第16話:激重ヒロイン追加のお知らせ。料理部が甘い匂いで満ちている
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放課後の旧校舎一階、家庭科室。
かつて、事なかれ主義の男子高校生・日高清春にとって、ここは外界のあらゆるノイズから隔絶された、絶対不可侵の聖域だった。
静かな空間に、オーブンが温まる微かな稼働音と、バターやバニラエッセンスの甘い香りだけが満ちている、退屈で平和な場所。
それが、つい数日前までの「料理部」の日常だったはずなのだ。
しかし。
今の家庭科室は、お菓子作りの甘い匂いよりも、もっと重たく、ねっとりとした「別の匂い」と「熱」によって、むせ返るような空間へと変貌してしまっていた。
「……すぅぅぅぅぅぅ……っ。はぁぁぁ……っ」
清春の右腕のすぐ横。
距離にしてわずか数センチのところで、ひどく熱っぽく、湿り気を帯びた吐息が繰り返されている。
「……あぁ。……きよはる、くん……。いい匂い……。甘くて、……脳みそが、とろけそう……」
清春の制服の袖を両手でギュッと握りしめ、恍惚とした表情で彼の肩口に顔を埋めているのは、図書委員の八束綾だった。
分厚い眼鏡の奥の瞳は完全にトロンと濁り、焦点が定まっていない。
頬は熱を出したように真っ赤に染まり、半開きの唇からは、だらしなく艶やかな吐息が漏れ続けている。
極度の男性恐怖症であり、クラスの男子が半径三メートル以内に近づくだけで呼吸困難を起こしていたはずの、あの地味で大人しい少女。
それが今や、自ら進んで男子(清春)のパーソナルスペースを完全に破壊し、ぴったりと身体を密着させて、薬物中毒者のように匂いを嗅ぎ続けているのだ。
「……あの、八束さん。そろそろ、離れてくれないかな。俺、お茶を淹れたいんだけど……」
清春は、引き攣った笑顔を浮かべながら、どうにか右腕を引き抜こうと試みた。
だが、綾の細い指の力は、執念とも呼べるほどの恐ろしい力で清春の袖をホールドしており、ビクともしない。
それどころか、清春が腕を動かした反動で、彼女の意外なほど豊満な胸の感触が、むにゅりと清春の二の腕に押し付けられてしまった。
制服越しでもはっきりと分かる、柔らかい弾力と、異常なほどの体温。
「ひゃうっ……!?」
清春は顔から火が出るほど赤面し、慌てて動きを止めた。
「……だめ。……離れたら、だめなの。……清春くんから離れると、息が、できなくなっちゃうから……」
綾は、涙ぐんだ瞳で清春を上目遣いに見つめ、さらにぐりぐりと頭を擦り付けてきた。
彼女の鼻先が、清春の首筋を直接なぞる。
ちろり、と。
無意識なのか、彼女の熱く濡れた舌先が、一瞬だけ清春の首の皮膚を舐め上げたような気さえした。
「っ……!!」
清春の背筋に、ゾクゾクとするような悪寒と、男としての抗いがたい快感が同時に駆け抜ける。
『マスター。心拍数、百二十を突破。血圧上昇、および下腹部への血流集中を検知しました。……平常心を保とうとする努力は評価しますが、生物学的に見て、あなたの理性は風前の灯火です』
エプロンのポケットの中で、スマートフォンのAI付喪神・シキが、容赦のない事実を脳内に直接突きつけてくる。
(……うるさい! 誰のせいでこんなことになってると思ってるんだ!)
『分析するまでもなく、マスターご自身の自業自得です。あなたが異界の図書室で、彼女の唇を執拗に塞ぎ、ご自身の妖力と匂いを脳髄まで刻み込んだ「マーキング」の正当な結果です』
シキの言葉に、清春は胃をキリキリと痛ませた。
あの夜、怪異から彼女を救うためとはいえ、清春は自分の中に眠る『白鐘の姫』としての牝の捕食本能に完全に飲み込まれてしまった。
怯える彼女を組み敷き、極寒の冷気の中で、ドロドロに溶かすようなディープキスを叩き込んだ。
その結果、土蜘蛛の血を引く彼女の魂には、大妖怪・清姫の強烈なフェロモンが一生消えない呪いのように刻み込まれてしまったのだ。
彼女は今、清春の身体の奥底から無意識に漏れ出している『姫の残り香』に当てられ、完全に理性を失った発情状態(依存状態)に陥っている。
「……でもさ。八束さん、男の人が極端に苦手だったはずだろ? いくら俺からあの匂いがするからって、なんでこんなに普通に……いや、普通以上に密着できるんだよ」
清春が心の中で疑問をぶつけると、シキは呆れたようなトーンで答えた。
『彼女の脳内における認識が、完全に書き換えられているからです。彼女にとって、今のマスターは「日高清春という男子」ではなく、「あの美しくて恐ろしいお姉様と同じ匂いを発する、極上の抱き枕」程度の認識しかありません』
(……抱き枕って。俺の人権はどこに行ったんだよ)
『恐怖心よりも、依存と快楽の欲求が完全に勝っている状態です。もし今、マスターが少しでも突き放そうとすれば、彼女は深刻な禁断症状を起こし、泣き叫びながら這いつくばってでもあなたにしがみつくでしょう。……推奨アクション:大人しく餌付け係として、一生彼女を養うことです』
「冗談じゃない! 俺は事なかれ主義で生きていきたいんだ!」
清春は心の中で絶叫しながら、なんとか左手だけでティーポットを操り、二つのカップに温かい紅茶を注いだ。
カチャリ、とカップをテーブルに置く。
そして、昨日焼いておいたマドレーヌを一つ、皿の上に乗せて綾の前に差し出した。
「ほら、八束さん。紅茶が入ったよ。お菓子も食べるだろ?」
匂いを嗅ぐことに夢中になっていた綾の口を、物理的に塞いでしまおうという作戦だ。
「……あ。……清春くんが、作った、お菓子……」
綾は、とろんとした目のまま、清春の顔とお菓子を交互に見つめた。
そして、ようやく袖から片手だけを離し、ゆっくりとマドレーヌをつまみ上げた。
小さく口を開け、パクリと一口かじる。
サクッとした表面の食感と、内側のしっとりとしたバターの風味。
そこには、清春が隠し味に入れた、ほんの少しのハチミツの甘さが広がっている。
「…………っ!」
マドレーヌを咀嚼した瞬間。
綾の身体が、ビクンッ! と大きく跳ねた。
彼女の瞳孔が限界まで開き、顔が耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まる。
「ど、どうしたの? 口に合わなかった……?」
「ちが、ちがう……っ。あぁっ、これ……っ。お菓子の、中に……っ」
綾は、涙目になりながら、残りのマドレーヌを両手で大切そうに包み込んだ。
彼女の舌は、ただのバターと砂糖の味を感じ取っていたのではない。
清春が手作りしたお菓子には、彼の指先から無意識に流れ出た、ごく微量の「妖力(匂い)」が染み込んでしまっていたのだ。
匂いだけではない。
味覚という直接的な粘膜を通して、あの夜に口内を蹂躙されたのと同じ「お姉様の甘い毒」が、再び彼女の脳髄を直撃したのである。
「はぁっ、あぁ……っ。甘い、すっごく、甘い……っ。清春くんの、匂いの味がする……っ」
綾は、恍惚とした喘ぎ声を漏らしながら、再びマドレーヌに噛みついた。
彼女の食べ方は、普段の大人しい図書委員の姿からは想像もつかないほど、卑猥で、生々しかった。
お菓子を食べるというよりも、まるで恋人の唇を貪るように。
ちゅぷ、くちゃり、と。
静かな家庭科室に、彼女の舌がマドレーヌの生地を舐め溶かす、淫らな水音だけが響き渡る。
こぼれ落ちた小さな欠片すら逃さないように、彼女は自分の指先についた生地を、ちろりと赤い舌を出して、執拗に舐め取った。
その瞳は完全に快楽で濁り切り、清春をじっと見つめながら、熱い吐息を吐き出している。
「んんっ、ふぁ……っ。おいしい、もっと……清春くんの、もっと、ちょうだい……っ」
完全に「餌付け」されてしまった牝の顔。
清春は、目の前で繰り広げられる過激な光景に、限界を超えて目を逸らした。
「……あぁ、もう、本当に胃が痛い……」
清春は、自分の分の紅茶を水のように一気飲みして、どうにか燃え上がりそうになる下半身の熱を冷まそうと必死に抵抗した。
俺の求めていた料理部は、こんなんじゃない。
誰にも関わらず、ただ静かに、平和にお菓子を作って、一人で楽しむだけの空間だったはずなのだ。
それがどうして、目の前で図書委員の女の子が、俺の作ったお菓子を催淫剤のように食べては発情し、俺の袖を握りしめて匂いを嗅ぎ続けるという、地獄のようなハーレム空間(しかも一対一で逃げ場なし)になってしまったのか。
『マスター。喜んでください。対象の胃袋と精神を同時に掌握するという、完璧な支配の完了です。大妖怪としての本能は、今、大層な満足感に浸っていることでしょう』
「やかましい! 俺の心は一ミリも満足してない! むしろライフはゼロに近い!」
心の中でシキに毒づきながら、清春は深く、深く溜息をついた。
だが、この時、絶望のどん底にいる清春はまだ気づいていなかった。
この『匂いによる激重ヒロイン化現象』が、八束綾ただ一人で終わるなどという甘い見通しは、すぐに粉々に打ち砕かれる運命にあるということに。
学園にはまだ、多くの怪異が潜んでいる。
そして、料理部にはもう一人、清春の作るお菓子を求めて頻繁に乱入してくる、厄介な「つまみ食い担当」の悪友がいることを。
――ガラガラッ!
突如として、家庭科室の引き戸が、乱暴な音を立てて開け放たれた。
「ちわーっす! キヨッち、今日のおやつ何ー!? あたしもうお腹ペコペコで死にそう……って、あれ?」
入り口に立っていたのは、クラスのムードメーカーであり、明るい茶髪のロングヘアを揺らす悪友ギャル――猫宮珠希だった。
彼女は、ルーズに着崩した制服のまま、家庭科室の異様な空気に気づいて目を丸くした。
密室。
漂う、むせ返るような甘い匂い。
そして、清春の腕にぴったりと抱きつき、顔を真っ赤にして荒い息を吐いている、あの地味な図書委員の姿。
「……えっと。キヨッち、何してんの? なんで八束さんが、そんな顔してキヨッちにくっついてんの……?」
珠希の声のトーンが、普段の明るいものから、スッと一段階下がった。
彼女の目は、ただ驚いているだけではない。
なぜか、自分の縄張りに見知らぬ雌猫が入り込んできたのを見つけたような、微かな警戒と、不機嫌さが入り混じった鋭い光を放っていた。
清春の背筋に、再び嫌な汗が流れる。
「あ、いや、これは誤解だ猫宮! 八束さんはちょっと貧血気味で、休ませてただけで……っ」
「……う、んんっ。……だめ。……清春くんは、私の……」
空気を読まない綾が、さらに強く清春の腕を抱きしめ、珠希に対して威嚇するように睨み返した。
火花が散る音が、聞こえた気がした。
事なかれ主義の男子高校生が望んだ平穏な聖域は、今、完全に修羅場という名の戦場へと姿を変えようとしていた。
そして、この新たな乱入者であるギャルもまた、近い将来、清春の『甘い毒』によって理性を吹き飛ばされる運命にあることを、この時の三人は誰も知らなかった。




