第二ノ参話 「フォッサマグナ横断帯:領域侵入」
泰康39年 7月15日 09:00:00
最初にはいった横断帯は
思ったより、何もない、ただの廊下だった。
空気の温度も、湿度も、表とほとんど変わらなかった。蛍光灯が、軽く点滅していた。古い建物特有の、わずかな埃の匂いがした。
扉が、後ろで、閉まった。
振り返りはしなかった。いまから耐性をつけておきたかった。
最初の検知器は、廊下を20メートルほど進んだところにあった。
壁に取り付けられた、柱状の装置。上部に緑のランプ、横に液晶画面。0.2と表示されていた。
平常値だった。
俺は、自分のベルトの検知器を見た。0.2。同じ数字だった。
「順調だ」
佐伯さんが前で言った。声は、いつもより小さかった。
「順調なんですね」
「良い感じだ」
「今日は廊下か、いいな」
佐伯さんは、軽く言った。
意味がよくわからなかったが、たぶん、廊下の質感が「悪くない景観」だ、という意味なのだろうと思って聞かないことにした。
廊下は、続いていた。
10メートル程先に、もう1つの検知器があった。緑のランプ。0.2。
その先に、また検知器があった。緑のランプ。0.3。
少しずつ、数字が上がっていた。
でも、緑のままだった。
20分ほど歩くと、廊下が、急に広くなった。
いや、正確には、廊下が、廊下ではなくなった。
いつのまにか、廊下の壁が、消えていた。気付くと、俺たちは、広い場所にいた。
駐車場のような場所だった。
車は止まっていなかった。
屋内の駐車場で、天井が低く、コンクリートの柱が等間隔に並んでいた。
蛍光灯の光が、コンクリートの床に映っていた。
駐車場の白線が、床に引かれていた。まっすぐな白線、まっすぐな黄色い線、駐車スペースを区切る四角。
それなのに、車は一台もなかった。
俺はいつ、廊下から駐車場に来たんだ、と思った。覚えていない。ただ、気付くと、ここにいた。
「最初は、こんなもんだ」
佐伯さんが、軽く言った。
「廊下が、いつのまにか駐車場になる」
「気付かなかったです」
「気付かないようになってる。気にしすぎると頭が痛くなる。気にするな」
佐伯さんは、それを、自分に言い聞かせるように言った。
駐車場の中央あたりに、検知器があった。0.4。緑のランプ。
俺は、検知器のほうへ歩いた。歩きながら、駐車場の天井を見た。天井は、コンクリートで、ところどころに配管が通っていた。普通の駐車場の天井だった。
ふと、思った。
この駐車場は、誰が作ったんだ。
この駐車場の白線は、どんな風にが引いたのだろう。
考えると、頭がぼんやりした。
佐伯さんの言葉を、思い出した。考えすぎると頭が痛くなる。
俺は、考えるのをやめた。
駐車場を抜けると、階段だった。
下りの階段。コンクリート製。手すりは金属で、わずかに錆びていた。階段の上から下まで、蛍光灯ではなく、裸電球が、所々に吊るされていた。
駐車場の出口から、地下に降りる階段のように見えた。
階段は、長かった。
降りても、降りても、終わらなかった。
何階分降りたのか、わからなくなった。
ただし、足が疲れる感じはなかった。実際には、それほど降りていないのかもしれない。
「階段、長いですね」
「長く感じる、というだけだ。実際は、たぶん、三階分くらいだ」
「三階分ですか」
「たぶんな。数えたところで意味がない数日後にはまた変わる」
佐伯さんは、軽く言った。
階段の途中に、検知器があった。0.6。緑のランプ。
俺は、自分のベルトの検知器を見た。0.7。
俺のほうが、少し高い、と思った。
「さ、トモさん」
「おい、いま言いそうになったな。ここは浅瀬だからいいがもっと深いところではほんとに危ないからな」
「すみません」
「頭のかなでもトモさんと呼べ、そうすれば馴染む」
「はい、がんばります」
「それで、どうした」
「俺の検知器、少し高い数字なんですけど」
「俺、何かしましたか」
「お前は何もしてない。お前自身が、ちょっとだけ、向こうに近いんだ」
「俺自身が」
「裏帰り者だから。これは、覚悟しておけと前に言ったろう」
「言われました」
「だから、おかしくはない。むしろ、これが正常だから心配しすぎんな」
トモさんは、それを、軽く言った。
俺は、自分の検知器を、もう一度見た。0.7。
階段を降り終わると、もう1つの廊下だった。
今度の廊下は、さっきの白い廊下より、やや古い廊下だった。壁は、ところどころ塗装が剥げていた。
床のリノリウムも、薄汚れていた。
昭和の役所の廊下、というふうに見えた。
俺は、子供のころ、こういう廊下を、何度か見たことがあるような気がした。
区役所か、図書館か、または、もう取り壊された古い建物か。
この廊下、見たことある気がする、とトモさんに言いそうになって、止めた。
トモさんの言葉を、思い出した。慌てて口に出すと、口に出した言葉が形になることがある。
俺は、5秒、深呼吸した。
この廊下を、見たことがあるのは、たぶん、ただの既視感だ。俺は、こういう廊下を、子供のころに見ていない。見ていたとしても、それは、こことは別の場所だ。
そう思うことにした。
ここで「子供のころに見たことがある」と思い込むと、それが何かのきっかけになる気がした。だから、思わないことにした。
トモさんが、前から、軽く声をかけた。
「サト、5秒、ちゃんと使ったな」
「使いました」
「いい習慣だ」
トモさんは、それだけ言って、また歩き始めた。
古い廊下の途中に、それがあった。
壁際に、立っていた。
最初、人がいるのかと思った。通行者の誰かが、立ち止まっているのかと思った。
でも、違った。
それは、背丈は子供くらいの人形だった。
ひと言で言えば、昭和の露天で売られていそうな、人形だった。
1メートルほど。プラスチック製で、髪の毛は黒い縮れたナイロン。
服は、ピンクと水色の安っぽいワンピース。
ほっぺが赤く塗られていた。
そして、笑っていた。
口角を上げて、目を細めて、こちらに向かって、笑っていた。
俺は、足が止まりかけた。
トモさんが、すぐに、前から言った。
「止まるな。歩け」
「あれ」
「見るな。歩け」
俺は、視線を下に落として、歩いた。
視界の隅で、人形が、笑顔のまま、こちらを見送るような姿勢で、壁際に立っていた。
通り過ぎる瞬間、触りたい、という思いが唐突に頭を埋め尽くしはじめた。
『ほっぺを、つついてみたい。』
はっきりとそう思った。
笑っているほっぺの、ぷっくりした、塗装の薄いところを、指でつつきたい。
トモさんが、今度は強く言った。
「歩け」
「歩いてます」
「お前、いま、何か考えたか」
「考えました」
「何を」
「触りたい、と」
「そういうもんだ。続きは、もう少し向こうに行ってから話そう」
俺たちは、人形の前を後にして歩いていった。
振り返らなかった。
振り返らなかったが、背中に、視線を感じた。笑顔の視線と俺は思った。
人形が見えなくなるほど離れて、曲がった先でトモさんが、足を止めた。
その場所は、廊下の途中の、少し広めの踊り場だった。検知器が1つあった。
0.9。
緑のランプだが、緑のランプの中でも、少し色が薄かった気がした。
「触りたい、って思ったろう」
「思いました」
「ありゃ、そういう人形だ。なんでか触りたくなる」
「触るとどうなるんですか」
「良くないことになる」
「あと、人形が、視線を返してくる感覚があったろう」
「ありました」
「あれは、お前が見たから、向こうもこっちを見たんだ。」
トモさんは、検知器の画面を、軽く指で叩いた。
「お前、いま、ちょっと、テンションがハイになってないか」
「ハイ、というのは」
「気分が、なんか軽い。怖がるべきなのに、笑いそうになる」
「少しなってます」
「それも、ゆがみ酔いの初期症状の1つだ」
「初期症状ですか」
「最初は、怖くなる、じゃなくて、気が大きくなる、ってことが多い。これが進むと、判断が鈍くなっていく」
「気をつけます」
「気をつけてもなる。気をつけてなる、ってのが、ゆがみ酔いだ」
トモさんは、それを、淡々と言った。
俺は、検知器を見た。1.1。
いつのまにか、注意報レベルの一歩手前まで来ていた。
踊り場から、また廊下が続いた。
その先に、何があるのか、俺は知らなかった。
ただ、トモさんが、前を歩いていた。後ろで髪を結んだ、ラフなスーツの背中が、見えた。
俺は、その背中を、見失わないようにだけ、考えた。
次に景色が変わったのは、踊り場から数分ほど歩いた、その先だった。
廊下の突き当たりに来た、と思った瞬間、廊下が消えていた。
俺たちは、露店街にいた。
昭和の縁日のような、露店街。
両側に、たこ焼き屋、綿菓子屋、金魚すくい、射的、お面屋——そういう露店が、並んでいた。
屋台の上に、裸電球が、ちらちらと点いていた。地面は、土だった。
しかし、人はいなかった。
屋台に、店主はいなかった。
客もいなかった。
ただ、たこ焼きが鉄板の上で焼かれていた。
綿菓子が、機械の中で回っていた。
金魚が、水槽の中で泳いでいた。
誰もいないのに、すべてが動いていた。
音もしていた。
たこ焼きの油の音、綿菓子の機械の音、金魚が水を跳ねる音、それから、どこかから、祭りの太鼓の音。
俺は、立ち止まった。
「ここ」
「進め、止まるな」
トモさんが、すぐに言った。
「ここ、何ですか」
「祭りの夜の景色だ。よくあるやつ。気にするな」
「気にせずに、いられないですよ」
「気にしないで進め。たこ焼きの匂いを嗅ぐな。綿菓子の機械の音を聞き込むな」
俺たちは、露店街の真ん中を、歩いた。
通路の真ん中を歩いた。
屋台に近づかなかった。
屋台の中を、覗き込まなかった。
歩きながら、たこ焼きの匂いが、強く香った。
美味そうな匂いだった。
子供のころに嗅いだ、祭りの匂い。
トモさん、これ、お腹減りますね、と言いそうになって、止めた。
5秒、深呼吸した。
言わなかった。
「いいぞ、お前。よく抑えた」
トモさんが、軽く言った。俺の心を読んでいるみたいだった。
「みんな、ここで、何か言いそうになるんですか?」
「お前は、まだいいほうだ。普通の人は、たこ焼きの匂いを嗅いだ瞬間たち止まって、最悪の場合屋台のたこ焼きを食っちまう」
「食べるんですか」
「食う。それで、係数が爆上がりしちまう。そしたら、時と場合にもよるが、結果としては引き返すことになる。横断失敗だ」
トモさんは、それを、淡々と言った。
俺たちは、誰もいない露店街の真ん中を、歩き続けた。
露店街の出口は、また廊下だった。さっきとは違う、白い、新しい廊下。
俺は、廊下に出るときに、一瞬だけ、ほぼ無意識に、振り返りそうになった。
たこ焼き屋の中に、客がいないか確かめたかった。
トモさんが、瞬時に、俺の腕を掴んだ。
「振り返るな」
強い声だった。今までで一番、強い声だった。
俺は、振り返らなかった。
「すみません」
「気をつけろよ、本当に」
「気をつけます」
トモさんは、しばらくの間、俺の腕を離さなかった。
白い廊下に出てから、しばらくは話さなかった。
トモさんが、前を歩いていた。
俺は、足元を見ながら、歩いた。
10歩より先を見ないこと、というマニュアルの一節を、思い出した。
できていなかった。露店街では、屋台のほうを、何度も見ていた。
検知器を、見た。
1.4。
注意報レベルだった。
「トモさん」
「ん」
「1.4です」
「俺、1.2」
「まだ、上がりますかね」
「たぶん、もう少しは。中盤上がって。後半下がる」
「中盤っていうとあと、どれくらいになります」
「安心しろ、もうすぐだ」
トモさんは、それだけ言った。
それから数時間ほど歩いた時
廊下の中ほどで、それが起きた。
最初は、音だった。
シャン。
と、小さな鈴の音。
俺たちの後ろのほうから、聞こえた。
俺は、反射的に、振り返ろうとした。
振り返ろうとした、その瞬間、トモさんが、俺より速く、振り返っていた。
いや、違う。
トモさんは、振り返っていなかった。
振り返ろうとした俺を、止めるために、振り返らずに、手で静止の合図を送ってきた。
「動くな」
声は、低かった。小さく、一切の余裕がなかった。
「振り返るな。動くな。息をしろ。それ以外、何もするな」
トモさんは、それを、早口で言った。さっきまでのトモさんとは、別人のような声だった。
俺は、息を止めかけて、また、ゆっくり息をした。
動かなかった。
振り返らなかった。
後ろから、また、音が聞こえた。
シャン。
シャン。
シャン。
規則的な、鈴の音だった。少しずつ、近づいてきた。
俺は、足元を見ていた。自分の革靴が、見えた。
廊下のリノリウムが、見えた。
トモさんの足元が、見えた。
トモさんは、立ったまま、動かなかった。
音は、続いていた。
俺の後ろを、何かが、通り過ぎていく感じがした。
視界には入らなかった。
ただ、空気の動きでわかった。
何かが、俺のすぐ横をすり抜けていった。
それが、何だったのか俺は見ていない。
でも、何かだった。
しばらく、音が続いた。
シャン。
シャン。
シャン。
音は次第に遠ざかっていった。
やがて、聞こえなくなった。
トモさんは、それでも、しばらく動かなかった。
俺も、動かなかった。
たぶん、2分くらい、そうしていた。
やがて、トモさんが、ゆっくりと、自分の検知器を見た。
「2.1だ」
「俺は2.6です」
「行くぞ」
トモさんは、それだけ言って、前を早く歩き始めた。
俺は、その背中を追った。
振り返らなかった。振り返れなかった。
頭は振り返りたいと思っているのに、体が振り返らせなかった。
しばらく歩いてから、トモさんが、ようやく口を開いた。
「0.9」
「1.1です」
「よし、これくらいなら大丈夫だろう」
「今のが、成れ果てだ」
「今の」
「たぶんな。確証はないが」
「何だったんですか」
「何かだった。それ以上は、わからん。動きと音に反応する。お前が動いたら、こっちを見た。お前が振り返ったら、終わりだった」
「終わり」
「たぶん、向こうに連れていかれた」
「……」
「お前、5秒、ちゃんと使えなかったな」
「使えませんでした」
「音には、人は反射的に反応する。これは、訓練しないとできない。だから、俺がいる」
トモさんは、それを、軽い口調に戻して言った。
「助かりました」
「助かったのは、お前が、最終的には振り返らなかったからだ」
「トモさんが、止めてくれたからです」
「俺が止めても、お前が振り返ったら、終わりだった」
トモさんは、それだけ言った。
俺は、胸の中で、何度か、深呼吸した。手のひらに、汗をかいていた。
「トモさん」
「ん」
「こういうのを、5,6回、経験してるんですか」
「こういうのは、まあ、ものによる。今のは、レアだ。俺もはじめてだ。まさか今回会うとは思わなかった。厄日に当たった」
「安定度Aだったのに」
「安定度Aでも、たまにある、ってのが、こういうことだ」
トモさんは、煙草を取り出して、火はつけずに、指で挟んだ。
残りの分断帯越えは、わりと、淡々と進んだ。
駅の構内のような場所を、通った。
誰もいない、無人駅。
改札も、券売機も、ホームもあった。
電車は止まっていなかった。
時刻表があったが、読まなかった。
学校の廊下のような場所を、通った。
教室があったが、中を覗かなかった。
白い空間を、通った。
何もない、ただの白い箱の中。
検知器は緑だった。
雑木林のような場所を、通った。
鳥の声がしたが、鳥は見えなかった。
検知器の数字は、最大で1.6まで上がって、それから、徐々に下がっていった。1.4、1.2、1.0、0.8——。
トモさんが、前を歩いていた。
「もうすぐだ」
「出口ですか」
「そう、西側の通行所の入口」
トモさんは、それだけ言った。
最後の廊下は、また、白くて新しかった。東日帝側の最初の廊下と、ほぼ同じ景色だった。
蛍光灯、白い壁、リノリウム。
ただし、廊下の突き当たりに、扉があった。
入ってきたときの扉と、同じくらいの大きさの、金属の扉。
扉の手前に、係員が立っていた。
白いシャツに、紺色のベスト。東日帝側の係員と、同じ制服のように見えた。
「お疲れさまでした」
係員が、軽く頭を下げた。
「035様、036様確認いたしました。ゲートにお進みください。」
係員は、扉のほうを、軽く手で示した。
扉が、ゆっくりと、開いた。
俺たちはその大きな扉をくぐった。
「改めて035、佐伯智則様。036、三輪聡様。改めてご到着確認いたしました。
俺の本名を、係員が、はっきりと読み上げた。
ああ、こっちでは、もう、本名を呼んでいいんだ。
横断できたんだとようやくホントの意味での息ができたきがした。
「ありがとうございます」
「ご無事で何よりです。では、この先へお進みください」
その先には、もう1つの待合室があった。東日帝側の待合室と、似ているが、微妙に違う待合室。
そして、待合室の窓の外に、夕暮れの京の街が、見えた。
山が、近かった。
山が、低い夕日に染まっていた。
東都とは違う、京の景色だった。




