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第二ノ肆話「フォッサマグナ横断帯:京の夜」

 西側の通行所での手続きは、東日帝側より、ずっと簡単だった。

 

 到着の確認、健康チェック、滞在記録の登録。それだけだった。

 係員は二人いて、一人は俺の書類を見て、一人は佐伯さんの書類を見ていた。


 係員同士は京の言葉で何かを話していたが、書類のやりとりは標準語だった。

 

「お疲れさまでした、三輪さん」

 係員の女性は、四十代くらいで、髪をきっちりと結っていた。

 標準語の中に、わずかにイントネーションの違いがあった。「お」の音が、東日帝より、わずかに低いような気がした。

 

「ありがとうございます」

「ご滞在中、お気をつけて。お帰りの便は、17日の朝でよろしいでしょうか」

「はい」

「では、17日朝、こちらの通行所にお越しください。8時受付開始、9時開門です」

 係員は、慣れた口調で言った。東日帝側と、同じ流れだった。

 

 俺は、軽く頭を下げて、通行所の出口に向かった。


 通行所の出口を出ると、外の空気が、変わった。

 東都の夕方とは、空気の質が違った。

 

 うまく言葉にできなかった。


 湿度が違うのか、温度が違うのか、それとも、もっと別の何かなのか。


 京の空気、と一言で言ってしまうのは簡単だが、その「京の空気」が何なのか、説明はできなかった。

 ただ、東日帝の空気ではなかった。

 

 佐伯さんが、隣で煙草に火をつけた。


 今度は、ちゃんと吸った。

 長い一服。

 そして、煙を、長く吐いた。


 「着いたな」

「着きましたね」

 

「西側は新鮮だろ」

「そうですね、こう、なんというか空気が違うというか」

「そうだな何かが違う、とは思うが何が違うかわからない」

「そうですね」

 

 佐伯さんは、軽く笑った。

 笑うと、目尻の皺が、東都にいたときよりも、深く見えた気がする

 

「京の空気は、覚えると、忘れない」

「忘れない、というのは」


 「何回来ても、最初の数分でこれだ、ってわかる。京にきたーってのがわかる。」

 佐伯さんは、それを、軽く言った。

 

 俺は、通行所の前に広がる景色を、見渡した。

 山が、近かった。

 

 通行所の建物の向こうに、緑の山が、すぐ見えた。

 東都では、山は、遠くにしか見えない。


 ここでは、手を伸ばせば届きそうな距離に、山があった。

 空は、夕暮れに染まりつつあった。

 茜色と、薄い紫が混ざった、京の7月の空。

 

 蝉の声がしていた。東都の蝉と、たぶん、同じ種類だった。

 でも、鳴き方が、わずかに違う気がした。


 佐伯さんが、煙草を吸い終わって、足元の灰皿に押し付けた。

「タクシー、呼ぶか」


 タクシーは、すぐに来た。

 運転手は、50代くらいの男性で、白い手袋をしていた。

「どちらまで?」

 

 運転手の声に、京の言葉のイントネーションが、はっきりとあった。

 「どちらまで」の「まで」が、東都の言い方より、わずかに上がっていた。京弁、というほど強くはないが、確かに違う。

 

「春日小路の、緑風荘までお願いします」

 佐伯さんが、慣れた様子で言った。

 

「緑風荘さんね、はいよ」

 運転手は、軽く頷いて、車を出した。

 

 車の窓から、京の街が、流れていった。

 

 まず、家の屋根の形が、東都と違った。

 木造の、瓦屋根の家が多い。


 東都では、もうほとんど見なくなった、低い二階建ての木造の家が、ここでは、まだ多く残っていた。

 道幅も、東都より狭い気がした。

 京の中心部に近づくにつれて、道が、より碁盤目状になっていく。

 歴史で習っただけの平安京のつくりを生で見てみると美しくすら感じる。

 

 そして、神社。

 神社が、町のあちこちにあった。


 タクシーで通り過ぎる十数分のあいだに、俺は、少なくとも3つの神社を見た。鳥居が、家と家のあいだから、すっと見える。


 「多いですね、神社」

「多い」

 佐伯さんが言った。

 「京は、神社が多い」

 

「東都も、神社はあるけど、こんなには」

「東都の神社は、観光地か、すごく古いやつしか残ってない。京は、町のあちこちに、ずっとある」

 佐伯さんは、それを、軽く言った。

 

 運転手が、ハンドルを握りながら、ちらりと、ミラー越しに俺を見た。

「お客さん、東のほうから?」

「ええ、東都から」


 「初めて、京、来はったんですか」

「はい、初めてです」

 

「そうですか。今、ええ時期に来はりましたなあ」

「ええ時期、というのは」


 「白祇祭り、もうすぐですやろ。あれ見に来はったんですか」

「ええ、その取材で」


 「おお、取材っちゅうと記者さんですか」

 「はい、雑誌の記者なんです」


 「ああ、そら、ええもん見られますわ」

 運転手は、それを、満足げに言った。


 白祇祭りは、京の人々にとって、誇りなのだろう、と思った。

「運転手さん、白祇祭り、よくご存知ですか?」

「そら、地元やもん知っとるよ」

「毎年、見に行かれるんですか?」

 

「毎年とは行かんけど、何年に1回は行きますな。御丑様の練り歩き、あれはね、ほんまに見てるだけでありがたいって思わされますわ」

「ありがたい」

「ええそうです。こう、なんといいますか、ま、見たらわかりますわ」

 運転手は、それだけ言って、笑った。


 緑風荘は、町中の小さな旅館だった。

 春日小路という通りの、奥のほうにあった。


 古い木造の二階建て。

 入口に、藍色ののれん。

 のれんに、白い字で「緑風」と染め抜かれていた。

 

 タクシーを降りると、のれんの向こうから、女性の声がした。

「おいでやす」

 おいでやす、と言うのを、初めて、目の前で聞いた。

 おお、京の言葉だとすこし感動した。

 

 女将は、50代くらいの女性で、藍色の着物を着ていた。

 佐伯さんが顔を出すと、女将は、嬉しそうに頬を緩めた。

 

「佐伯さん、お久しぶりやないですか」

「ご無沙汰してます」

「お元気そうで」

「おかげさまで」


 「今日も、お部屋、いつものとこ用意しときましたよ」

「ありがとうございます」

 

 佐伯さんは、慣れた様子で、女将と短い挨拶を交わした。

「こちら、同行の三輪です」

 佐伯さんが、俺を紹介した。

 

「初めまして、三輪と申します」

「まあ、ご丁寧に。緑風荘の女将の、ちか、と申します。今晩は、よろしゅうお願いします」

 女将は、軽く頭を下げた。

 

「ちか」さん、という名前を、俺はノートに書きとめようと思った。京の女将の名前として、覚えておく。


 部屋は、二階の、廊下の奥にあった。

 和室。畳。床の間に、掛け軸。掛け軸には、何かの花の絵が描かれていた。白い花だった。たぶん、季節の花。

 

 窓を開けると、狭い庭が見えた。苔と、石と、低い灯篭。

 それだけの庭だった。


 東都のホテルの窓から見える景色とは、まったく違った。

 佐伯さんが、隣の部屋に荷物を置いて、こちらに顔を出した。

 

「夕飯、下で食うか、出るか、どっちにする」

「あわせます」

 

「じゃあ、今日はここで食おう。明日が祭りの本番だから、今日は、軽めに」

「わかりました」

 

「それと、夜、俺、ちょっと出る」

 佐伯さんは、軽く言った。

 

「例の友人ですか」

「ああ、夕飯食ったあとに会う約束だ」

「わかりました」

 

「お前は、宿でゆっくりしてろ。明日、朝から忙しい」

「はい」


 「何かあったら、フロントに言え。女将さんも、いる」

「ありがとうございます」

 佐伯さんは、それだけ言って、自分の部屋に戻った。


 夕飯は、一階の食堂で、佐伯さんと二人で食べた。

 京の家庭料理、というふうな献立だった。

 湯豆腐、湯葉、京野菜の煮物、白米、漬物、味噌汁。

 派手な料理は何もなかったが、すべて丁寧に作られていた。

 

「美味しいですね」

「緑風は、料理がいいんだ」

「長いんですか、こちらと」

「最初に京に来たとき、紹介された宿だ。それから、何度か泊まってる」


 「ちかさんも、長いんですか」

「俺が初めて来たときには、もう女将やってた」

 佐伯さんは、湯豆腐をひと切れ、口に運んだ。

 

「三輪、明日の取材、誰に話を聞く予定だ」

「白祇神社の宮司さん、まず」

「ああ、宮司さんね」


 「それと、可能なら、巫女さんと、御丑様に近しい方の誰かに」

「あー、巫女、聞けるかな」

「聞けないですかね」

 

「祭り当日に、巫女と直接話すのは、難しいかもしれない。あの人らは忙しい」

「そうですか」

 

「だが、神社の人に、頼んでみればいい。ダメなら、また別の日に」

 佐伯さんは、それから、湯葉を箸で取りながら、軽く言った。


 「御丑様は、見るだけで、十分な絵になる」

「そうですか」

「見れば、わかる」


 夕食を終えると、佐伯さんは、ジャケットを着て、宿を出ていった。

「じゃ、行ってくる」

「いってらっしゃい」

「早く寝とけ」

「はい」


 佐伯さんが出ていったあと、俺は自分の部屋に戻った。

 畳の上に、布団が敷かれていた。


 ちかさんが、夕食の間に、敷いてくれていた。

 枕元に、小さな照明。

 そのまわりに、ちかさんが置いていったらしい、京の地図と、明日の天気予報の紙。

 

 気が利く宿だ、と思った。

 

 俺は、布団の上に座って、ノートを開いた。

 今日の出来事を、思い出しながら、書きとめた。

 

 朝の通行所。

 ゲートの開く瞬間。廊下、駐車場、階段、古い廊下、人形、踊り場、露店街、駅、教室、白い空間、雑木林。

 人形の笑顔。触りたい、と思った瞬間。トモさんが、止めてくれた。

 

 露店街の、たこ焼きの匂い。お腹減りますね、と言いそうになって、止めた。

 シャン、シャン、シャン、という鈴の不気味な音。

 動くな、振り返るな、息をしろ、というトモさんの早口の声。視界の隅で、何かが通り過ぎていく感覚。

 

 書きながら、思い出すこと自体が、少し怖い気がした。

 でも、書かないと、忘れてしまう。

 記者の仕事は、忘れないことだ、と思った。

 

 俺はノートに、最後に一行、書いた。


分断帯越え——景色は変わる。記憶は、変えてはいけない。


 ノートを閉じて、布団に横になった。

 

 京の夜は、静かだった。

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