呪詛【拾】
志子の姿がすっと薄くなっていくのに合わせて、時嵩の意識も遠くなった。一瞬気を失ったと思うと、はっとした。
斎院御所の母屋だ。とっくに日は暮れていて、月明かりもない。細い星の光で、時嵩が先ほど志子と話していた、と思っていたのと同じ場所に立っているのがわかった。
先ほどの邂逅は、本当に時嵩の妄想だったのだろうか。それとも夢? 本当に志子が現れたのだろうか。
「……那子」
志子が那子の夢渡の力を借りたと言っていたのを思い出し、時嵩は那子に駆け寄る。まだ眠ったまま、結界に囲まれている。こちらは大丈夫だと息を吐く。
ついで宇治重玄を見ると、少し離れたところに倒れていた。こちらも意識がないようなので、呪術的にも物理的にも拘束しておく。そろそろ、久柾が検非違使を動かしてくれているだろう。彼は弾正尹宮なので、検非違使にも顔が効く。
検非違使が駆けつける前に、那子だけでも場所を移してしまいたいが、結界が阻んで時嵩すら触れることができない。志子は脅威が去れば自然に目覚めると言っていたか。
「五十鈴。五十鈴。聞こえるか。那子」
何度も呼びかける。ふと気づいて、時嵩は結界に沿うように膝をつくと、小さく口を開いた。
「―――」
そっと呼んだのは那子の真名だ。彼女は那子女王と呼ばれているが、これは正確な真名ではない。預かっていた真名に力を乗せて呼びかける。
「お前に触れさせてくれ」
そっと手を伸ばす。結界に触れるのに一瞬ためらったが、思い切って手を伸ばす。少しの抵抗を感じたが、手が結界を通過する。時嵩は両手を伸ばして那子を抱き上げた。振動を感じたはずだが、その目は開かない。
宮様、と時嵩を呼ぶ声と大勢の足音が聞こえる。時嵩は抱き上げた那子を賀茂の斎院の昼の座所として使っていた奥の間の畳の上に寝かせた。もともとかけられていた袿を体にかけてやり、御簾を降ろす。一人にしてしまうのが不安すぎる。こういう時、式を扱えるといいのだが。
那子の頬に口づけてから、「ここだ」と声をあげて御簾の外に出る。検非違使がどたどたと母屋に入ってくるところだった。
「宮様、ご無事で」
「こちらは問題ない。それが術師だ」
「はっ」
検非違使がてきぱきと宇治重玄を拘束していく。少し遅れて顔をのぞかせたのは久柾だった。母屋を眺めて、「懐かしいな」と目を細める。賀茂の斎院・志子は久柾の一番上の姉だ。那子のこともあり、交流があったので懐かしくも感じるだろう。
「臘月、姫は」
小声で尋ねる久柾に、時嵩は彼の後ろに那子の女房の空木がいることに気づいた。御簾の裏です、と同じく小声で応える。空木がうなずき、御簾の後ろに入った。どうやら、那子がいることを考慮して女房を連れてきてくれたようだ。
検非違使がたたいても縛り上げても起きない宇治重玄が気になりつつ、時嵩は久柾に尋ねた。
「五条のお邸は大丈夫なのですか」
時嵩は久柾が残るので五条邸は安全だろうと踏んでいたのだが、本人がこちらに来てしまった。今、邸の守りは大丈夫なのだろうか。
「術師の意識がお前に向いているのなら問題なかろう。それに、うちの北も何もできないわけではない」
久柾の北の方、朔子は源氏姓だ。つまり、臣籍降下した皇子の血を引くのである。確かに、何もできないわけではないだろう。
「なるほど」
うなずいた時嵩は息を吐いた。自覚すると、急に疲れが出てきた。久柾は陰陽寮も連れてきてくれたので、宇治重玄を投獄するところまで付き合う必要はないが、一度大内裏に顔を出しておきたい。もう夜だが。
那子のことは久柾と空木に任せ、時嵩は一度出仕した。夜だと言うのに、帝はまだ起きていた。就寝していなくても、後宮に残っている女御と共にいる可能性もあったことに途中で気づいた。
「夜分に申し訳ありません」
「いや、私も今夜何か起こると思っていたからな」
その言葉で、帝も術師としての才があるのだ、と言うことを思い出した。時嵩も那子も久柾も朔子も帝も、同じ皇族の血を引く。
簀子から空を見ていた帝と御簾の中に入り、口を開いた。
「宇治重玄をとらえました」
「ああ。検非違使から報告が上がっている」
どうやら、検非違使の方が早かったようだ。報告は検非違使からだったが、捕らえたのは時嵩だろうと思っていたそうだ。
「お前が飛び出していったと聞いたからな。斎宮の君に何かあったに決まっている」
当然のように言われたが、解せない。顔に出ていたのだろう。帝が軽く笑った。
那子に何かあったのなら、宇治重玄が動いたのだろう、と思ったそうだ。時嵩は報告しなかったが、久柾はちゃんと帝に秘密裏に一報を入れていた。五条邸には倭子がいて、帝の皇子がいる。この子も狙われているかもしれないのだから、当然だ。
「飛び出していったと聞いたが、顛末を知らせには来てくれたようだな」
「申し訳ありません」
頭から抜けていた。帝は「秘密裏に運んだことだからな」と時嵩をとがめず、那子の様子を尋ねた。
「して、斎宮の君は無事か?」
「そうですね……一応、無事です」
「含むところのあるような答えだな」
身体的には無事ではあるが、目を覚ましていないので完全に無事とは言い難い。時嵩が声をかけることで結界の解除には成功したので、今頃目を覚ましているといいのだが。
「報告がてら、気になることもありましたので参内しましたが、詳しくは後日に」
「わかっている。私も安心して眠れそうだ」
鷹揚にうなずく帝を見て、安全が確認されれば、倭子が内裏に戻る日も早まるから機嫌がよいのか、とふと気づいた。昔なら気づかなかっただろう。尤も、倭子は殿舎を移ることになるので、その用意のためすぐには戻れないだろう。
時嵩もあまり長居はせず、後涼殿を出る。何しろ、帝の寝所に控えている尚侍の君に睨まれている。夜分遅かったので当然であるが。
中務省により気になった資料を確認し、久柾の五条邸に戻るころには明け方近くになっていた。夏の盛りは過ぎたとはいえ、まだ日が昇るのが早い。
那子の局に顔を出すと、浅葱が那子を見守っていた。彼女はまだ目覚めていないらしい。近くに控えている、と言い残し、浅葱が下がると、時嵩は那子の顔を覗き込んだ。頬に触れると、温かい。生きている。
「いろいろと、意味深なことを言ってくれたな」
眠っている妻に恨みがましく言ってみる。おかげで振り回された面もあるのだ。時嵩が、那子の予知はよく当たることを知っていて、信じすぎた面もあるのかもしれないが。
「……お前の意見を聞きたい。……いや」
もっと純粋に。
「お前の声が聞きたいんだ、那子」
斎院の女宮に頼まれたからとか、そう言うことではなくて、ただ、彼女の声が聞きたいのだ。
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