第二ノ弐話「フォッサマグナ横断帯:通行局」
7月15日、朝5時半に、宿で目が覚めた。
目覚ましをかけていたが、その10分前に、自然に目が覚めた。緊張していたのだろうと思う。窓の外は、もう薄明るかった。蝉の声がしていた。
今日は、暑くなるとわかる空の色だった。
通行所近くの、簡素なビジネスホテル。
前日の夜にチェックインして、佐伯さんと夕食を取ってから、それぞれの部屋で寝た。
佐伯さんは「早く寝とけよ」とだけ言って、廊下の向こうに歩いていった。
俺はシャワーを浴びて、装備を最終確認した。リュック、水筒、簡単な食料、雨具、個人用の検知器。
すべて、佐伯さんが用意してくれたものだった。
ノートと鉛筆も入れた。ボールペンは持たなかった。
6時半に、佐伯さんが部屋のドアをノックした。
「行くか」
「はい、お願いします」
佐伯さんは、いつも通りのスーツっぽいラフな格好だった。
後ろで髪を結んでいた。
指に煙草を挟んでいたが、火はついていなかった。
通行所の中では吸えないから、ぎりぎりまで持っておくつもりらしかった。
ロビーで朝食を簡単に済ませて、タクシーを呼んだ。 空は、もう完全に明るくなっていた。
通行所は、東都の郊外、甲斐西部。
タクシーで15分行った先は、空港のような、大きな建物の前だった。
看板は、白い空の下で、ひと際白く見えた。
フォッサマグナ横断帯 通行管理局 第壱断帯通行所
東日帝側
俺は、初めて見るその建物を、しばらく眺めていた。ガラス張りの正面、低い建物、ただし横に長い。
空港のような印象だが、空港ではなかった。空港の搭乗ゲートよりは、もっと研究施設に近い雰囲気があった。
「初めて見ると、変な感じだろう」
タクシーの料金を支払いながら、佐伯さんが言った。
「空港みたいなのに、研究所のような。。。変な感じ、ですね」
「ここの建物、ほとんどは通行者の出入りに関する設備だが、一部は管理局の事務所と役所で、いくらかは表の建物じゃない」
「と、いうのは」
「入口は表だが、ゲートを開けると、もう向こう側だ。建物が裏に食い込んでるというか、向こう側にもあるんじゃないかと思ってる」
佐伯さんは、それを軽く言って、煙草に火をつけた。煙を一息吐いて、それから、すぐに消した。
「行くぞ」
建物の中は、外より明るく、白かった。空港のロビーのようだが、空港ほどの人はいなかった。
ロビーには、十人ほどの通行者が、それぞれの場所で、それぞれの準備をしていた。ガイドの腕章をつけた中年男性が、数人の客らしき集団を相手に、何かを説明していた。
商人らしき身なりの中年女性が、大きな荷物を係員にチェックさせていた。
学者風の眼鏡の男性が、書類を書きながら、隣に置いたノートに何かを書き込んでいた。
全員が、それぞれの理由でここにいて、それぞれの理由で西に行こうとしているらしい。
誰も、観光気分ではなかった。それぞれが、それぞれの仕事を抱えていた。
壁の電光掲示板には、今日の領域環境の情報が並んでいた。
本日の中央断帯通行状況
安定度:A(良好)
平均ゆがみ係数:0.7
推奨ペース:標準
通行所要時間目安:9時間〜11時間
「いい日ですね」
「ぎりぎりな、ましな日だ。ほんとはAA以上がよかった」
佐伯さんが言った。
「安定度Aでも、何か起きるときは起きる。マニュアル通りで、ちょうどいい日」
俺たちは、受付に向かって歩いた。
受付の女性は、四十代くらいで、白いブラウスを着ていた。佐伯さんが、慣れた様子で、書類の束を取り出した。
「予約番号四七二番、佐伯様お待ちしておりました」
女性は、画面で何かを確認して、それから、二つの番号札を差し出した。
「佐伯様、三輪様、それぞれの番号です。手荷物チェック、健康診断、装備チェック、最終受付、の順でお進みください。9時の集合場所は、第三待合室です」
「ありがとうございます」
佐伯さんは、番号札を1つ俺に渡した。札には、太い印字で「036」と書いてあった。佐伯さんのほうは「035」だった。連番だった。
手荷物チェックは、空港のセキュリティとほぼ同じだった。
リュックをトレイに置いて、ベルトコンベアに乗せると、画面が中身を映した。
係員が、画面を見ながら、何かを確認していた。
「問題ありません。」
係員は、軽く頷いて、リュックをそのまま返した。
佐伯さんも、自分のリュックを置いた。
係員は、同じように画面を見て、佐伯さんにも頷いた。佐伯さんが受け取って、こちらに小さく頷いた。
「次、健康診断」
佐伯さんは、慣れた歩き方で、奥のほうへ歩いていった。俺はあとに続いた。
健康診断は、前日に提携医療機関でも受けていたが、当日朝にもう一度、簡単な確認があった。
血圧、心拍、体温。それから、1枚の紙を渡されて、簡単な質問に答えた。
・本日の体調(とても良い/良い/普通/やや悪い/悪い)
・睡眠時間(時間)
・本日、ゆがみ酔いを起こしたことがある場合は記入
・本日、過去の裏体験を思い出していますか(はい/いいえ)
過去の裏体験を思い出していますか、という質問のところで、俺は、少し迷った。
前日にマニュアルを開いてから、子供のころのことを、何度か思い出していた。
はいにチェックを入れた。
医師は、その紙を見て、軽く頷いた。
「思い出してるんですね」
「ええ」
「強く思い出してますか?」
「強く、というほどではないです。ふと思い出すくらい」
「深く考え込まないようにできますか?」
「できると思います」
「できると思うで大丈夫ですよ。考え込みすぎないでください。考え込むと、向こうで影響が出てしまうことがありますから」
「気をつけます」
医師は、紙にサインをして、俺に返した。
「はい、では通行可です。お気をつけて」
「ありがとうございます」
装備チェックも、佐伯さんの後について受けた。
検知器を1つずつ渡された。煙草の箱を2回り大きくしたくらいの、灰色のプラスチック製。
電源を入れると、画面が点いた。緑のランプが、小さく光った。
「これ、肌に近いところに付けておけ」
佐伯さんが言った。
「ベルトのところとか?」
「そこでもいい。腰のあたりが一番、自分の体の異常を拾いやすい」
「自分の異常ですか」
「周りのゆがみだけじゃなく、自分の体のゆがみも拾う。気付かないうちに、ゆがみ酔いが進んでることがあるからな」
俺は、検知器をベルトのところに付けた。ベルト用のクリップがついていた。
佐伯さんは、自分の検知器を、もう少し上、ジャケットの内ポケットに付けた。
「胸のところでもいいんですか」
「俺は、胸のほうが慣れてる。正直、人によるとしか言えない。お前のやり方を見つけてくれ」
佐伯さんは、それから、ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出して、火はつけずに、指で挟んだ。
「あと、これな」
佐伯さんが、ポケットから、小さなメモ用紙を出して、俺に見せた。
トモさん
手書きで、それだけ書いてあった。
「俺はトモさん、お前はサトな」
「忘れたら、これを見ろ」
「覚えてますよ」
「いま覚えてても、向こうで忘れる。」
「気をつけます」
「肝に銘じるな」
『「銘じてるやつから、忘れる」』
俺がそう続けると、佐伯さんは軽く笑った。
「お前、覚えがいいな」
「部長と佐伯さんの口癖、もう3回くらい聞いてますから」
「便利な口癖だろ」
最終受付では、最新版のマニュアルが配布された。
『中央断帯通行手引書 泰康三十九年版 一般通行者用』。前日まで読んでいた前年版と、ほぼ同じ装丁だった。
表紙の色が、わずかに違うように見えた。
前年版が茶色だったとすれば、今年度版は少しだけ濃い茶色だった。気のせいかもしれなかった。
係員が、簡単な注意事項を読み上げた。
最新版で前年から変わった点、本日の気象的な注意、緊急時の連絡方法、などなど。
短いブリーフィングだった。
佐伯さんは、メモも取らずに聞いていた。何度も聞いた話なのだろう。
俺は、念のため、ノートに書きとめた。
ブリーフィングが終わると、係員は最後に言った。
「今日は安定度Aで、平均ゆがみ係数が0.7で良好な日です」
「ただし、良好な日でも油断はしないでください。良好な日に、何かが起きることも十分ありえます。それが裏領域というものです」
「では、みなさんご無事をお祈りします」
第3待合室は、ロビーの奥の、小さな部屋だった。
長椅子がいくつか出口に向かって配置されていた。出口は、大きな金属の扉だった。今は、閉まっている。
扉の上に、デジタル時計が掛かっていた。
08:46:23
時計の下には、看板があった。
本日のゲート開門予定:09:00:00
俺たちは、長椅子の1つに座った。
隣に、さっきロビーで見た、商人の中年女性が座っていた。彼女は、大きな荷物を膝の上に置いて、目を閉じていた。寝ているのか、瞑想しているのか、わからなかった。
その向こうの席に、学者風の眼鏡の男性が座っていた。彼は、本を開いていた。本のタイトルは見えなかったが、表紙の上に「第7章 鉱物の領域学」というラベルが貼られていた。領域学の本らしかった。
ガイドの腕章をつけた中年男性が、別の長椅子の前に立って、自分の客らしき4人組に、何かを最後に説明していた。「慌てないこと」「列を崩さないこと」「前の人に置いていかれないこと」と言っているのが、断片的に聞こえた。
これらの集団とは明らかにオーラの違う集団がいた。彼ら(?)は黄色の蛍光色の防護スーツに身を包んでいた
「佐伯さん、あの人達って何の人かわかりますか?」
「ああ、あの防護スーツの人たちか?ありゃ、領域救助隊だな」
「あれがそうなんですね。初めて見ました。」
「彼らのお世話になりたくなければ、しっかりマニュアルに従って思考を止めないことだな」
「公務員って大変ですね」
「ああ、給料は俺達の何倍も良いらしいが、救助のために裏の深いところに入らないといけないんだからな」
08:49:47
俺は、検知器の画面を見た。緑のランプが、ゆっくりと点滅していた。数字は 0.1だった。
東都の街中の数字だ、と思った。
「サト」
「おい、サト」
「あ。はい」
「最後にひとつだけ、いいか」
「はい」
「向こうで、何か奇妙なものを見ても、すぐに俺に言うな。先に、自分の頭の中で、5秒くらい考えてから口にしろ」
「5秒、ですか」
「そうだ、5秒、深呼吸でもしながら。じっくり思考を巡らせろ。慌てて口に出すと、口に出した言葉が、向こうで形になることがある」
「形に、ですか」
「たまにな。レアケースだが、ある。だから、慌てるな」
「わかりました」
「それと、繰り返すが絶対に俺の本名は呼ぶな。お前の名前も、自分から大声で言うな」
「はい」
佐伯さんは、煙草を、ジャケットの内ポケットに戻した。
時計が、08:55:00を示した。
扉の前に、係員が立った。
「第七十二便、通行者の方、ご起立ください」
俺たちは、立ち上がった。
扉の前で、係員が一人ずつ、番号札を確認した。
「035、佐伯智則様。036、三輪聡様」
俺の名前を、係員が、はっきりと読み上げた。本名を呼ぶのは、表で許されている最後の場面なのだろうと思った。
係員は、それから、扉のほうを向いた。
08:59:58。
2秒の沈黙。
09:00:00。
扉が、重い音を上げながらゆっくりと開いた。
俺は、その先を見た。
廊下が、続いていた。
ただの廊下だった。白い壁、白い天井、リノリウムの床、蛍光灯。どこかのオフィスビルの廊下のように見えた。
東都のどこかの古いオフィスビル、と言われても信じる景色だった。
それぐらいありふれた景色で違和感はなにもないのにそれが逆にとても不気味に感じた。
その廊下には、誰もいなかった。
蛍光灯だけが、こちらを照らしていた。
「では、皆様お気をつけて」
ガイド付きの集団が、最初に入っていった。
続いて商人の女性が。
その後学者の男性が続いた。
そして、佐伯さんが、こちらを軽く見て、頷いた。
俺は、足を、扉の向こうに踏み出した。




