美女だった。
透き通るような白銀の長髪は、自らが発する極低温の冷気を纏って、重力に逆らうようにふわりと揺れている。
抜けるように白い肌。
そして、一切の汚れを許さない、眩しいほどに純白のドレス。その薄い布地越しにすら、女性特有の豊満でしなやかな肢体の曲線が、扇情的なまでに強調されている。
美しすぎる。
あまりにも美しすぎて、直視することすら罪に問われるのではないかという、根源的な畏れが綾の心を縛り付けていた。
彼女の顔立ちは、完璧な彫刻のようだった。
しかし、その完璧な美貌の中で、爛々と燃え盛る金色の瞳だけが、明確に人間ではない「怪物」の証を立てている。
縦に細く裂けた、冷酷な蛇の瞳孔。
それが、虫けらを見下ろすような圧倒的な傲慢さで、目前の怪異たちを睥睨していた。
『マスター。空間の支配権の奪取を確認。現在、この図書室の霊的座標は、吸精鬼の異界から、大妖怪「白鐘の姫」の領域へと完全に上書きされました。……出力、依然として上昇中』
シキの合成音声が、姫の脳内にだけ響く。
――ええ、そうね。ようやく、空気が少しだけマシになったわ。
姫は、優雅に扇を広げるような仕草で、自身の口元に白く細い指先を当てた。
――それにしても、本当に汚らわしい空間。人間の情けない欲望の滓が、寄り集まってこんな醜い泥の化け物になるなんて。……視界に入るだけで、虫唾が走るわ。
姫の金色の瞳が、ゆっくりと吸精鬼の群れを捉えた。
「ギ、……ヂ……ッ」
先ほどまで、獲物の血の匂いに狂喜乱舞し、涎を垂らしながら綾に這い寄っていた吸精鬼たち。
その異形の肉塊どもが、今はピタリと動きを止め、小刻みに震えていた。
彼らは知性を持たない低級の怪異だ。
だが、本能の最下層にある生存信号が、目の前に現れた存在の『格の違い』を、痛烈に理解させていた。
生態系の頂点。絶対的な死の顕現。
綾の足首に巻き付こうとしていた一匹の吸精鬼の触手が、ビクッ、と痙攣し、まるで熱した鉄板に触れたかのように、慌ててズルズルと後退していく。
だが、遅かった。
「……誰が、動いていいと言ったの?」
姫の赤い唇から、鈴を転がすような、酷く甘く、そして絶対零度の殺意を孕んだ声がこぼれ落ちた。
ピシッ。
その言葉が発せられた瞬間。
後退しようとした吸精鬼の触手の先端から、急速に白い霜が這い上がった。
「ヂ、ギギギッ!?」
化け物がパニックに陥り、泥の体を激しくうねらせて氷を振り払おうとする。
だが、姫の呪いにも似た冷気は、それを許さない。
霜はあっという間に触手を駆け上がり、醜悪な肉塊の本体へと到達し、無数にある充血した眼球ごと、完全に分厚い氷の中へと閉じ込めてしまった。
ただの一瞥。ただの一言。
それだけで、人間を恐怖のどん底に陥れる怪異の一匹が、身動き一つできない完全な氷像へと成り果てたのだ。
「……ひっ」
そのあまりにも一方的で、超越的な力を見せつけられ、綾の喉から引き攣ったような声が漏れた。
助けに来てくれた正義の味方ではない。
怪異よりもはるかに恐ろしく、残酷で、そして底なしの欲望を隠そうともしない、最強の捕食者。
自分は、狼の群れから逃れたと思ったら、神のような力を持った美しい竜の巣に落ちてしまったのだということを、綾の本能が理解し始めていた。
カツン、カツン。
姫が、再び歩みを進める。
氷結した床の上を、滑るように、踊るように。
彼女が一歩進むたびに、図書室の空間に充満していた怪異の腐臭が浄化され、代わりに、ある強烈な匂いが空間を支配し始めた。
それは、姫自身の身体から立ち昇る、濃密で、酷く甘い香水の匂い。
氷のように冷たい空気の中で、その匂いだけが異常な熱を帯びて、綾の鼻腔を真っ直ぐに貫いた。
雪山の頂上に咲く、幻の毒花のような香り。
嗅いだだけで脳の髄が痺れ、思考がトロトロに溶かされ、自らその匂いの元へと服従の首を差し出したくなるような、抗いがたい猛毒。
「あ……、はぁ……っ」
綾は、その匂いに当てられ、全身から急速に力が抜けていくのを感じた。
恐怖で震えていたはずの身体が、なぜか奥底からジワジワと火照り始め、息をするたびに、その甘い毒をさらに肺の奥深くへと吸い込んでしまう。
男の人が怖い。化け物が怖い。
そんな感情が、目の前にいる絶世の美女の匂いと威圧感によって、真っ白に上書きされていく。
――あぁ、良い匂い。
姫は、怯えながらも自分の匂いに当てられ、顔を赤らめ始めた綾を見下ろして、心の底から満足そうに目を細めた。
――私の毒が、しっかりとあの子の身体を巡り始めているわ。……なんて可愛らしい反応。このままあの首筋に噛みついてしまいたいけれど。
姫の金色の瞳が、再び前方の吸精鬼の群れへと戻る。
――その前に、この汚らわしいゴミ掃除を済ませてしまわないとね。私の食事の邪魔をされたくはないもの。
数十匹の吸精鬼たちは、完全にパニック状態に陥っていた。
彼らの放つ触手も、悪臭も、姫の圧倒的な冷気の前には一切の無力だった。
逃げようにも、この図書室の空間そのものがすでに姫の領域として完全に氷結封鎖されており、出口はどこにもない。
泥の体は徐々に凍りつき、動きは鈍り、互いに折り重なるようにして、部屋の隅、閉架書庫の暗がりへと後ずさっていく。
「ふふっ。どこへ逃げるというの? ここはもう、私の庭よ」
姫は、可笑しくてたまらないというように、艶やかな声で笑った。
「あなたたちのような泥の化け物が、私の許可なく呼吸をし、私の許可なく蠢き、あまつさえ、私が『私だけのもの』にしようと決めた獲物に、触れようとした」
彼女の声のトーンが、一段、低くなる。
それに呼応するように、図書室の気温がさらに急激に低下し、空間の至る所で空気がパキパキとひび割れるような音が鳴り始めた。
「その罪の重さを、その醜い肉体ごと、細胞の一個に至るまで刻み込んであげるわ。……光栄に思いなさい。私が直々に、あなたたちを塵一つ残さず消去してあげるのだから」
姫が、優雅な動作で、純白のドレスに包まれた右腕をゆっくりと天に向かって掲げた。
その細く美しい指先に、周囲の冷気が猛烈な勢いで集束していく。
それは、小さな吹雪の渦となり、瞬く間に図書室全体を飲み込むほどの巨大なエネルギーの塊へと膨れ上がっていった。
「ギ、ギャアアアアアアッ!!」
吸精鬼たちが、死を悟り、断末魔のような絶叫を上げた。
だが、その声すらも、集束する冷気の轟音にかき消されていく。
『マスター。広域殲滅魔法「氷華・白鐘」、エネルギー充填率百パーセント。……対象の完全消去、実行可能です』
シキのシステムアナウンスが、冷徹な処刑の準備完了を告げる。
姫は、掲げていた右手を、指揮者がタクトを振り下ろすように、前方へと滑らかに振り抜いた。
金色の蛇の瞳に、残酷な愉悦の光を燃えたぎらせながら。
「――消えなさい。不快よ」
その言葉が、蹂躙の始まりを告げる絶対の号砲となった。
閉鎖された図書室の中で、神の怒りにも似た、白銀の暴風雪が解き放たれる。
逃げ場などない。慈悲など欠片もない。
圧倒的な力と美しさを持った最恐の捕食者による、残酷で一方的な処刑劇が、今まさに幕を開けようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




