第二ノ壱話 「フォッサマグナ横断帯:出張」
6月の終わり、編集部で原稿の校正をしていたら、部長に呼ばれた。
「三輪、ちょっと」
パーティションの中から、いつもの声がした。机の前で振り向くと、部長が、手招きしていた。
俺は、校正中の紙をひっくり返して机に置いて、立ち上がった。佐伯さんが、隣の席で、煙草に火をつけながら、ちらりと俺を見た。何か言いたげな顔だった。けれど、何も言わなかった。
パーティションの中で、部長は、また巻物を読んでいた。今日の巻物は、表紙に何かの紋様が描かれていた。蛇のような、または蔓のような、絡まった線の絵。
「来月、白祇祭りに行ってこい」
部長は、巻物を巻き戻しながら、言った。
「し、しらぎ祭り、ですか」
「ああ」
「すみません、というのはどこの祭りでしょう」
「え、お前」
「ああ、最近の東のはもう知らんのか」
「勉強不足で申し訳ないです」
「京の祭りだ」
「京の?西都のですか」
「他に京があるか」
「いえ」
俺は、立ったまま、部長の顔を見ていた。部長は、巻物を机に置いて、眼鏡を外した。
「7月の中ごろだ。白祇神社のギオン様の疫病退散の祭りだよ」
「御丑様っていう白い牛が、町を練り歩く。平安期から続いてる祭りだよ、歴史でやらなかったか」
「いや、すみません、西にはあまり興味がなく」
「行ってこいということは、取材ですか」
「次々号の特集の頭にしたい。『東日帝の人間が、初めて分断帯を越えて、西の祭りを見る』。お前、いいだろう、その絵」
「絵としては、いいですけど」
「行きたくないか」
「行きたくない、というほどではないですけど。いきなりで」
「いきなりじゃない。お前は、いつかは越えるべきだった。三年も裏情報を書いてて、まだ西を知らないってのは、書き手として弱い」
部長は、軽く言った。けれど、軽くではないことを、軽く言うのが、部長のいつもの言い方だった。
「分断帯、越えたことないですよ、俺」
「だろうな。佐伯と行け」
「佐伯さん、慣れてるんですか」
「5、6回は越えてる。お前ひとりじゃ無理だ」
部長は、机の引き出しから、何かを取り出した。茶色い表紙の、薄い冊子だった。
「これ、去年のマニュアルだ。今年の版は、当日に通行所で配布される。だが、これで予習しておけ」
俺は、冊子を受け取った。表紙に、**『中央断帯通行手引書 泰康三十八年版 一般通行者用』**と、黒い印字で書かれていた。装飾はなかった。古い書類のような匂いがした。
「読めば、たいてい大丈夫だ。ただ、読んだだけで全部わかった気になるなよ。本物は、本で読むのとは違う」
「肝に銘じます」
「肝に銘じるな。肝に銘じてるやつから、忘れる」
部長は、軽くそう言って、また巻物を開きかけた。
俺は、頭を下げて、パーティションの外に出ようとした。出ようとして、ふと、思い出して、振り返った。
「部長」
「ん」
「白祇神社って、京の、どのへんなんですか」
「北の、外れのほうだ。観光客はそんなに来ない」
「行ったこと、あるんですか」
「俺の地元のほうなんだ、そこは」
部長は、巻物を開きながら、軽く言った。あまりに軽かったので、聞き返すべきか、聞き流すべきか、一瞬、迷った。
俺は、聞き返すことにした。
「部長、京の出身、でしたっけ」
「言ってなかったか」
「言われてないです、たぶん」
「言わなかったんだろうな、たぶん。話すような話でもないし」
部長は、巻物の上に視線を落としていた。視線を上げないまま、続けた。
「ちゃんと取材して、ちゃんと書いてこい。お前は、盛らないやつだ。だから頼んでる」
「わかりました」
「あと、佐伯と打ち合わせろ。今日のうちに」
「あの、部長」
「ん」
「部長も、行ったらどうですか」
「は」
「いえ、その、地元なら、ご両親とかに顔出したり」
言ってから、少しだけ、後悔した。踏み込みすぎたかもしれない、と思った。
部長は、視線を上げて、俺のほうを見た。表情は、いつもと、たぶん、同じだった。
「そんな簡単に離れるわけにいかないだろ、編集部を」
「ああ、そうですよね」
「それに、俺の親は、もう二人とも他界してる」
部長は、それを、淡々と言った。
怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。ただ、事実として述べた、という言い方だった。
「あ、それは、すみません」
「謝ることじゃない。お前が殺したわけじゃないんだから」
「は、はい」
「行け。佐伯と打ち合わせろ」
俺は、もう一度、頭を下げて、今度こそ、パーティションを出た。
目のない鳥の剥製が、いつもと同じ角度で、首を傾けていた。
席に戻ると、佐伯さんが、煙草を吸い終わったところだった。灰皿に押し付けて、こちらを向いた。
「呼ばれたか」
「呼ばれました」
「京の話だろ」
「知ってたんですか」
「昨日、部長に言われた。お前と一緒に行ってくれ、って」
「あ、そうだったんですか」
佐伯さんは、軽く笑った。後ろで結んだ、少し長めの髪が、笑うと、わずかに揺れた。
「ちょっと、来い」
佐伯さんは、立ち上がって、編集部の隅の小さな会議室のほうへ歩いていった。
俺も、もらったマニュアルを持って、後に続いた。
会議室、と呼ぶには小さい部屋。長机と、椅子が四脚。
窓の外には東都の街並み。
窓ガラスに、初夏の日差しが当たっていた。
佐伯さんは、椅子の一つに座って、ジャケットの内ポケットから、新しい煙草を取り出した。
火はつけなかった。指で挟んだままだった。
「初めてだよな、三輪は」
「ええ」
「不安か?」
「少しは」
「正直でいい。慣れたやつほど、嘘をつくから」
「佐伯さんは、不安なんですか」
「不安だよ。何度越えても、不安だ」
佐伯さんは、笑わずに、それを言った。さっきの笑いと違って、本気の声だった。
「だから、ちゃんとしてる。マニュアル通り、装備通り、ペース通り。慣れた人が一番危ない、って、管理局の人がよく言う。そのとおりだよ」
「肝に銘じます」
「銘じすぎるなよ。銘じてるやつから、忘れる」
俺は、その一言を聞いて、少し笑った。佐伯さんも、軽く笑った。
「今、部長と同じこと言いましたよ、佐伯さん」
「そうか」
「『肝に銘じてるやつから忘れる』って」
「ああ、それは部長の口癖だ。俺が引き抜かれる前から言ってた」
「引き抜かれた、というのは」
「俺、別の出版社にいたんだよ、十三年前まで。部長に声かけられて、こっちに来た。断れない誘い方をする人だから、あの人は」
佐伯さんは、煙草を指で回しながら、軽く言った。
13年前、と言われると、ずいぶん前のように聞こえた。
佐伯さんは、入社してすぐの俺を知っている人だった。それはわかっていたが、その前、佐伯さんがどこにいて、何をしていたのか、考えたことがなかった。
「部長と長いんですね」
「長い。長いつもりはなかったが、結果的には長い」
「西、何度も行ってるって聞きました」
「5、6回。半分は取材、半分は私用」
「私用」
「向こうに、友達がいるんだ。何度か取材で行ってるうちに、できた」
「京、ですか」
「京にも、京の手前にも。今回、京に行くから、ついでに会ってくる」
佐伯さんは、煙草を、ようやくジャケットの胸ポケットに戻した。それから、机の上に、紙を一枚、広げた。
〈出発前日(7月14日)〉
・午前:健康診断(通行所付属の医療機関にて)
・午後:装備の最終確認、書類の提出
・夜:通行所近くの宿に前泊
〈当日(7月15日)〉
・06:00 起床
・07:30 通行所到着、最終受付
・08:30 マニュアル配布、装備チェック
・09:00 ゲート開門、出発
・16:00〜19:00 西側到着(時間に幅あり)
・到着後、京の宿へ移動、チェックイン
〈祭り当日(7月16日)〉
・午前:古祇神社へ
・午後:祭り取材(御丑様の練り歩き)
・夜:取材まとめ、二泊目
〈帰路(7月17日)〉
・午前:京の通行所
・09:00 ゲート開門、出発
・夕方 東日帝側到着
「三日で済むんですね」
「済む。詰まってるけどな」
「健康診断って、何やるんですか」
「血圧、心拍、簡単なヒアリング。あと、過去の裏帰り歴を聞かれる」
「裏帰りですか」
「過去に裏に落ちたことがあると、分断帯ではゆがみ酔いを起こしやすい。だから事前に確認する」
俺は、少し、口を開きかけて、止めた。佐伯さんは、軽く頷いた。
「知ってるよ、お前のことは。会社のほうで聞いてる」
「あ、そうですか」
「気にしなくていい。ゆがみ酔いは出やすいかもしれないが、耐性も高いほうに振れる。よく越える研究者には、裏帰り経験者が多い」
「そうなんですね」
「そういうもんだ」
佐伯さんは、それを淡々と言った。
俺は、自分が裏帰り者として扱われるのが、こんなに事務的なものだとは思っていなかった。
けれど、それで助かる、という気もした。
「装備は、こっちで用意しておく。リュック、水筒、簡単な食料、雨具、それから個人用の検知器。あとは、お前の私物は、最小限で」
「カメラは」
「持ってけるけど、内部で作動するかは保証されないぞ。ノートと鉛筆は持ってけ。鉛筆のほうがいい、ボールペンより」
「インクが乾く、とかですか」
「インクが、たまに、別のものになる」
「別のもの、というのは」
「具体的には、聞かないほうがいい」
佐伯さんは、それを、軽い口調で言った。
冗談なのか本気なのか、わからない言い方だった。
が、たぶん本気だ、と思った。佐伯さんは、こういう話を冗談ではしない人だった。
「マニュアル、しっかり読んでこいよ」
「読みます」
「特に、第陸章だけは、ちゃんと読め」
「第陸章、何ですか」
「禁忌。読めばわかる」
「わかりました」
「三輪、お前保険はいってるか?”裏落保険”」
「もちろん、こんな仕事ですから入ってますよ」
「よし、ならいい」
佐伯さんは、立ち上がって、ジャケットを軽く整えた。
「あと一個、聞いていいか」
「はい」
「お前、子供のころに、裏に落ちたんだろ」
「ええ、まあ」
「何か見たか?」
俺は、少し、黙った。
佐伯さんは、催促はしなかった。煙草を取り出して、火はつけずに、指で挟んだ。
「よく、覚えてないんです」
「そうか」
「生き物がいた、っていうことは、覚えてます。ただ、姿はあまり覚えてないです」
「うん」
「会いたかった、と思った気がしたりもします」
「わかった」
佐伯さんは、それ以上、聞かなかった。少しだけ、頷いた。
「それなら、いい。覚えてないなら、覚えてないでいい」
「はい」
「思い出しそうになっても、思い出さなくていい。特に、向こうでは」
佐伯さんは、それを、念を押すように言った。
俺は、頷いた。
「ああ、そうだ大事なことを忘れてた」
「領域内では絶対本名を口にするなよ」
「え、なんでですか?」
「成れ果てに食われる」
「えっ」
「なんてな、会うことなんてほぼないけど」
「脅かさないでください」
「でも、まじだから、ちゃんとマニュアル読んどけよ」
「だから領域内では俺のことは”トモさん”って呼べ」
「え、なんで」
「智則だからだよ。忘れてただろ。」
「すいません。」
「気にすんな。じゃ、打ち合わせ、終わりだ。マニュアルはっしかり読んでこいよ」
「はい、ありがとうございました」
その日の夜、家に帰って、夕食を食べてから、俺はマニュアルを開いた。
部長から渡された、去年版。
『中央断帯通行手引書 泰康三十八年版 一般通行者用』
表紙は厚手の茶色い紙で、印字は黒一色だった。
装飾はない。
中の紙も、ややくすんだ白で、軽い手触りだった。古い書類のような匂いがした。
目次を見た。捌章と附録に分かれていた。第壱章から第捌章まで、それぞれが短い章だった。
佐伯さんが、第陸章だけはちゃんと読め、と言っていた。
俺は、第陸章を開いた。
”フォッサマグナ横断帯裏領域禁忌”、と表紙に書かれていた。
十項目あった。番号がふってあり短い文ばかりだった。
その十項目を、二度、読んだ。
読むほどに、これは、本で読むものではないな、と思った。
文字の上では、簡単に言えることが、実地でやろうとすると、たぶん、まったく違うのだろう。
自分の名前を呼ばれたら、本当に振り向かずにいられるのか。たぶん、難しい。
ふと、子供のころのことを、思い出した。
あのとき、裏で、誰かが俺を呼んだ気がした。
あれは、母の声だったのか、別の何かだったのか、今となっては、覚えていない。
振り返らなかったか、振り返ったかも、覚えていない。
覚えていない、と佐伯さんに言ったのは、本当だった。
ただ、振り返らなかったから、自分は今、ここにいるのかもしれない、と思うことがある。それは、思い出ではなく、後から作った理屈かもしれなかった。
マニュアルを閉じて、机に置いた。
窓の外で、夜の街が、いつも通りに音を立てていた。電車が遠くを走る音、誰かが帰ってくる足音、犬の鳴き声、それから、近くの家のテレビの音。
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
京に行く、と思った。
来月、京に行って、御丑様を見て、ギオン様の祭りを取材して、そして帰ってくる。
それだけだ。
それだけだ、と何度か思った。
それでも、机の上のマニュアルが、いつもの夜より、少し重いものに見えた。




